抹茶モンブラン

4.告白

どれぐらい車が走って、どれぐらい自分が泣いたのか分からない。
気付くと車は静かに止まって、ガランとした駐車場にいるのが分かった。

「着いたよ。でも、ここから走って帰るのも無理だろうから、落ち着いたらちゃんと送るよ」
堤さんは私に自分のハンカチを差し出して気まずそうにしていた。

「……」
私は何て答えていいのか分からなくて、グスグスと鼻をすすりながら彼のハンカチで目を拭った。
でも、拭っても拭っても涙が止まらなくて、困った。
ここまで泣くつもりじゃなかったんだけど、過去の悲しい思いがいっきに押し寄せていてどうにもならない。

いたたまれなくなったのか、堤さんは運転席から外に出て真っ暗になった海を眺めていた。

しばらく私は助手席で泣いていたけど、そのうち気持ちも落ち着いてきて、自分も車を降りてみた。
ビョオーっとすごい風が吹いて、私のスカートをひるがえした。

「うわ、やっぱり海って風強いんだ」
私は思わずそんな事を言ってスカートを押さえた。

「上に上がるともっとちゃんと夜景が見られるよ」
堤さんは泣き腫らした私に余計な事は言わないで、上にあがっていった。
一人で駐車場に残っているのも嫌だったから、私はその後ろに従った。

お店は食事する場所が少し開いていたけど、人はほとんど居なかった。

「何か食べる?」
そう言われたけど、私は首を横にふった。
何も食べたくない。
胸に苦しいものがつっかえていて、とても固形物は通りそうになかった。

「んじゃ、ちょっと待ってて」
そう言って、彼はスタバに入って行った。
思いっきり甘いキャラメル味のコーヒーを買って、私に「どうぞ」と手渡してきた。

「…ありがとうございます」

さっきまでの彼に対する怒りが和らいで、私はその暖かいコーヒーを少し飲んだ。
ホッとして、またポロッと涙がこぼれた。

「参ったな…こんなに泣かれると思わなかった。さっきのは冗談だよ。まあ、最低な冗談だったかもしれないけど」
後頭部をボリボリとかいて、彼は困った表情をしている。

「アシスタントに乙川さんをってお願いしたのは事実だよ。でも、…僕の言い方が悪かった」

彼なりに精一杯さっき車の中で言った言葉を弁解していた。

「何であんな事言ったんですか。私の事癒しの道具みたいに…」
私はまだ多少恨みがましい事を言った。

堤さんは頭をくしゃくしゃっとさせて、手にしていたコーヒーを少し飲んだ。

「これって言い訳になるけど……。限界なんだよ…頭も体も。何か、生きてる実感が無いっていうか。このままだと仕事だけで死んで行く気がしてさ」

そう言った堤さんは、確かに疲労で立っているのもつらそうだった。

「乙川さんって僕の“陰な気分”を封じ込める力があるんだよね…、去年入った頃から何度か姿見かけるだけで気分が晴れた。ある意味、君は僕の特別な存在だ」
まるっきり嘘でも無さそうな様子で、彼はそう言った。

言葉なんか一度も交わした事の無い人だ。
彼を励ましていた覚えも無い。
そんな人が、どうして私の存在を特別だなんて思えるんだろう。

私の心の中は、猜疑心でいっぱいだ。

「私、そんなふうに思われる価値ありませんよ」
「自分の価値って自分で決めるものなの?」
「いえ、そういうんじゃないですけど…」

堤さんの言葉を素直に受け取れない。
私の本来の姿を何か別のものと見間違ってるんじゃないかって気がする。

心のどこかで、堤さんも私を前夫と同じ種類の人間なんじゃないかと勘ぐっていた。
最初はいい顔をして私の事を必要だなんて言っておいて、時間が経つと別の若い女性に気持ちが流れる。
私はそういう男性に目をつけられるタイプなんだろうか。

何十年も先の未来を一緒に歩ける人ってこの世に本当にいるんだろうか。

親以外の他人に、心から愛されるってどういう感じなんだろう。

私は本気で誰かを愛してきただろうか。

様々な疑問が沸いては消えていく。

私が踏んできた失敗の原因は、結局私の中にあるんだと思っている。
自分の望む将来像とか、どういう人とならその将来を生きられるのか…とか、そういう「生き方」を決めていなかったのが原因なんじゃないだろうか。
だから男性から好かれると、“好かれた”という事実だけで舞い上がってしまっていた。
人を愛するっていう事を、私はわりと簡単に考えすぎていたような気がする。

堤さんがもし、私を人形みたいに思っているなら、明日にも仕事を辞めようと思っていた。
そんな役目だったら、私なんかよりもっと適任がいるはずだ。
プライドを捨ててまで今の仕事にかじりつく気にはなれない。

「堤さんは、私の何をいいと思ってくれたんですか」
私はそんな事を聞いていた。
せめて内面的なものを認めてくれているなら…という微かな期待が残っていた。

遠くに見える東京と千葉の夜景が、思った以上に綺麗で、心も少し開放的になった。
堤さんもその景色を見ながら、ホウッと一つため息をついた。

「…だから、さっきも言ったみたいに、存在だよ。外見がどうこうじゃなくて…何ていうか。笑顔を見るだけで嬉しくなる。職場ではこんな親しい口は利けないけど、たまにこうやって君と話したり笑ったりしたい。人間らしい気持ちを取り戻したいんだ…おかしいかな、こういうの」

笑顔。
私、そんなに笑顔になった事あったかな。

そう思うぐらい数少ない私の笑った瞬間を、彼がキャッチしていたっていうのは驚きだ。

「いえ、おかしいとかは思いませんけど」

「……僕の傍で仕事するのが嫌になったんなら、また事務の方に戻ってもらってもいいよ」
自分のコーヒーを飲みきって、そのカップを手すりのあるコンクリートの上に置いて彼は振り返って私を見た。
その瞳は、仕事をしている時の鋭いものじゃなくて、弱りきった子犬みたいだった。

思わずその表情に心が揺れる自分がいて、戸惑う。

仕事で死にそうなほど追い詰められている彼の苦悩。
この本心を誰にも言えなくて、きっとずっとつらい状態を一人で乗り越えてきたんだろう。
色気漂ういい男なのに、女性の噂が立たないほど仕事に追われている。
こうやって私と過ごしている時間だって、本当は彼にとっては相当貴重なものなのに違いない。

「同情してる?僕に…」
黙っている私に、彼はそう聞いてきた。
慌てて首を横に振る。

「いえ。ただ、私と似てるなって思って…堤さんの目。私が毎日鏡で見る自分の目にそっくりなんですよ」

そう、私も毎日弱りきった子犬みたいな目をしている。
誰かに拾ってもらわなかったら、明日にでも死んでしまいそうなほどつらい状態なのに、その心を伝える手段が無くて。

ストレスの吐き出し口が分からなくて、毎日迷路を歩いているみたいな感覚だ。

この気持ちが堤さんと同じだとは思わないけど、少なくとも日々追い詰められた状態なのは一緒みたいだ。
誰にも心を開かず、誰の事も信用せず、自分だけを信じて生きている彼は、当然敵も多いし陰口の対象になりやすい。

孤独が好きな人間なんて、そうはいないと思う。
誰だって、独りで生きるのは寂しいはずだ。

一人でいい。
世界中でたった一人でいい。

愛する人に出会いたい…愛される存在でありたい。

私は、夫と別れてからずっとこんな事を思っていた。
そんな存在に出会えるかどうかなんて全く分からなかったけど。

堤さんはどうなんだろう。
車の中でのセクハラな言葉は、孤独な彼が発した魂のヘルプだったようにも感じられてきた。

「私…具体的に何をすれば堤さんのお役に立てるんですか?」
ふと自分の存在が彼を少しでも救えるなら、私も生きる価値を見出せるような気がした。
それが世界で唯一の相手でなかったとしても、今この瞬間を支えるのがお互いの心に必要なら、傍にいる事も嫌ではないと思っていた。

波がバシャンバシャンと音を立てる中、少しの沈黙の後、堤さんは言った。

「いてくれるだけ。それだけでいい。君の顔を見ていたい…本当にそれだけさ」

誰もいない海ほたるの甲板みたいなつくりになった場所で、私と堤さんは見つめ合っていた。

「あの、それって仕事のフォローをしていればいいって事ですか?」
「君がそれ以上の事を望まないなら、それでもいい。僕としては、たまにこうやって話せたら嬉しいけど」
「オフでのお付き合いも…って事ですか?」
「そうだね」

ハッキリしなかったけど、彼は私に交際を申し込んでいるようだった。

私は普通の人間だ。
社会経験も浅いし、特に自慢できるようなものは何も持ち合わせていない。
正直、堤さんのレベルに相応しい人間とは思えない。
すぐに彼の申し出を受け入れていいものか、当然迷った。

「レベルって何。人間にレベルってあるの、何で測定するの?」
私がレベル云々の事を告げると、真剣な顔でそう切り返された。

「いえ、そういうのは無いですけど…」
「ひとつだけ聞きたい。僕が嫌い?それとも嫌いじゃない?」

好きか嫌いかと聞かれたら、「嫌いではないです」とか答えようがあるけど、「嫌いか嫌いじゃないか」って聞かれると答えにくい。

「…嫌い…ではないです」
あんな子犬みたいな目を見せられて、ここまで真剣に迫られると私もハッキリNOとは言えなかった。

「じゃあ…これから好きになって」
そう言って、彼は唐突に私を強く抱きしめた。
私はびっくりして、声も出せず彼の腕の中にいる自分を確認するだけで精一杯だった。

「君が僕を好きになるまで、いつまでも待つよ」
「堤さん…」
ずっと気を張っていたけれど、彼の腕に抱かれてみたら心がジンと熱くなって、体もフワリと軽くなるのが分かった。
彼のシャツから独特の香りがして、潮の匂いと混ざって何とも言えない官能的な気分にさせられた。

「私の心もそれほど余裕無いですけど…、傍にいるぐらいなら出来そうです」
「十分だよ、それで」

私に対してどこまでの関係を望んでいるのか分からなかったけれど、堤さんに本気で必要とされているみたいだ。

孤独な狼みたいな堤さん。

私の悪条件を全て知ったら、彼はどういう反応をするだろうか。
多少そこが不安になったりもしたけど、堤さんは皆が言う程変人でもなくて、ただただ孤独に打ちひしがれる一人の男性だという事が分かった。

そんな彼の傍にいるのは嫌じゃないな…と、私は思い始めていた。


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