抹茶モンブラン

2−4.キス・キス・キス

ずっと車に乗っていても仕方ないから、結局車は私のアパートの駐車場に戻ってきた。
少し気持ちも落ち着いたようで、堤さんの表情も最初の頃よりは穏やかになった気がする。

彼の事は好きだけど、ギリギリになると人が変わったみたいになる部分があるのは多少怖いと思ってしまう。

「あまり綺麗になってないですけど」
私はまさか今日堤さんが自分の部屋に上がると思ってなかったから、結構ちらかった部屋に恥ずかしながら通した。
彼を自分のアパートに入れたのはこれが初めてだ。

「僕の部屋の数倍綺麗だよ。神経質なわりに、掃除が下手でさ。今度掃除する専門会社に頼んで一度徹底的に綺麗にしてもらおうかと思ってるぐらいだよ」
私が行った時には比較的片付いていたけど、あれは相当頑張って片付けたって事だろうか。
そんな事を思ったら、ちょっと心が緩んだ。

「お茶入れますね。ソファにでも座っていてください」
「うん、ありがとう」
彼は素直にソファに座って、テーブルに置いてあった新聞を読み出していた。

何だか男性がこの部屋にいるっていうのはすごく不思議な感じがする。
毎日ここで彼に渡す為のお弁当やらお菓子やらを作ったりしている。
その相手がソファに座って新聞を読んでいる。

彼が居てくれると思うだけで、すごく安心できてしまうのはどうしてかな。
もう私は堤さんに頼りきってしまっているんだろうか。
彼は私を好きになり過ぎてるとか言っていたけど、私だって堤さんが言うよりずっと彼を必要としている気がする。

たっぷり注いだアッサムティー。
お好みでミルクも入れられるようにセットして、彼の前に運んだ。

「甘いのが好きでしたら、お砂糖も入れてください」
あまり自分では使わない角砂糖の入れ物を久しぶりに取り出してテーブルに乗せた。

「うん、恥ずかしいけどコーヒーも紅茶も角砂糖2個は入れないと飲めないんだ」
子供みたいに照れた笑顔を見せて、彼は包み紙に入っていた角砂糖を2個ポンポンとミルクたっぷりのカップに入れた。
きっとミルクの濃厚さと砂糖の甘さで口の中がまったりとなるだろうな…っていう紅茶だ。

私はその様子を楽しく見つめながら、自分はストレートのまま紅茶を口にした。
やっぱり少しミルクを入れた方がアッサムティーは美味しいなと思って、ミルクを追加する。

「こうやってると、何か…乙川さんと一緒に暮らしてるみたいな感覚になるなあ」
カップをテーブルに一度戻して、広げてあった新聞をたたみながら、堤さんはそんな事を言った。
「そうですか?」
「うん。ここに座ってくれたら、もっとそういう気分になるよ」
そう言って、彼は自分の座っているソファの半分を空けてポンポンとたたいて見せた。

床に座っていた私は、照れながらも紅茶カップを手にしたままソファに移動した。

「どうやったら君を夢中にさせられるんだろう」
堤さんの瞳が私をじっと見つめているのが分かる。
「もう…夢中ですよ」
「いや、僕との約束忘れるなんて、全然軽い状態だよ。悔しいなあ…僕の方が負けてるなんて」
恋愛に悔しいっていう言葉が出るのは何だか面白いなと思って笑ってしまった。

「可笑しい?」
「だって、堤さん真面目な顔して変な事言うから」
「ねえ、その堤さんっていうのもそろそろ止めてくれないかな」
そう言って、彼はカップを持つ私の手に触れてきた。

「えと…下の名前って光一さんでしたっけ。光一さん…でいいですか?」
紅茶がこぼれかけたから、慌ててカップをテーブルに戻した。
「うん、いいよ。僕は君を鈴音って呼ぶよ、名前も君って涼やかな響きなんだな」
思っても無いほどの彼のセクシーな声に、私の体は軽く震えたぐらい感じてしまっていた。

「こう…いち…さん?」
どうしたって、職場で上司として見ている彼を呼び捨てにするのは相当な抵抗感があった。

「鈴音…、鈴音。いい名前だね、誰がつけたの」
「祖母が。祖母が鈴の音みたいに可愛らしく育ちますようにってつけてくれたんです」
「そうか。それで、君はその通り育ったんだ」
真面目な顔でそんな事を言われて、私はたまらず顔に手を当てて、自分の頬の火照り具合を確かめていた。

顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
自分の下の名前をこんなに深く探られたのも初めてだったし、いい名前だねって何度も呼ばれるのも初めてだ。

「このまま眠ってしまいそうになるな、鈴音の声を聞いていたら…眠くなってきた」
そう言って、彼はソファにゴロンと横になった。
実際相当疲れているみたいで、彼はすぐにスースーと寝息を立てて本当に寝てしまった。

「つつ…じゃなくて、光一さん…、光一さん!こんな風に寝てしまったら体痛いだけですよ」
そう声をかけてみたけれど、彼はすっかり安心した顔で眠っている。
シャツがしわになってしまいそうだったけど、起こすのは無理だったから、私は彼の体にタオルケットをかけて、しばらくそのまま彼の寝顔を眺めていた。

この人もちゃんと眠る事があるんだ。
そんな当たり前な事を思ったりして、私はさり気なく彼の額にキスをした。

「約束間違っちゃって…ゴメンなさい」

そのまま私も彼の寝顔の下で、ソファにもたれかかるように眠ってしまった。


                        *

「鈴音」
光一さんの声と軽く肩を揺すられる感覚を感じて、私は目をふっと開けた。
かなり変な体勢で眠ってしまったせいで、すぐに動けなかった。

「イタタ…」
「大丈夫か?ごめん、僕が先に寝ちゃったんだよな」
「ううん。大丈夫…それより、今何時ですか?」
「夜中の2時。僕、この時間っていつも起きてるから自然に目が覚めちゃうんだよ」

紅茶を飲んだのが9時ぐらいだったから、それでも4時間以上は眠ってしまったって事?

「僕はこれで帰るから。鈴音は普通にベッドで寝たほうがいい」
そう言って、光一さんはヨロヨロとまだすっかり目覚めてない足取りで帰ろうとした。

「待って、帰らないで!」
私はとっさに、進めようとした彼の足を止めた。
「鈴音?」
「嫌、一人にしないで…こんな真夜中に一人にされるの嫌なの」
私は静かな夜に一人になるのが嫌で、睡眠が深くなる工夫をいつもしているぐらい夜中に起きるのを嫌っている。
今光一さんに置いて行かれたら、私は多分朝まで一睡も出来ないで起きているに違いない。

「だって…」
光一さんが思い詰めた目で私を見る。
「いいですよ、私…光一さんが好き。好きなんです」
「……」
私の必死な足止めで、彼はとうとう帰るのを諦めたみたいだった。

「仕方ない、じゃあ今夜は君が寝付くのを見守るとするよ」
そう言われて、私はコクンと頷いた。
一応セミダブルのベッドだったから、私がすっぽり入ってもギリギリ光一さんが添い寝するスペースがあった。
いつもなら不安で寝付けない夜中の2時という時間。
この日は、隣に光一さんっていう存在がいてくれると思うだけで、安心感が私を包んでいた。

「不思議…、こんなに安心出来る夜って久しぶりだわ」
「そう?でも、僕はそんなに安心してもらえるような存在じゃないんだけどな」
「え?」
「今だって、どうやったら鈴音にキスできるのかとか、そんな事ばっかり考えてる」

そう言った光一さんの顔を見上げてみる。
頬づえをついて、私の隣で横になっている彼は優しく微笑んでいた。
車でのギリギリな感じが消えていて、ようやく彼も私の心がそれほど薄情じゃないのを知ってくれたみたいだった。

「ん…」
自然な成り行きで、私達は唇を寄せ合った。
一度触れた唇がほんの2、3センチ開いたかと思うと、またすぐに触れ合い、それがどんどん激しくなって…気が付くと私達は抱き合うように夢中でキスをしていた。

「鈴音、君を僕のものにしたい…誰にも、誰にも渡したくない。僕だけの君でいてくれる?」
切ない声で私を必死で抱きしめながら、光一さんは何度も私の名前を呼んで、そんな事を言った。

「はい。今の私は光一さんしか見えてなですよ…。でも、人の心って縛れないんです。いつでも不安定なもので。私はそれが分かっているから、余計思うんです…今愛しているのはあなただけ…って。約束されていない未来を不安に思うより、“今”を大事にしたいんです。きっとその積み重ねが愛情に繋がるんじゃないかって思ってるんです」
私が言う意味が光一さんにはすぐには理解できなかったみたいで、少し不思議そうな顔をされた。
離婚経験がある私にしか、この理屈は分からないかもしれない。

それでも光一さんをずっと好きでいたいという気持ちは本物だ。
それさえ伝わっていれば私は満足。

キスにすっかり酔いしれた私達は、どちらからともなく眠りに入った。
こんなに安らかな入眠はいつぶりだろう。
そう思うくらいこの夜の私は安らかな睡眠をとることが出来た。

光一さん、職場で見せる顔とは全然違うあなたの素顔。
仕事をするあなたも素敵だけど、こうして甘えた顔をするあなたもたまらなく好き。

出来る事なら、ずっと先の未来もあなたと一緒だといいな…。

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