抹茶モンブラン

4−4. 不器用な愛の交差点

衝撃的な事を聞き、お茶の入ったマグカップを持つ手が少し震えていた。
でも、こんなの鮎川さんには悟られたくない。
その場ではもちろん何も言えず、夜、遠慮もなく光一さんに直接電話をした。
出張から帰ってすぐに研究室に行ったらしい彼が電話に出た。

「もしもし、鈴音?」
久しぶりの電話だというのに、彼の声は落ち着いていた。
「光一さん、今日これから会えないかしら」
「これから?」
時計は9時をさしていて、私がこんな事を言い出したのはもちろん初めてだった。
「まだ職場にいるようだったら、私がそちらに行きます」
強い口調の私に、少し彼も驚いているのが分かった。
「いや、もう帰るところだから。これから鈴音のアパートに行くよ」
「…分かったわ。待ってます」
電話口では、これだけで精一杯だった。
これ以上何かを行ったら、何かすごい嫌なものが心にこみ上げてあふれ出してしまいそうで、怖くなった。

                                 *

しんと冷えたダイニングで、私は暖房もつけず椅子の上で丸くなっていた。
夕飯も作り掛で放り出してあり、着替えもしないままずっと私はそうしていた。
光一さんに電話をしてしまった事も、頭の中でややボンヤリとしていて、本当に彼が来てくれるのかという不安があった。
こんな衝動的な行動に出るなんて、私らしくない。

ううん、でもこれが本当の私なのかも。
弱い部分を隠して生きるのは癖だったけれど、光一さんを誰かにとられるぐらいなら、私は彼に幻滅されても本心をぶつけなければ…と思った。
そんなに高くもないプライドだって全て捨てていい。

私はやっぱり、あの不器用で子供っぽさを残した彼を愛しているんだ。

いつでも引き返せる距離にいようと無意識に心をセーブしていたけれど、本能に働きかける彼の魅力はすでに私の心を捕らえていた。
だからこそ、俊哉に会っても私は冷静でいられた。
私の握るべき手はあの人ではないという事が瞬時に分かったのかな。

――――― ピンポーン

「光一さん!」
玄関のチャイムが鳴ると同時に私はドアを開けた。
「鈴音、どうしたんだ…部屋に明かりもつけないで」
私が真っ暗な部屋から飛び出したから、光一さんは驚いていた。

「どうして?」
ドアが閉まるなり、私は強めの口調でそう詰め寄った。
「え、何が?」
「どうして鮎川さんと海ほたるになんか行くのよ。私との思い出の場所でしょう?あそこは私達にとって特別な場所でしょ?どうして…どうして他の女性を連れて行ったりするの。会えない日に異性と会うなんてって責めたの光一さんでしょう?あなただって同じ事してるじゃない!」
私は泣きながら玄関先で立ったままの彼を責めた。
胸をたたいた反動で、彼の背中が軽くドアに押し付けられている。

光一さんは私の言動を止めようとせず、黙って全てを吐き出すのを待っていてくれた。

こんなに感情的になったのは、海ほたるへ向かった車の中以来だ。
そう、私は俊哉にも見せてなかった姿を最初から光一さんに見せていた。

「…落ち着いた?」
一通り彼を責めて、泣くだけ泣いた頃、光一さんは私の肩を優しくつかんで自分の腕の中に抱きかかえた。
外気に当たってヒヤッとした彼のスーツ。
でも何故かホッと心が暖かくなる。

「僕はずっと、こうやって鈴音に本音で迫って欲しかったのかな…。君にも僕が他の女性に心を移してしまわないかって心配して欲しかった。ちょっと口に出せそうもない注文だったから、言えずにいたんだけど」
「…ずるい。私がこんなふうに取り乱すまで、ずっと待ってるつもりだったの?」
まだ涙が乾ききらない目を拭って、光一さんを見上げる。
「まさか。海ほたるに行った事は言い訳しようがないけど、紗枝と行ったのは昼だったし。君との思い出は夜の海ほたるさ。同じようだけど、僕の中では全然違うんだ、昼と夜っていうのは…」
困った表情で彼は、自分の頭に手をあててそう言った。
彼なりにちゃんと私との思い出の事は考えてくれていたようなのが分かって、私の中でもようやく少し納得いく言い訳を聞けた気がした。

やっと冷静な自分に戻って、光一さんの言い訳も聞かずに責めたことを恥ずかしく思った。
私も光一さんをどうこう言える立場じゃない…こんなにも弱い人間だ。

部屋に上がって電気をつけ、部屋の暖房にようやくスイッチを入れた。
「鈴音。こんな寒い部屋にずっといたの?風邪ひくだろ」
そう言って、光一さんは少しでも自分の温もりが伝わるようにと、両手を私の手に重ねて暖めてくれようとした。
でも、彼の手はもともと冷たいから実は私の手の方が温度が高かった。
それでも彼の手に包まれる自分の手を見るのは結構嬉しくて、ずっとそのままにしていた。

「ごめん、鈴音と会えない間色々考えてて。ちゃんと話す機会がなかったんだけど、紗枝は俺が一番信頼してた親友の形見みたいなものなんだ。妹っていうのとも違うんだけど…、とにかく親友にはずっと彼女の事は任せておけと誓っているし、実際彼女が何か困っていたら力になってあげようと思っている。さすがに結婚相手まで世話しようとは思ってないけど…鈴音はこういう関係でもやっぱり嫌な感じがする?」
まだ温まらない部屋のソファに並んで座って、光一さんは鮎川さんの事を説明してくれた。
彼女が自分に恋愛感情があるっていうところには気付いていないのかしら…。
不思議に思って黙っていると、光一さんは言葉を続けた。

「紗枝には鈴音は恋人だって言ってある。ただ、仕事上では割り切っているし、職場では特にそういうのを意識しないで欲しいとも言った。あの子、何か鈴音に別のニュアンスで話したの?」

やっぱり…この人、ちょっと鈍感なんだ。
鮎川さんは光一さんにとって大事な親友の形見。
でも、鮎川さんにとって光一さんは大切な異性。大好きな異性。

誰もがどこか不器用で、スマートに心を通じ合わせられない。
私は、大人になっても恋愛っていうのはいつでもぎこちないものなんだな…なんて思った。

「いいの、光一さんの心さえ確認できれば。私はそれでいいの」
彼の肩にもたれかかり、私は久しぶりに安らかな気持ちになっていた。

                           *

「鈴音…台所に電気ついてるけど」
しばらくして、部屋が暖まってきた頃…ふと気付いたように光一さんがそう言った。
「あ、いけない。お料理作りかけで放ってあったんだ」
私は慌てて立ち上がり、それを片付けようとした。
すると、光一さんはその手を止めて「何作ろうとしてたの?」と聞いた。

「何かな…ボウッとしてたから。でも、この刻んだ野菜を考えたらお肉を加えてカレーにするのが早いかもしれない」
適当にきざんだたまねぎとニンジンを見て、私はそう答えた。

「じゃあ一緒にカレー作ろうか。ご飯はあるの?」
ジャケットを脱いで腕まくりをしながら、光一さんはそんな事を言った。
「うん、冷凍にしたのが結構あるよ」
「じゃあ、さっさとカレー作っちゃおう」
光一さんが包丁を握る姿っていうのを初めて見たけれど、案外様になっていて、一人暮らししてるだけあって一応料理は出来る人なんだと分かった。
「包丁さばき、結構様になってる」
「そう?野菜刻むのだけは得意だよ。でも、味付けとか苦手で…肉じゃがですらしょっぱくなり過ぎたりして、自分一人の為に料理しようとは思わないかな」
さくさくと追加のたまねぎを刻みながら、彼は楽しそうにそう言う。

まるでここ数週間口を利いてなかった二人とは思えない自然な会話。
逆に私が彼に気持ちをぶつけた事で、以前よりさらに距離が縮まった感じがした。
久美の言った事は当たっていた。
私が遠慮していた事で、不要な悩みが出ていたんだ…。

好きな人と一緒に料理をして、他愛のない雑談をする。
たったこれだけの事が涙が出るほど嬉しい。
私は一人に戻ったわけじゃなかった。

「鈴音?どうした」
また涙をポロッとこぼした私を見て、光一さんの手が止まる。
「ううん。嬉しくて。光一さんの心が私から離れなくて良かったなって…」
安堵しすぎた涙だという事を伝えたくて、私はそう言った。
「僕の方が鈴音に去られたら生きていけないんだよ。だから、今すごく嬉しいよ。少しだけ弱い君を見られた事で、僕も何か役に立てるかな…って思ったりして」
光一さんはそう言ったけど、実は彼の存在のおかげで前夫との関係を清算できそうになっている。
彼が存在しているだけで、私の心に開いた穴が埋められている。

「ねえ、また夜の海ほたるに行きたい」
私はたまねぎを丁寧に炒めながら、そう呟いた。

あの思い出の場所に、また一緒に行きたい。
そうすれば…もっと素直な自分になれそうな気がする。

「うん、僕も少し仕事を調整して、もっと鈴音と過ごせる時間を多く持てるように努力する。せめて夜ぐらいは君の隣で寝付くのを待つぐらいの時間はとるようにするよ」
こんな会話で、私達は少しずつお互いの距離を縮めあった。
心の交差点は思ったよりも近くにあって、少し勇気を出して進めば愛しい人との出会いが待っていた。

その夜、本当に久しぶりに光一さんの隣で眠った。
お互いが求め合っていたのを確認し合うように幾度かのキスを交わした後、私は我慢できなくて光一さんの体をぎゅっと抱きしめ、自分がどれほど彼を欲していたのかを伝えようとした。
「鈴音」
「…何?」
ふいに光一さんは私の体を抱えたまま、思い出したように口を開いた。
「僕は…ずっと仕事で命を落とすかもしれないと思ってた」
「……」
「でも、僕の命を危うくしてたのは仕事じゃなかったんだと分かったよ」
何かを納得したような目で、彼はじっと天井を見ていた。

「何?光一さんを追い詰めていたのは」
そう問うと、彼は少しの沈黙の後こう言った。

「孤独だよ」

「…孤独?」
私は思ってもない言葉を聞いて、不思議な気持ちになった。

「もちろん仕事は嫌いではないけどね。でも、鈴音がいつか不意に僕の前から消えてしまうかもしれないという事を考えるようになってから、僕は仕事をしているだけでは寂しいと思うようになった。仕事が僕を孤独から救う唯一のものだったのに、鈴音の存在はそれを上回ったんだ…」
彼が思っているのは、私が感じているものと一緒だった。
私も俊哉に捨てられ、生きる意味を失っていて。
毎日生きているのか死んでいるのか分からない日常だった。

でも、光一さんの存在が少しずつ私の心を癒してくれていた。
彼の前では泣いたり取り乱したりする事が出来て、隣に眠ってくれるだけで私は心地のいい夢を見る事が出来る。

彼の言った通り、孤独は人間を生かしながら殺すものだなと改めて思う。
誰だって誰かから必要とされたいと思っていて、そして誰かを必要だと思っている。
私には光一さんが必要。

「光一さん…私もあなた無しでは生きられない。ずっとこれは同じ気持ちだったけど、しっかりと自分の中で認識するのに時間がかかってしまったの」
「僕は…随分前から鈴音を必要としてた。その伝え方はちょっとスマートとは言えないものだったけど、今でも多分君以上に僕は鈴音を求めているよ」

「……」
お互いの視線が交差し、再びとろけるような甘いキスを繰り返す。
そう、キスが甘いと感じるのは心がとけた証拠。

「好き…大好きよ」
幾度目かのキスを交わし、しばらく彼の胸に頬を当ててその鼓動を感じていると、いつの間にか光一さんの寝息が耳に届いた。

「光一さん?寝ちゃったの?」
一緒に寝てあげると言ったのは彼の方なのに、先に寝てしまった。
その無邪気な寝顔を見つめて、私は彼の頬にそっとキスをする。

光一さん…私、あなたを愛してしまった。
夜の海ほたるへ、また連れて行ってね。
きっと星と同じくらいキラキラと光る遠くの街明かりがとても綺麗に違いないわ。
あなたと、またあの景色が見たい…。

光一さんの隣で私も自然な眠りに誘われ、久しぶりに心地よい夢の中に入り込んだ―――。

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