Smile! 新生活編


10−3 愛されすぎて

職場での飲み会は、つつがなく過ぎていた。
久しぶりに家事と育児を完全に離れ、私は自由になった気分になっていた。
聡彦には店の名前と9時半くらいには帰ると伝えた。
あの人の事だから、本当に10時を過ぎたら強制連行しに店に入って来そうな気がする。

「後藤さん、飲んでる?」
そう言って、ビールのビンを傾けられる。
「あ、飲んでますよ。ありがとうございます」
「あなたの歓迎会なんだから、もっと楽しんでくださいよ」
こんな感じで、いつもは母乳の為に避けていたビールを久しぶりに飲んだ。
明日は和彦におっぱいはあげられないな…きっとビールの味がして美味しくないに違いない。

「でも、やっぱり後藤さんがあの舘さんと結婚されてるっていうのは信じられないなあ」
酔った勢いで今まであまり話をした事がなかった小倉さんに、そんな事を言われる。
「そうですか?」
「いや、舘さんがいい男なのは認めるよ。でも、女性には相当つれないっていうので有名だったからさ。やっぱり後藤さんの魅力が相当強かったって事ですかねえ」
プライベートは話すなと言われていたけど、どこらへんまでがプライベートなんだろう。
聡彦との生活を語るのは、明らかにプライベートだろう。
一つの質問に答えるにも、いちいち気を使ってしまう。
「いえ、どっちかというと私の方が先に彼をいいなと思ったんで…決して私の魅力がって訳ではないです」
謙遜のつもりで、そんな事を言うと、会場がドッと沸いた。

「熱いねー!結婚してお子さんもいるのに、まだまだ熱いんですね」
「いいなー。俺も嫁にそんなふうに言ってもらいたい!」

こんな言葉が聞こえてきて、私も焦る。
まずい、聡彦…会社でのあなたのイメージが崩れてしまうかも。
クールでニヒルを看板にしている彼なのに、猛烈な家庭人間で嫁束縛人間だという事は絶対秘密にしなければ…。

そんなこんなで気を使っているうちに、どれくらい自分がお酒を飲んだのか分からなくなっていた。

                          *
店を出たのは何時だろう。
もしかしたら10時くらいだったかもしれない。
急がないと。

「歩けますか?」
新人のまだ若い牧村くんが少しよろめいている私の体をとっさに支えてくれた。
「あ、ちゃんと歩いてますよ?」
「いえ、斜めになってました。しかも、すぐそこの道路国道だし。危なくて見てられないんですが」
決して慣れなれしい態度ではなくて、本当に私の行動が危なく見えたみたいで、真っ直ぐ歩けるようにタクシーの拾える場所まで連れて行ってくれた。
「アパートまで大丈夫ですか?」
タクシーを止めて、乗り込もうとする私を見て、彼はまだ心配している。
「大丈夫。いざとなったら夫に電話して迎えにきてもらうし」
「タクシーで帰る意味ないじゃないですか。付き添いますよ」
確か…禁止事項に頭が朦朧とするほど飲むなとか、帰りは送ってもらうなとか…色々あった気がしたけど、もう何だかどうでもいい感じがしてしまった。
「住所は言えますか」
「ええと…」
私がしどろもどろしてるうちに、証明書ありますかと聞かれ、そのままペーパードライバーになってしまっている運転免許を見せた。
確実に牧村くんはその住所を運転手に伝え、アパート手前の道まで付き添ってくれた。
タクシーを降りて、私は彼にぺこんとおじぎをした。
「ありがとう、ごめんね…迷惑かけて」
「いえ。ほんの少しの間でしたけど、後藤さんを独り占めしてるみたいで嬉しかったですよ」
冗談なのか本気なのか分からない表情で牧村くんはそう言い、そのまま今乗ってきたタクシーで帰って行った。
あー…禁止事項を破りまくりだ。
聡彦に見つからないうちにさっさと帰ろう。

そう思ってアパートの方へ足を向けたとたん、私は思わず「ヒッ」と声を上げてしまった。
「あ…聡彦」
そこには、和彦をおんぶして外に出てきていた聡彦が憮然とした表情で立っていた。
「おかえり」
「た、ただいま。ごめんね、すぐ帰ろうと思ってたら結構時間が経っちゃって。10時…過ぎたんだよね?」
低姿勢で彼の様子をうかがってみる。
でも、特別聡彦は怒る様子はなくて、そのまますぐにアパートの中に戻って行った。
時計を見たら11時ちょっと前だった。
これは聡彦にとっては異常事態になっていたに違い無い。
携帯に何度もコールされた着信履歴が残っていたのに、それにも気付かなかった。

酔いがいっきに覚めて、聡彦のご機嫌をどうやって戻したらいいのか悩んだ。

「た、ただいま」
そっと玄関に入って、そろそろと部屋に入る。
「和彦にはミルクはあげてあるし、もう寝たから」
「…そう。ありがとう」
何も責めてこない彼が逆に怖い。
相当な怒りを貯めてるのだろうか。

「聡彦…怒ってるの?何か言ってよ」
私が着替えている間も、彼は黙って仕事の続きをしている。
嫌味の一つも言ってくれた方がましだ。
「菜恵だってたまにはゆっくり飲みたい時もあるだろ。別に時々なんだし…気にする事ないよ」
「そう?」
色々ルールを作って私を縛っていた朝の彼とは全く違う。
どうしたんだろう。

とりあえずシャワーを浴びて体をさっぱりさせたら、気持ちもまたクリアになってきた。
改めて考えても、今回は私が悪かった気がした。
いくら久しぶりの飲み会だからって、子供を聡彦に任せたまま10時過ぎまで戻らないなんて。
しかも一人で帰るのが危なっかしくて、牧村くんに同乗してもらったし。
聡彦じゃなくても、これは心配するし…怒るだろう。

猛烈に反省した私は、聡彦の隣に座って黙って俯いた。
「もう寝たら、菜恵。明日は土曜だし…ゆっくり朝も寝てたらいいよ」
優しすぎる。
どうしよう…怒りを通り越してしまってるんだろうか。

「今日は本当にごめん。もう飲み会はしばらくないと思うし。次は丁寧にお断りするつもりだから…許してくれる?」
そこまで言った時、キーボードを叩いていた聡彦の手がピタリと止まった。
「菜恵」
「何?」
彼の瞳を見て驚いた。
今にも涙が出そうなほど潤んでいて、怒ってたんじゃなくて、彼はものすごく心配してくれていたんだというのが分かった。
「ごめん、ごめんね。あんなに10時前にって約束したのに。たまには…って思って、甘えてしまったの」
彼を強くだきしめて、私は涙ながらに謝った。

どれだけ彼が私を大事にしてくれているか。
どれだけ私の事に関して彼は心配をしているか。
分かっていたのに、あまりにもそういうのに慣れてしまって、少し反抗的な心があったのは否定出来ない。

“何時だと思ってんだよ!それに今一緒に乗ってた男は誰だよ”
って言ってくれてたら、いつもの聡彦だなって思って私も強気に言い返したりしていたかもしれない。

「菜恵…君がどこかに行ってしまったら。俺と和彦はどれだけつらい思いをするか分かってる?」
「うん。どこにも行ったりしないよ」
そう言って、さらに彼をぎゅっと強く抱きしめる。
「それに……」
聡彦はまだ私に何か言いたい事があるようだった。
「何?それに…何?」
「…和彦が生まれてから、菜恵は俺を見てくれなくなった。育児が大変なのは分かるよ、でも夫婦の時間が全然無いのは俺にとっては結構つらいんだ」
「聡彦……」
大きな子供が、私の腕の中で今にも泣きそうになっている。
和彦に対する気持ちと同じぐらいの愛しさがこみ上げてきた。
言われてみて、確かに私は聡彦の妻である役割をおろそかにしていた事に気付いた。
和彦が生まれてから、聡彦には「パパ」っていう役割ばかりを押し付けて、私は彼の夫であるという部分をちょっと後回しにさせすぎていた気がする。

「こんな事、大の男が言う事じゃないだろうって分かってるけど。それでも、菜恵とはまだまだ俺…男女の関係でいたいんだよ。もちろん和彦は大事な俺達の子供だけど。それとは別の次元で、夫婦っていう関係もきちんと保ちたい…これって俺の我がままなのか?」
私の顔を見ないで、ちょっと照れてるような…ふてくされてるような。
そんな表情で彼は俯いている。

「違うよ。私、聡彦に愛されすぎていて…それに感謝するのを忘れていたみたい。ごめんね」
そっと彼の頭に手をあてて、優しく髪をなでる。
久しぶりに…何だか聡彦の腕の中に抱かれたい気分になった。

「聡彦、仲良くしよっか」
私達は、夫婦の夜の生活の事を「仲良くする」っていう言い方をする。
直接言葉にするのが照れくさいから、そういう言い方になった。

「菜恵、疲れてるだろ?」
「ううん。聡彦の肌に触れたいの。…駄目?」

そこまで言うと、彼は我慢出来ないみたいに私の唇を強く塞いだ。
すごく久しぶりな彼からの情熱的なキス。
このキスを受けるたびに、私は“ああ…愛されてるんだなあ”と思えていた。
もう少しで忘れるところだった。

「ごめんね、聡彦の愛情に甘えてて…」
「ん、もういいよ。その代わり、菜恵の体…全部感じさせてもらうから」
こうして、私達は本当に久しぶりに男女の喜びというのを思い出した。

聡彦、これからはあなたが遠慮しなくていいように私も努力するね。
女を捨ててるつもりは無かったけど、こうしてあなたのキスと愛撫を受けていると、何か大事なものを忘れてしまっていたのが分かったわ。

心は全く変わらず、あなただけを愛しているんだけど。
愛され過ぎていて…幸せを確認するのを怠っていたね。
ごめんなさい。これからも私を愛してくれるかな。

ねえ…聡彦。
私は、ずうっとあなただけを愛しているよ。

とろけそうなほど強い聡彦からの情熱を受け、心も体も、その甘い感覚にすっかり溺れていった――――。

*** INDEX ***

仲直りしました♪
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