Smile!


7−6 告白

SIDE聡彦

自分の記憶が欠落しているという実感が沸いたのは、自分のアパートに戻った時だった。
フワッと花の香りがして、いつも自分が使ってる部屋じゃない匂いがする。
それに、趣味じゃない絵とか女性の洋服がハンガーにかかっていて…明らかに誰かと一緒に生活をしていたという感じだ。
「俺、本当に後藤さんと付き合ってたのか」
独り言を言って、部屋の色々な部分を確認する。
当然のように歯ブラシも2本で、洗顔料とか女性用の下着入れなんかもしっかり用意されていた。
これだけの関係って事は、きっと俺達は相当深い関係だったに違いない。
何で何も覚えてないんだ?
いくら脳に衝撃を受けたからって、こんなに好きだったはずの女性を忘れるなんて…。

俺が後藤さんを覚えて無かったせいで、彼女は泣きそうなほど悲しい顔をしていた。
新しい受付嬢で、美人だと聞いていたから一度偵察に行ったのは覚えている。
それで、ポヤンとしてて何となく放っておけないタイプの子だな…とは思った。
俺の記憶はそこまでだ。

あれからいったい何がきっかけで、俺達は付き合う事になったんだ?

                      *

「舘さん、ごめんなさい。謝りきれません」
俺が庇ってやった沢村さんが、やたら申し訳なさそうに謝ってくる。
この子の指導担当もしていたらしいけど、それすら俺は記憶が無い。
「いや、とりあえず体は平気だし。逆にこれから俺が何かと面倒かけるかもしれないから…よろしく」
こんな事を言って、俺は仕事がややぎこちなくはなったものの、何とか復帰した。

沢村さんとの仕事は、かなり快調だった。
一通り仕事内容は教えられてあったみたいで、特に指示しなくても彼女はスピーディーに仕事を上げてくる。
「舘さんの教え方、すごく上手でしたから」
俺が褒めると、沢村さんは顔を赤くして自分の仕事成果を俺のおかげだと言った。

どうも自分をちゃんと取り返せてない気がして…日々が何となく物足りない感じだ。

後藤さんに会っても、付き合いを続けるのは止めたいと言われ…俺も身動きとれなくなった。
何気なく様子を見ていたけど、彼女の立ち振舞いや言葉の雰囲気からいって、かなり自分にとっては好感の強いものがあった。
記憶は無いのに、何だか知らないけどあの子を独占したいという気持ちがあった事だけぼんやり思い出したりした。
もっと会話したいのに…何故か彼女はそれを拒む。

その理由を知ったのは、それからすぐの事だった。

                           *

仕事が終わって帰ろうとした俺を探して、営業の如月さんが顔を出した。
いつもは半分ふざけた顔をしている彼が、ものすごく深刻な顔をして「外で話したい」と言った。

「今…何て言いました?」
営業車の停めてある駐車場で、俺は耳を疑いたくなる言葉を聞いた。
「後藤さんが、あなたの子供を身ごもってるんです。その事実をあなたに告げられなくて、随分悩んでいて…それで今日流産の危機があって、今入院してます」
「入院?流産?」
驚きを隠せず、俺は軽く足元がふらついた。
「彼女は大丈夫なんですか?」
「ええ。子供も奇跡的に無事で。相当悩んでましたが、とうとう彼女はあなたとの子を一人で産むと言いました」

俺の…子供?
付き合ってた事すら漠然としてるのに、唐突に生々しい事実を告げられ、俺はショックを隠せなかった。

「女性が子供を一人で育てるには、この世はあまりに過酷でしょう。だから、舘さんがこの事実を受け入れないなら、俺は何がなんでも彼女を手に入れるつもりなんですが」
如月さんは全く冗談抜きの真顔でそう言った。
後藤さんとの間に子供が出来ていた事も驚きだったけれど、俺との子供だと分かっているのに彼女を受け入れようとしている如月さんの言葉にも驚いた。

「どうしますか。受け入れるなら、今から病院へ案内しますけど」
まるで仇でも見るような鋭い目で見られ、彼が俺に対して軽く憎しみを持っているのが分かった。

俺は一つ呼吸を整えて、返事をするまで数秒黙った。

子供を持つほどの関係だったって事は、俺は相当彼女を愛していたんだ。
それは部屋から出てきた日記からも分かっていた。
毎日、毎日、呆れるほど彼女への愛情を綴ってあって、こんな恥ずかしい文章を自分が書いたのかと驚く程だった。

「病院を教えて下さい」
決意を示す為に、俺は真っ直ぐに如月さんの目を見た。
俺の態度を見て、彼は戦闘体勢を少し崩した。
「良かった、あなたが拒否したらこの場で殴り飛ばすとこでしたよ。病院までお連れします。でも、彼女を少しでも不幸にするような事があったら…俺は黙ってない事だけは覚えていてください」
「…分かりました」

こんな唐突な事実を告げられて、すぐに承知した自分も不思議だった。
まず事実確認をしたいのが先のような気もするけれど、俺は後藤さんが何か死ぬほどつらい事実を隠していたのを感付いていた。
一度直接会った時、何か大事な事を言い出そうしていた。
なのに、別れの言葉だけを言って去ってしまった。

あの時の彼女の悲しそうな目を、俺は忘れられなくて。

だから、子供の事を言われ、それをあっさり認める気持ちになった。

                            *

病室に入ると、カーテンで仕切ってある4人部屋の窓際に、彼女は寝ていた。
何も食べられないと聞いたから、スッキリしそうなジュースだけ数本持ってベッドサイドに座った。
彼女は点滴を受けながら目を閉じていて、どうやら眠っているみたいだった。
ほっそりした彼女の白い手を握って、何だか俺はとんでもなく深い罪を犯してしまった気がして、涙が出てきた。

どれだけ悩んだ事だろう。

どれだけ傷ついた事だろう。

この弱々しい女性が、俺の為に嘘をついたまま子供を一人で産もうとした事を考えて胸が痛くなる。

「ごめん…何も覚えてないわけじゃない。こうやってれば…思い出す気持ちもちゃんとあるよ。君をきっとこの世の何よりも大切に思っていた事を、俺の体が覚えている。ただ、その愛を交わした映像を思い出せないだけなんだ」

俺の声を聞いて、彼女が薄く目を開けた。

「聡彦…」
「菜恵」
俺が彼女をそう呼んでいた事は分かっていたから、出来るだけ心が近くなるように名前を呼んだ。
「何で言わなかったんだよ」
「え?」
唐突に俺がそう言ったから、菜恵は驚いて目を大きく開けた。
「子供が出来たって…何ですぐに打ち明けなかったんだよ。あと少しで、俺は最低な男になるところだっただろ?」
「だって…だって。聡彦には私を愛した記憶が無いでしょ?」
「馬鹿」
体も心も弱ってる菜恵を相手に、俺が言った言葉は何故かひどい口調だった。
「記憶があっても無くても、俺は菜恵を愛してたのは分かってる。ビジョンとして思い出せないだけで、こうやって手を握ってると愛しい気持ちだった事は体が覚えてる。だから、もう一人で背負うのを止めろよ。我慢なんかしなくていいから、俺を頼ればいい」

そこまで言ったところで、彼女は大粒の涙をこぼした。

「やっと聡彦らしい口調が聞けた。何だか…本当の聡彦が戻ったみたい」
泣きながらも彼女は微笑んで、俺の手を強く握り返した。

「どれだけ俺、菜恵にひどい態度だったんだ?」
「最悪だったよ?焼きもち妬きでね、ツンツンしててね、自分勝手なの」
「…そんな男を良く好きだなんて言えたね」
自分の事なのに、相当ひどい男だったみたいだからそんな事を言った。
「だって。あなたがツンツンしてるのは愛情の裏返しだったから。それを理解するまで時間がかかったけど…。本当に私を愛してくれてたから。だから、お腹の子供もあなたの分身のような気がして、どうしても産みたかったの」
そう言われて、俺は亡くした俺の姉の事を思い出していた。
「生まれ変わりなのかな」
「え?」
「言ってなかった?俺、本当は双子で生まれてさ。先に生まれた女の子の方は生まれてすぐに亡くなったんだ。だから、本当なら俺は姉貴がいたはずなんだけど。両親は俺を見ると亡くなった姉貴を思い出すって言ってて…ずっと生き残った俺が何だか責任があるような罪悪感の中で生きてきた」
そう。
俺は二人分の人生を背負わされて生きている気がして、早く両親の元を離れたかった。
愛されすぎて苦しかったというか…。
だから、今菜恵が身ごもった子供っていうのは、俺を救う為に戻ってくれた姉貴なんじゃないかっていう気がした。

「大事な人を失いたくないって言ってたの、そういう事だったんだね」
菜恵は俺の気持ちを汲み取るように優しい瞳を向けた。

何だろう。
菜恵に感じるこの深くて心地いい安らぎは。
まるで初めて母親に抱きしめられた時のような…そんな気になる。

「俺ともう一度……一緒に生きてみてくれない?」
握った手にキスをして、俺は本気のセリフを口にした。
関係を完全に戻すには時間がかかるのは分かっている。
でも、それでもこの可愛らしくて愛情深い女性を…俺は一生をかけて守りたいという気持ちが芽生えていた。

「いいの?あなたとの子供を…産んでいいの?」
「当たり前だろ。少しでも隙があったら、如月さんが菜恵をさらってしまう勢いだったからさ。何か軽く焦ったよ」
冗談ぽくそう言ってやると、菜恵はやっと安心した笑顔を見せた。

「如月さんはね、私達の救世主なのよ」
「そう?俺に対しては敵対心しか見せてこなかったけど。まあ…これから俺は、あの人に奪われないように、君を大事にするだけだ」

こうして…俺達は天から授かった大事な命を二人で育てる決意をした。
完全に記憶が戻らないうちは、多少ぎこちなくなるのは想像出来るけれど、それでも俺は菜恵と一緒に暮らして少しずつ心を通わせたいと強く思っている。

俺の男としての…人間としての大きな人生の覚悟を決めた瞬間だった。

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