Smile!


8−4 思い出の箱

SIDE聡彦

何をしてやれるってほどのものは無かったけれど、菜恵の心と体を守る事を際優先に生活する覚悟を新たにした。
さらに、菜恵との記憶を取り戻し、会社での自分の立場も数年前とは違うのだというのが実感として沸いてきた。

スーツを着替えて社内に戻ると、沢村さんが仕事の続きを指示待ちしていた。
「お戻りになって良かったです、次の作業はどうしましょうか」
「あ、ごめん。次の仕事はリーダーから直に指示してもらってくれる?ここまでの作業で俺が担当していた部分は終わりだから」
「え、そうなんですか?」
何故か沢村さんの顔色が変化する。
作業のおおまかな計画表は渡してあったから、それを見ればだいたい察しがつくはずなんだけどな…と思いつつ、もう一度作業の工程を教えた。
「分かりました」
俺が直接の担当から外れるという事を面白くなく思っているのか、沢村さんの表情は険しくなっている。
「沢村さん、何か俺に不満でもあった?」
「いえ…別に」
若い子のご機嫌取りは好きじゃないし面倒だ。だから俺は、もうこれ以上の詮索はしなかった。
すると、彼女は社内メールでダイレクトに個人的に会って欲しいとの意志を送ってきた。

『舘様
先ほどは急に担当を外れられると聞き、動揺してしまいました。
個人的にお話ししたい事があるのですが、お仕事が終わった後、少し外で会っていただけませんか?今日でなくてもいいので…。沢村』

今まで気のせいかなと思っていた、沢村さんの気持ちの動きを確認し、俺は何だか嫌な予感がした。
菜恵が不安定になった背景を色々考えていて、一度だけ病院に沢村さんがお見舞いに行ったとの情報を聞いたのを思い出す。
二人の間にどんな会話があったんだろうか。

沢村さんには、その日の仕事上がりに少し話せると答えた。
特に彼女を追い詰めようという気持ちは無かったけれど、一応俺の中にあるモヤモヤを片付けたいと思ったからだ。

                       *

「さっきはどうも」
会議室への移動途中、如月とすれ違った。
トゲトゲしたものは消えていて、いつもの半分ふざけてるような顔だ。
「…どうも」
「後藤さんにはあの後会いました?」
猛烈な夕立だったのに、俺が全く濡れた気配が無いのを見て察しはついてるみたいだった。
「ええ。記憶も断片的に思い出しました。もうご心配かけませんので」
それだけ言って立ち去ろうとすると、奴は俺の腕をグッとつかみ、最後にもう一言付け足した。

「早く公式に発表して、俺が二度と近づけないほど遠くに彼女を連れていってくれませんか」
そうしないとまた菜恵にアプローチしてしまいそうだ…と言いたいニュアンスを感じる。
「分かりました。安定期に入ったらそうしようと思ってましたけど…もう少し早めます」
「そうして下さい」

これだけの会話だったけれど、如月という男の潔さを感じた。
あの男は菜恵を手に入れられる数パーセントに掛けていたんだろう。ライバルとしてはものすごく手強い相手だ。
俺自身が認めてしまうほど、奴は人間としての度量が広い。
これからもちょっと監視されそうな気はするけど、菜恵を渡す気は全く無いし、それは如月も分かっているみたいだ。
何より、菜恵が俺に対する気持ちを露にしたというのが大きかったのかもしれない。

                      *

沢村さんとは、職場からそんなに離れていないコーヒーショップで会った。
仕事が終わって、その店を目指して歩く。
まだ西の空がボンヤリ明るい。
菜恵が心配しないよう、一応9時前には戻るとメールする。
いくら話が長引いても、それ以上遅くなる事は無いだろうと思ったからだ。

「お疲れ様です」
先に席についていた沢村さんが軽く手を上げて立ち上がった。
「お疲れ様」
沢村さんは先に自分のコーヒーは買っていたようだから、自分用のアイスコーヒーだけ買って、席に着く。

「急にあんなメール出して…すみません」
「いいよ。何か話したい事あったんでしょ?」
今まではどうとも感じてなかった沢村さんの表情だったけど、この時やっぱりどこか不自然なものがあった。
「仕事の事は理解しました。これからは舘さんとは別のラインに入るのも…分かりました」
「そう。で、他に何があるのかな」
そう言うと、沢村さんは明らかに表情を固くして黙ってしまった。

どうやら仕事ではなく、プライベートな事を語ろうとしている感じだ。

「あのさ…勘違いだったら悪いんだけど。俺のプライベートに関して何か思ってたりするの?」
「…そうですね」
それを認めてしまうと、彼女はフウッとため息をついてやや居直った感じになった。

「後藤さんに…後藤さんに、舘さんには近付くなと言われました」
想像とは違った話しに、一瞬息を飲む。
菜恵が、そんな事を沢村さんに?
「どういう事?」
「私が舘さんに特別な感情があるって察しをつけられたんです。それは確かだったので、別にいいんですけど。私があなたの傍でチョロチョロしてるのが気に入らなかったみたいで…」
菜恵に陰湿な事をされたという意味合いの事を言って、沢村さんは涙目になった。

あり得ない。
あの優しさの塊のような菜恵が、沢村さんに精神的なダメージを与えるような事を言うなんて。

「でも、別にいいんです。こうして一度だけでも舘さんと個人的にお会いできただけで私は満足です」
沢村さんは菜恵を悪くは言わなかった。
単純に俺に好意があって、それだけ分かってもらえばいいと…そう言った。

「好意を持ってもらえていたのは正直、ありがたいと思うよ。でも、申し訳ないけど、俺はもう菜恵をパートナーにするって決めてるんだ」
俺は、淡々と事実だけを伝えた。
「やだ、謝ったりするのおかしいですよ。私は単純に舘さんと一緒に仕事してるのが好きだっただけなんで…寂しいだけです」
そこまで言って、とうとう彼女はポロッと涙を落とした。

さすがに、公の場で涙を落とされると俺もそれ以上は何も言えなくなった。

「これからも、仕事の事とか質問していいですか?」
最後にそう言われたから「それぐらいなら、いつでも」と答えた。

                            *

「お帰りー。結構早かったね」
菜恵が明るい調子で玄関に出てきた。
「ん。あれから菜恵はちゃんと静かにしてたか?」
「わんぱく坊主じゃあるまいし。言われなくてもずっと寝てました。だから…実はご飯が無いんだ」
そう言って、ばつの悪い顔をした。

「俺のメシはどうでもいいけど、菜恵が何も食べてないって問題だな」

冷蔵庫を開けると、一応チャーハン程度は作れそうな材料が入っていた。
油っぽいものはあまり良くないかもしれないけど、一応菜恵が好物だから少しならいいだろうと思ってチャーハンを作る事にした。

「なあ、菜恵」
のんきにテレビを見ている菜恵の後姿に声をかける。
「何?」
「あのさ…沢村さんが病院に来た時って何話したの?」
そう言うと、菜恵はとたんに表情を曇らせた。
「……話したくない」
こんなにあからさまに他人に嫌悪感を出す菜恵を見たのは初めてで、俺が分からないだけで二人の間にもっと何かがあったのを想像させた。
でも、これ以上菜恵を困らせるのも嫌だったからとりあえずその話しはそこで打ち切った。

「菜恵、食べられそうだったら」
そう言って、皿にてんこもりのチャーハンを出した。
「食べ切れないよ!」
「誰も一人で食えとは言ってないだろ。残したぶんを俺が食うんだ」
「あ、そう。ならいいや」
「作ってもらって、そういう言い方か?」
そう言って、チャーハンの皿を菜恵の目の前から取り上げる。
すると、スプーンだけ手にした菜恵が「あ」と小さく声にして不満そうな目線を向けてきた。

また記憶の回路が一つ繋がる。

「あ、菜恵…。お前俺と一緒に食べる予定だった餃子一人で食っちゃった事あったよな?」
「え?あんな前の事思い出したの?しかも…餃子の事なんて」
明らかに馬鹿馬鹿しいという顔だ。
でも、俺にとっては一つ思い出を取り戻す度にすごく嬉しい気持ちになる。
「食い物の恨みはそれだけ怖いって事だ」
「分かった、私が悪かった。だから、チャーハンください」
相当お腹がすいてるみたいで、菜恵は立ち上がってチャーハンの皿を手にとろうとした。
その姿が何とも…コミカルで、笑える。

「どうぞ、これはお腹の子にあげるんだからな。菜恵はギョーザの罪でしばらく謹慎してろ」
冗談混じりにそう言って、チャーハンの皿を戻してやる。
「ありがとう!…ってお腹の子が言ってます」
そう言って、菜恵は嬉しそうにチャーハンを食べ始めた。

すっかり自然な空気になった俺達を感じる。
テンポのいい会話と菜恵の可愛い態度。これだけ揃ってれば、俺は毎晩でもメシぐらい作ってやってもいいんだ…なんて思ったりする。

菜恵、俺の手元に残ってくれてありがとう。
こんな恥ずかしい言葉は簡単に出ては来ないけど、君と一緒にいた思い出を一つ思い出す度に俺は“思い出の箱”にその事を丁寧に詰めていくから。
そして、その箱があふれそうになった頃に、また菜恵に対する愛を語ろうって思うよ。

菜恵との幸せな時間が過ぎてゆく。

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