Smile!


9−5 守るべきもの

SIDE聡彦

菜恵の体調は一時心配したけれど、特に問題になるような事はなく、順調に経過している。

どうやって話題を出そうか悩んでいた沢村さんの事も、彼女から口にしてきた為、お互いにどういう気持ちでいるのか確認しあう事で彼女への対応の方向性は見えた。

「一度かなりきつめな事を言ったんだ。それ以来手紙を書いてくる事も無くなったし、病院へ行くと言って早退する事も無くなった。俺に対しては逆に冷たいぐらいの態度だから…彼女の中で何かが変化したんだろうと思うよ」
会社での彼女の様子をそのまま菜恵に伝える。
「そう…。だったらもういいのかな。彼女はちょっと私には想像できない思考回路をしているみたいで、どうにも話し合うっていう展開は無理みたいだったから」
「もう菜恵は彼女に関わらなくていい。関わって欲しくない。職場で何かあれば、菜恵には報告するし。とにかく余計な不安は抱えなくていいから」
ここまで言うと、菜恵も安心した顔をして“そうするね”と言った。

菜恵が言った通り、沢村さんの思考回路はちょっと独特だ。
自分の要求を通そうとする強引なところを、本人はあまり気付いていない。
アルコールのせいで説教の効果がちゃんと届かなかったのかもしれないけれど、その後彼女が自分の言動を“恥ずかしかった“とか”申し訳無かった“という態度を見せた事は一度も無い。
正直、俺の方があの日の自分を思い出すと頭に血がのぼるぐらいだ。

そんなこんなで、沢村さんの問題はほぼ終わった。
「ほぼ」というのは、後日彼女が別の課の既婚者と交際しているという事が問題になったのだ。
沢村さんの最終責任者はグループリーダーが握っていたんだが、問題を処理できないと言って、何故か俺にお鉢が回ってきた。

どうしてやる事も出来ないとは思ったけれど、一応休憩室に誰もいないのを確認して彼女を呼んだ。
もちろん厳罰になるのは上司の方なんだけれど、どうして沢村さんがその人と付き合う事になったのか…これからどうする気なのか。一応話を聞けという事だった。

「沢村さん。どうして君はもっと自分を大事にしないんだ。男性に何を求めてる?」
明らかに幸せになれないだろう男をあえて交際相手に選ぶ沢村さんの思考回路は、どうにも理解しがたい。
「舘さんは安心したでしょう?自分から私の気持ちが反れたって思ったでしょ」
最初の頃に見せていた優しげな雰囲気の彼女では無い。
全くたじろぐ様子がない上に、自分の不倫をも恥ずかしいと思っていないようだ。
「そういう問題じゃない。何で将来を一緒に見ようと思える相手を選ばないんだと聞いてるんだ」
こんな事まで職場が一緒だというだけで言わなければいけないのか…という気持ちだ。

「舘さんには関係の無い事です。処分なら何でも受けますので」
平然とした顔で彼女はそう言い、他は別に語る事は無いという感じだった。
「どうしちゃったんだよ…君は」
仕事の出来る、真面目な子だった。
演技だけであの顔だったとは思えない。

俺が…何かこの子を変えてしまったんだろうか。
一抹の不安がよぎる。

「好きな人を好きだと思うだけです。私は、そういう恋愛しかできないんです」
冷めた表情はそのままで、彼女は自分の気持ちを完結に答えた。
「相手には守らなければいけない家庭があるという事は何も考えないのか?」
ありきたりな言葉だとは思ったけれど、これは人間の中心にある倫理感だろうと思ったから、確認の為に言ってみた。
すると、沢村さんは軽く口に笑みを浮かべた。

「舘さんも見かけによらず結構まとも人間なんですね。そういう理屈が人間としては綺麗なんでしょうけど、恋愛ってもっとドロドロしたものだと思いますよ。まあ、不倫は確かに法に触れる犯罪なんだと知ってますけど、それでもこの世から不倫は無くならない…これが真実じゃありませんか?」

多少の反省を見せるかと思っていたら、まったく逆だった。
開き直りというか…完全に自分の理屈を正当化する事だけに固執している。
この人は…一生、俺と菜恵の間にあるような暖かい関係とは無縁に生きていくんだろうか。

そう思ったら、何だか妙に気の毒な子だな…と思えてしまった。

「今回は上司の方が責任をとって減給になるだけで終わるみたいだけれど、君の将来にも関わる深刻な問題なんだ。今後はもう少し社会人としての立場をわきまえて欲しい」
こんな言葉は言ってもむなしいだけだと分かっていたけれど、一応上司として言わなければと思い、最後にそれだけ言った。

                             *

アパートに戻り、ぽこんとお腹が出てきた菜恵が笑顔で玄関に出てきた。
「おかえり!今日ね、胎動っぽいのが感じられたんだよねー。何か活発だから、聡彦の血が濃いのかも。男の子かな」
そんな報告を嬉しそうにしてくれて、俺が戻るのを予想して鍋を暖めてくれたりしていた。

「菜恵…」
キッチンでおかずの追加をしようとしている菜恵を後ろから抱きしめる。
俺が好きになった…心から愛した女性は、心の綺麗な可愛い人だ。
彼女を探していたわけでもなかったのに、菜恵は知らず知らず俺の中には無くてはならない女性になっていた。

菜恵のような女性には、きっと今後二度と出会えないだろう。

それを考えると、今までよりもっと、もっと彼女を大事にしなければ…という気持ちでいっぱいになる。

「聡彦、どうしたの。会社で何かあった?」
「いや、何もないよ」
一応職場で何かあったら報告してと言われていたけれど、今日の沢村さんの事は話す必要が無いだろうと思った。
沢村さんも、いずれ幸せな恋愛をしてみれば、少しは俺と菜恵の気持ちが理解できるかもしれない。
でも、もうそこまで彼女の人生を追求する義務も責任も俺には無いと思っていて…リーダーにも、今後沢村さんの問題は俺にふるのは止めて欲しいと伝えた。
あの子の偏った恋愛観を変えるのは俺では無理だ。
上司の尻ごみっぷりを見ていると、誰も彼女には深入りしたくないという気配が感じられる。

「やっぱり聡彦おかしい」
菜恵が食事する俺を見ながらそんな事を言う。

「何がおかしい?」
「聡彦が…何だか優しい。不気味」
体にさわるから、食事の支度も適当でいいと言ったら、これだ。
俺は鬼か悪魔なのか?

「俺だって妊婦を気遣うぐらいの気持ちは持ち合わせてるよ」
「ふーん…。でも、優しい聡彦も好き」
俺がすっかり棘が抜けているのを確認して、菜恵が後ろからペタッとくっついてくる。
ふわっと香る菜恵の優しい香り。
ほっかり暖かい菜恵の温もり。

これを大事にしないで、何を大事にするんだ。
屁理屈をこねて自分の幸せを放棄する沢村さんは、本当に心から気の毒な人だと改めて思ったりする。

俺が大事にするものは、もう決まっている。
多分これは人間が本来普通に持っている本能なんだろうと俺は思った。
菜恵とそのお腹の子に感じる「保護したい」という気持ちは、何故か彼女を日々見るうちに自然に芽生えてきた。

それでも、菜恵と二人きりの甘い時間はもう限られているのかと思うと、寂しい気持ちもあったりする。

あと半年…。

子供が生まれるまでの間、新婚生活を送る気持ちで菜恵と一緒に色々思い出を作れたらいいなと思っている。

菜恵に出会わせてくれた運命に感謝しながら、俺は改めて彼女の体をゆっくり抱きしめた。

Smile!9話 END
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