草食系な君と肉食系な僕
17.確かめたい
会社に電話をしたら混乱させるだろうと思って、私は芯さんが帰ってくるのを待ちたかった。
なのに、裕子さんは遠慮もなく彼の会社に電話をしてしまった。
「あ、芯?私だけど……今、あなたの屋敷に来てるのよ。可愛いメイドさんにも面会したわ」
芯さんが何と返答したのか分からないけれど、すぐに電話は切れて、裕子さんは溜め息をついた。
「本当に可愛くなくなったわ……高校生くらいの頃は可愛かったのに」
「芯さん…何て?」
私がいた事を一瞬忘れていたようで、裕子さんはハッとした顔をした。
「ああ……何だかすぐに帰ってくるような事言ってたわよ」
「そうですか」
正直ホッとした。
夜までこの人とどう対面していたらいいのか、少し不安だったのだ。
意地悪をされる事はいいけれど、悠里くんがこれ以上苦しむような場面は避けたい。
芯さんが来れば、何か違う方法をとってくれるだろう。
※
1時間ほどして、芯さんが戻った。
表情はいつも通りの飄々としたもので、その下で何を考えているのか全然分からない。
「裕子さん。突然、こういうの……困るんですが」
私が困り果ててウロウロしているのを横目に、彼は冷静にそう言った。
「どこでも私をやっかいものみたいに言うわね。芯……あなた、いつからそういう口を利くようになったの?」
「僕はいつまでも子供じゃない。今では悠里の母親だという事すら認めたくないところです」
寸部も裕子さんを近づけない、ものすごい拒否オーラが出ている。
過去に何があったのか分からないけれど、芯さんが裕子さんを嫌っている事だけは伝わってきた。
「ふ……まあ、いいじゃない。あなたが悠里の父親なんだから」
この言葉に、彼は一瞬口をつぐんだ。
私の心臓は激しく鳴りはじめる。
本当に?
本当に、裕子さんと関係あったの?
心構えを持っていたはずだったのに、何故かその事実が本当だったら絶望してしまいそうだった。
「そんな事……あなたが勝手に言ってるたわごとでしょう」
ようやくそれだけ口にして、雄弁さが無くなった芯さん。
それをいい事に、裕子さんはさらにズケズケと話を続ける。
「この子に、過去のあなたを話したら、驚くでしょうね……私との事すら、倒れそうなほどの顔してたわよ」
この言葉で、芯さんが切れた。
「好き勝ってもいい加減にしてくれ……。悠里の事もめちゃくちゃにして、僕の人生も狂わせて……どこまで他人をひっかきまわせば気が済むんだ。渚には何も関係ないだろ……彼女を混乱させるような事だけはもう言わないでくれ」
抑えた声だったけれど、もう怒りが頂点に達し…今にも傍にある机を殴って穴でも開けそうな……猛烈な怒りだった。
「ふーん。その子の事は結構本気で大事にしてんのね。まあ、今日はちょっと様子を見に来ただけだから……私、簡単には諦めないわよ」
裕子さんは芯さんの心がかなり固いのを見て、今日は撤退する様子だ。
彼にこれだけの怒りを投げられても、全く動じる気配がない。それだけ裕子さんサイドには力があるという事なんだろう。
でも、彼がハッキリと裕子さんを追い出してくれて、私は心からホッとしていた。
※
キッチンで夕飯の支度を黙々と進める芯さん。
私は悠里くんが寝ているのを確認して、彼のお手伝いしようと皿を並べたりしていた。
すると、まな板でトントンいっていた音が消えた。
「芯さん?」
ふと振り返ろうとしたら、突然彼が後ろからギュッと抱きしめた。
「あ、あの……お皿が」
「ごめん」
弱々しい声で、彼は一言そう言った。
裕子さんの出現でダメージを受けていたのは私だけでは無かった。飄々としつつも、彼なりに衝撃だったのだろう。
私は裕子さんの事で彼をどうこう責める気持ちは全然無かったから、私を抱きしめる彼の腕にそっと触れた。
「私は平気ですよ。今の芯さんを信じてますから……過去なんて関係ないですよ」
そう言うと、彼はクルリと私を自分の方に向けさせ、真っ直ぐな目で見つめてきた。
「信じて…る?本当に信じられる?」
「はい」
「じゃあ、それを証明してくれる?」
言うが早いか、彼はそっと唇を重ねてきた。
優しく口内に舌を侵入させ、そっと囁く。
「少しでも疑う心があるなら、この舌を噛んでいいよ……」
「ん…んぁ…」
ぬるぬると自分の舌に絡み付く芯さんのものが、生き物のようだ。
私はその感覚を心地よく思い、なされるがままに……そのままキッチンのテーブルに倒された。
「噛まないの?」
「信じてるって言ったじゃないですか。過去の芯さんは今の芯さんを作る土台でもあったはずです……それを否定する気にもならない。あなたの今を好きだから……」
私の穏やかな言葉を聞いて、芯さんはホウッと溜め息をついて一度私の体を解放してくれた。
夕飯作りは一度止めて、私達は落ち着いて一緒にコーヒーを飲んだ。
白い湯気にのって、部屋じゅうに芳しいコーヒーの香りが漂う。
「僕は……正直、誠実に生きてきたとは言えない男だ。親の愛がどういうものなのかも知らないし、異性を大切にするっていう意味も知らなかった。」
「……」
会社で流れていた噂。
キラーだと……彼の手にかかれば、たちまち女性は彼に溺れてゆくと。
でも、決して彼は一人の女性をいつまでも手元に置かない。
つまり、「本気にならない」というスタンスをとってきたんだろう。
「でも、悠里の事は赤ん坊の頃から世話してるし、自然に可愛いと思うようになった。異性については、渚が……君が、教えてくれた」
精神的な愛情と、人間の欲としての男女関係は違う。
だから、彼が本当に裕子さんと関係があったとしても……それは過ぎた事で、今さら蒸し返す必要は無いと思う。
それに、知る必要のない過去は誰にだってあるはずだ。
私だって秘密の一つや二つはある。
「悠里が僕の子供だったとしても、今だって十分愛情を感じているし……それはいいんだ。でも、それを渚には、正直……知られたくなかったかな」
「芯さん……」
陰りのある笑み。
過去に背負ったもの、今も背負わされているもの。
この人の肩には、一人の人間が背負うにはあまりに重いものがたくさんあるのだ。
私はそう感じ、コーヒーカップを置いて、そっと彼の手を握った。
「芯さん……私、本当を言うと、やっぱりショックでした。あなたの過去は聞きたくないって無意識に思っていたし」
「……」
「でも。あなたを好きだという気持ちや、信じる気持ちは揺らがない。だって、悠里くんはあなたをとても慕ってる。あれはちゃんと愛情を示してきた証拠だと思うんです」
私の言葉を、彼は無言で聞いている。
まるで私からの愛情を確認するかのように。
「どんな過去があっても、私の気持ちは変わりませんから」
「本当に?」
捨てられた子犬みたいに寂しい瞳を向けて、じっと見られると……心の奥から母性が湧き出して止まらない。
私、こんなキャラだったかな?自分でも不思議。
「本当」
そう言って……私は頭を抱えるようにして、彼をギュッと抱きしめた。
「渚……」
彼も私の腰を強く抱きしめてくる。
いつから芽生えたのとも分からないこの信頼感。
母性を引き出す、この天性のものとしか言えない女性をくすぐるオーラ。
裕子さんも、彼のこんな部分にもしかしたら捕らえられている人の一人なのかもしれない。
私は、彼の顔をそっと覗いて……初めて自分から彼の唇にキスをした。
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