草食系な君と肉食系な僕

21.知らぬ自分 

SIDE 芯

 女を愛するってのは……こんなに自分を弱くするものなのか。
 渚を幸せにはできないかもしれない。こんな感情が、自分を猛烈な悲しみの岸辺へといざなう。
「芯さん?」
 両腕をホールドされ、少し涙を浮かべた渚が僕を不思議な表情で見上げている。
「ん?まだキスが足りない?」
「や……そんなんじゃない」
 自分の中に生まれた小さな混乱が大きくなるのが恐くて、僕は可能な限り「嫌な人間」になろうとする。

 こんな自分、さっさと見限って出て行けばいい……そうすれば、今よりは幸せになれるだろ。

 実際に渚が離れたら、どうなってしまうか見当もつかないっていうのに。彼女が去ってしまってもしょうがないと思う自分もいる。
 柔らかくて暖かいこの体を、いつでも自分の腕の中に抱いておきたい。
 一緒に仕事している時は見せてくれなかった女っぽい眼差しも、いつだって自分だけの為に注いで欲しい。
 こういうのを何ていうんだ……そう、アダルトチルドレン?
 子供時代に子供らしい生活をさせてもらえなかったから。今、僕は渚の中に大きな母性みたいなものを見ていて。多分…彼女を釘付けにさせておきたい。彼女の思考を僕が全て支配すればいい。
 こんな勝手な欲望を抱いていて。
 そんな自分に嫌気がさすのも事実だ。

「今日はお仕事休んでくれてありがとうございます」

 自己嫌悪になっている僕に、渚はこんな声をかけてくる。
 これだけ獣のように自分の体を好きにされてるっていうのに、彼女が送ってくる視線は純粋で……猛烈な愛しさがこみ上げてくる。
「渚を昼に食べるのは、案外美味しくてね……好きなんだよ」
 ストレートに愛を語るのは得意じゃない。
 少し皮肉を入れながらじゃないと、自分の抱いている気持ちを吐き出す事なんてできない。

 女がどうしたら堕ちるのか…それはある程度知っている。
 甘い言葉。誘惑の瞳。魅惑的な夜景……呆れるほど簡単だ。このシチュエーションで堕ちなかった女はいなかった。
 でも……僕の心までを満たしてくれる女性はいなくて。
『僕は誰にも愛されない運命なのかもしれない』
 こんな気持ちは常に抱いていた。今だって、渚が本当に自分に心を向けてくれているのか、半分疑っているところがある。
 とんでもなく深い人間不信を抱えている。それが僕っていう男なのだ。

 まだ何か言いたそうな渚の唇を奪う。
「んはぁ……ん」
 少しはキスに慣れてきたのか、彼女の方から強く唇を押し付けてきた。
「可愛いキスするじゃないか」
 少し開いた口内に舌をすべり込ませ、とろりとした彼女のものを探り当てる。この瞬間、渚はいつも体の力を半分くらい抜く。
「渚。キスが好きなんだね」
 合い間にこんなセリフを伝えてみる。
 渚は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、キスを拒む様子は無い。
 できるだけ彼女が喜ぶキスをしてやりたい。僕の思考の半分は仕事に埋められていて、どうにもそこに別のものを侵入させる事はできないけれど……もう半分を渚の為に空ける事はできる。
 
 渚はいつ自分の腕から去るか分からない大事で愛おしい存在。

 恋をすると弱くなると言った男がいたけれど、僕はそれを鼻で笑った。女を好きになるぐらいで自分の心がぶれるなんて……あり得ないと思っていたからだ。
 なのに、今の自分はどうだ?
 渚を自分に惹きつけておくことに必死になっている。
 いくら激務追われる日々でも、彼女と夜に1時間程度会話したりキスを交わす時間が何よりも楽しみになっているなんて……自分で自分に驚く。

「僕がこの世から消えたら……君は泣いてくれるんだろうか」

 渚の体を引き寄せ、僕はそんな言葉をつぶやいていた。
 
「何言ってるんですか?」
「いや……なんでもない」

 ここ最近感じる身の危険。
 今に始まった事ではないけれど、本気で近い将来まずい事態に巻き込まれる予感がしている。
 自分は多くの人間から恨みを買っている事は承知していて、殺したいほど憎んでいる者もいるだろう。
 今までは、それでもいいと思っていた。
 いっそ僕の存在なんか無いほうが、この世の為にはいい事の方が多いだろう……なんて思っていたくらいだ。
 でも、渚は悠里と自分の為に生きて欲しいと言ってくれた。
 もちろん悠里の事は愛しているし、あの子にだけは不自由な生活はさせたくないと思っている。でも、育てるのは自分じゃなくてもいいかもしれないという気持ちはあった。
 あの子が僕の子供じゃないかと渚は疑っているようだけれど……あれは違う。逆に、悠里と僕は血が繋がっていない可能性もあるのだ。昔から裕子の男関係は乱れていて、彼女自身僕との子が悠里だと言いながらも確信は持てないでいるのが分かる。

 あまりにも可愛そうな境遇で生まれた悠里。
 父は認知だけはしたけれど、父親らしい事は何ひとつしてやっていない。見かねて、僕が一緒に暮らす事を申し出た。

 そうだな。
 そういう意味では……僕は唯一、悠里の事だけは愛していた。この子が一人前になったら、僕の生きている意味は無くなるだろうとすら思っていた。
 そんな僕の前に現れた渚。
 男も甘えていいのだと……女の懐に包まれて、涙が出そうなほど心地いいなんて。生まれて初めての経験だった。

「渚……いくよ」

 キスと愛撫で十分に濡れた彼女のあそこに、自分のものを押し当てた。渚は大人しくその瞬間を待っている。
 体を重なり合わせる事で愛を表現しようと思っている自分。
 決して優しいとは言えない自分の愛情表現を、渚は嬉しいと言って受け入れてくれる。

 どこまでおひとよしなんだ……。
 こんな獣みたいな男の餌食になって、それでもいいなんて…何で言えるんだ。

 僕の精神は三つに分裂している。

 一人は渚を死んでも手放したくないと言っている。
 もう一人は渚が自分を嫌いになってくれればいいと言っていて。
 もう一人はいっそ自分がこの世から消えればいいと……言っている。

「芯さん……芯さん」

 僕の名前を呼んで、必死にしがみついてくる渚。
 どうして男と女は別々に生まれてくるんだろうという不思議な感覚に襲われるのは、こういう時だ。一緒になりたい…一体化してしまいたい。そう思うほどなのに、結局この交わりの時間を過ぎれば僕達はまた別々の人間になってしまう。
 それが猛烈に寂しいと思ったのはつい最近だ。
 渚が僕にすっかり心を許すようになった頃から……何か価値観が1つ崩壊したような気がする。

 僕にも生きる意味があるのかもしれない。

 こんなシンプルな意味を与えてくれたのは、間違いなく渚だ。
 
「いい顔だよ……僕の渚。もう一度キスさせて」
 先に果てた彼女の顔に唇を寄せ、可能な限り優しく背中に腕を回す。こうすると、渚は両腕を僕の肩に絡ませ、荒い呼吸のままギュウッとしがみついてくる。
「芯さん…どこかにいってしまうような事、もう言わないで」
 本当に泣いているのか、渚は顔をこちらに向けようとしない。
 分裂していた三つの自分のうちの1つが強く立ち上がる。

 やはり渚を手放してはいけない。
 この女性を失ったら僕は生きてはいけないし、恐らく彼女も同じくらいの失望感を味わう事になるだろう。

「どこにも行かない。大丈夫だよ」

 安心させようと、僕は今まで付き合ったどの女にもやった事のない優しいキスをする。
 交わりばかりが快楽ではなく、終わった後の余韻が気持ちいいのだと……今更知ったというのは、やや滑稽な話かもしれない。

 どこにも行かないと約束をしたこの日。

 渚の抱いていた「嫌な予感」が……当たってしまう事になるとは。
 この時の僕は知るよしもなかった。

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