草食系な君と肉食系な僕
6. 思いがけない展開
上司への不適切な態度、仕事の怠慢。
まあ……理不尽なほどの理由をつけられて、私は会社を解雇される事になってしまった。
こんな履歴をつけられたら、再就職なんてほぼ絶望的だろう。
「あんな男の手口にまんまとハマってしまった」
ガックリと肩を落とし、私は自分のデスクの整理をした。
愛着が湧いていたPCの中も綺麗にして、自分が使っていた形跡はもう残っていない。
影沼……許さない。
あんな女を見下したような男。あんな冷酷な人間の思い通りにされるなんて。
悔しくて思わず下唇をギリギリ咬んでしまう。
―――― ピロリン!
私の愛用している携帯が鳴る。
でも、そのメール相手は影沼氏。彼には私のプライベートを色々聞き出されてしまっているのだ。
兄と同居している事も、甥っ子が心配だから夕飯の支度くらいはさせに行かせて欲しいとも言ってある。
『ごくろうさま。早速今日自宅に連れて行きたいから、地下の駐車場で待ってて』
こんなメッセージを見ると、もう自分は麻酔をかけられた動物みたいに彼の思うがままにされるのだという感覚になる。
兄は無責任だから、『おお、それはいいじゃん。相手は将来社長さんなんだろう?金持ちになるチャンスじゃないか?』こんな事を言った。妹が冷酷な金持ちの奴隷になるのが嬉しいのかしら。
私の中ではあくまでも仕事で影沼氏の家へ行くのだと思い込ませている。
そうじゃないと、あの人は何をしてくるか分からない。隙を見せられない相手だ。
駐車場には、影沼氏個人で使用している車がある。
車の種類には詳しくないけれど、そのボディを見れば高級車なのが分かる。
「鍵開いてるよ、乗れば?」
私が荷物を持ってボンヤリしていると、後ろから影沼氏の声が。
「あ…ああ、あの。荷物を兄のアパートに置きに行っていいですか?」
「何で?」
ここで“何で”という答えが返ってくるのがおかしい。
「だって、私物を自分の部屋に置くのって普通じゃないですか?」
「君の自宅は僕の屋敷になるってまだ自覚してないの?」
「……え?」
強引なのは知っている。
理不尽な事を平気でやったり言ったりする人だというのも分かっている。
でも、自分にとっての“自宅”が影沼氏の屋敷になるっていうのは想定していなかった。
「たいして多くもないんでしょ。貸して」
そう言って、彼は紙袋二つほどの私の荷物を後部座席にドサリと置いた。
「はい、助手席にどうぞ」
気持ち悪いほど丁寧な物腰で、影沼氏は助手席のドアを開けてそこに乗るよう促した。
抵抗しても意味が無いのが分かるから、私は黙って助手席に乗る。
社用車とは比べ物にならないほどフッカフカの座り心地がいい座席。思わずリクライニングを倒して寝てしまいたいほどの快適さだ。
「うちまで1時間くらいかかるから、眠かったら寝てていいよ」
運転席に座った影沼氏は、思ったより柔らかい調子でそう声をかけてくれた。
でも、さすがにご主人様を運転させて自分が眠るなんて悪い気がして、私は慌てて体を起こした。
薄暗くなった道路を、静かに走る。
商店街を歩く人達を見て、本当なら自分はあそこを歩いている人間なのになあという不思議な気分になっていた。
「小島さん」
10分ほど沈黙していた影沼氏が私を呼んだ。
早速何かの命令だろうか。瞬時に緊張が走る。
「何でしょうか」
「ひとつ言い忘れてた事があるんだ」
「はあ……」
今さら何を言われても驚かないつもりだ。でも、彼が改めて何か真剣な事を言おうとしているのを見ると、何を言われるのかと思ってしまう。
「僕には、腹違いの弟がいる。まだ7歳で、まあ……父親が外で作った子なんだけどね。その弟も一緒に暮らしてるんだよ……名前は悠里(ゆうり)。君にも甥っ子さんがいるから子供は大丈夫だと思ってるんだけど」
「弟さん…ですか」
年を考えたら、彼の子供だと言ってもおかしくないほどの年齢差だ。
それより、そんな小さい子と同居しているという影沼氏の日常がふと気になった。お世話とか誰がやっているんだろう。
「体が弱くて、病院に入ったり戻ったりの繰り返しなんだ。小学校にもほとんど行けてない。専属のメイドも入れた事があったけど、悠里がなつかなくてね……小島さんなら何となく大丈夫な気がしたんだ」
「……」
激務に追われている影沼さんが、自宅ではそんな苦労をしてるなんて想像もしてなかった。
だから私が甥っ子用に作ろうとしていたケーキレシピをコピーしていた事も咎めなかったんだ。
職場では鬼みたいに冷酷だけれど、体の弱い弟さんの事を気にかける人間らしいところもあるのが分かって、私はちょっとホッとしていた。
※
影沼氏の屋敷は、思った以上に大きくて。これで人の手が入ってないとなると、掃除するだけでも大変そうだった。
「とりあえず、使ってるのはリビングとキッチン。あとは悠里と僕の部屋くらいかな。小島さんの部屋は悠里の部屋の隣にしようかと思ってるんだけど……それでいいかな?」
「はい」
職場でのテンポと違う会話になっているから、私の中ではやや混乱が起きている。
ムカつく上司で、超自己中な男だと思って嫌いになりそうだったのに……プライベートを少し聞いただけで少し「力になってあげたい」なんていうおせっかいな気持ちが出ていた。
「お兄ちゃん……」
玄関に、パジャマ姿の小さな男の子が現れた。
パッと見たところ影沼氏には全然似てない。髪の色が茶色で、顔のつくりもハーフのようだった。
「悠里、今日から住み込みで働いてくれる小島渚さんだ」
影沼氏に紹介され、私は脱ぎかけていた靴から手を離した。
「はじめまして、悠里くん。よろしくね」
「うん。お兄ちゃんが言ってた人だよね」
当然ながら、私がここに来る事は言ってあったらしく……悠里くんは最初からわりと穏やかに私を迎えてくれた。
「えーと……私は何から仕事すればいいんでしょうか」
リビングに入って、その広さに驚きながら私は自分のなすべき仕事を聞いた。
「荷物は僕が全部君の部屋に運んでおくよ。今日は疲れただろうから、適当にしてていいよ。あ、あと食事は僕が作る。ずっと悠里に食べさせてきたからね、僕の味つけじゃないとダメなんだ」
「そうなんですか」
適当にしてるというのが一番難しいのだけど……と、悩んでいたら。悠里くんが私のブラウスの裾をグイグイと引っ張った。
「渚ちゃん、一緒にゲームしよう」
「ゲーム?」
「うん。一人だとつまんないの」
病弱で学校にもほとんど行ってないとなると、よほど寂しい日々を過ごしているんだろう。
悠里くんの目は私に対する期待でいっぱいになっているように見えた。
「悠里。小島さんは今日仕事して疲れてるんだ、あまり無理言うなよ」
「あ、私なら大丈夫です。悠里くん、じゃあゲーム一緒にやろうね」
影沼氏が私に気を使っている……。
私の胸は予想外にときめきでドキドキしていた。
子供と動物に優しい人に弱いのだ…私は。会社で一番嫌いだった影沼氏の屋敷で働く事になり……しかも家庭では彼が案外優しい事に驚いている。
ああ…いけない。
こんな事で私は異性を好きになるタイプじゃなかったはず。こんな簡単に惹かれてしまうなんて……おかしいよね。
自問自答しながら、私は悠里くんに対戦式のゲームを2時間ほど付き合わされた。
「わー、渚ちゃんへたくそだねー」
「う……練習が足りないだけよ。ねえ、このゲーム機借りていい?練習するから」
思わずムキになり、私は悠里くんと対等に戦えるほどに上達したい気になっていた。
「いいよ。お兄ちゃんが言ってた通り、渚ちゃんって面白いね」
邪気の無い笑顔で、悠里くんは私に向かってニッコリ笑った。
「え?影沼さんがそんな事言ってた?」
「うん。とっても面白くて、とっても優しいお姉さんが来るから楽しみにしてろって言ってたよ」
「!!」
悠里くんの言葉を聞いて、私は耳まで赤くなってしまった。
影沼氏がー…私を“面白くて優しい”って?
悠里くんに警戒されない為に、うまく言ったのかもしれないけど…あの偏屈が口先だけの事を言うとは思えない。
そのとたん、部屋のドアがガチャリと空いて、影沼氏の仏頂面が現れた。
「晩飯できたぞ。……楽しそうだな」
悠里くんが私になついているのを見て、かなり安心したような表情をする。
ダメ……その笑顔反則だから。
あなたは冷徹な憎らしい人でいてくれないと、私はここで働きづらくなる。
「僕お腹すいてない……後で食べる」
悠里くんはそう言って、ゲーム機をカチャカチャと片付けた。
「そうか。じゃあ小島さんだけでも来いよ」
「あ、はい」
「渚ちゃん、そのゲーム貸してあげるから。練習しておいてね」
私があたふたと部屋を出る手前で、悠里くんが引き止めるようにそう言った。
「もちろん。明日にはもっと強くなってるからね」
「うん」
部屋を出て、私と影沼氏は思いがけず二人きりになった。
キッチンに用意されたテーブルに座らされる。
「悠里……一瞬にして小島さんになついたな」
美味しそうなスープを私の前に置きながら、彼はひとり事のように言う。
どうやら悠里くんが食事をしたくないというのはしょっちゅうの事のようで、食べたい時間になったら再度用意してあげるという状態らしい。
「影沼さん……悠里くんの面倒を見ながら、会社の激務もこなしてたんですね」
お腹はすいているけど、何だか今まで自分がとってきた行動が恥ずかしくなって、なかなかスプーンを手にできない。
すると、向かいに座ろうとした彼がすっと横の椅子に腰かけた。
「意外でしょ。こう見えても、子供と女には優しいつもり」
すっと長くのびた彼の指先が私の頬に触れる。
体がビクンとなって、自然に声が出そうになった。
「半端な気持ちで君をここに呼んだつもりないよ。僕なしではいられないようにしてあげる」
唇のところで指を止め、彼はそっと私にキスをした。
あの食べるような猛烈なものではなくて、今回はほのかに愛情すら感じられるような……甘い、甘いキスだった。
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