草食系な君と肉食系な僕

9.肉食彼の素顔

 私の体調は、思ったよりうまく回復してくれない。
 昼に悠里くんの相手をするくらいは出来るけど、外に買い物に行ったりする事ができない。
 そういうのを考慮して、影沼氏は宅配サービスを利用してもいいと言った。
「欲しい材料はだいたいメモしておくから、それを注文すればいい」
 とても簡潔な言葉。
 私の負担を減らそうとしてくれているんだろうけど、ぶっきらぼうだから…優しさの半分も伝わってこない。
「お給料もらう立場なのに、色々すみません」
 メイドとして働いているのに、これでは普通の家族と一緒だ。
 でも、影沼氏は全く動じる気配がない。
「あー……家の事は適当でいいよ。悠里をみてもらってるだけで助かってる。それに、僕の目的は君のその鉄壁な男嫌いをどうにかしてやりたいっていうところだからね」
「え?」
 聞き返したけれど、彼は同じ言葉は二度と言わなかった。
 前から感じていた事だ。
 影沼氏は、私の頑なな男嫌いを見抜いていて……どうにか私が自分の虜にならないかと各策している様子が見える。

 正直、もうキスもされてるし。
 裸も見られて……私の中でも彼と敵対しようという気持ちが萎えているのは確かだ。
 でも、簡単に陥落した様子を見せるのはちょっと悔しい。まだ職場での冷酷な彼を忘れた訳でも無いし、言葉にしにくい葛藤がたくさんある。

「外で鬼に徹してるからね…家に戻ってきた時くらいホッとしたいよ」

 ポロリと漏れた影沼氏の本音。
 会社が潰れないように、彼なりに心を痛めながら人員整理をしてるんだろう。当然たくさんの人から恨みを買ってるだろうし…私だってそんな人間の一人だった。
 でも、思ったのと違った彼の素顔。
 体の弱い小さな弟を大事にしていて、理不尽な事もあるけど……私にも優しくしてくれる。
 本当はとても家庭的な男性なのかなと思う。
 料理は上手だし、外の顔と中の顔を切り替えるのもうまい。

 まあ……自宅に戻ってまであの厳しい仕事を考えてるのは嫌なんだろう。

「ねえ……僕の膝に乗ってみて」
「は?」

 出かける支度もできてるというのに、彼は私の寝ているベッドに腰掛けてそんな事を言ってきた。
 スーツがしわになるし、嫌だと言ったのに…彼は無理やり私を自分の膝の上に乗せた。

「僕が病気で倒れても、優しくしてくれる?」

 この時の影沼氏の瞳はいつもの鋭さが消えて、可哀想な子犬みたいになっていた。
 思わず「可愛い」と、思ってしまう自分が…やっぱりよく分からない。

「もちろん、看病しますよ。今回は私が多大な迷惑かけてしまって」
「迷惑じゃないよ。渚……いつか君は僕を心から欲するようになる。これは予言って言ってもいいかな」

 いたずらっぽい笑顔で彼は私の頬に軽くキスをした。

「もう、からかうのもいい加減にしてくださいよ!」
 私が本気で怒りかけた瞬間、彼は私の唇にチュッとキスをした。
 それがあまりにも自然なものだから、私は呆然として目の前にある影沼氏の瞳を見つめる。
「風邪なんで僕にうつしちゃえばいいよ。僕人間じゃないから。体で全部菌が死ぬ」
「……何それ」
 確かに、風邪菌も彼の体内に入ったら死んでしまいそうな感じがする。
 それくらい彼は毒気が強いのだ。
 例えが面白かったから、私は思わずクスクスと笑ってしまった。
 すると、影沼氏は思いがけない事を言った。

「笑ってる方が可愛い」

「え?」
 生まれてこのかた、可愛いとか言われた経験がほとんどない私は当然驚く。
 でも、彼の顔は比較的真面目だ。
「職場に居た頃は、僕の事、親の仇みたいな目で見てたからさ……」
「そりゃあ…だって、影沼さんはとっても理不尽なほど厳しかったから」
 そう言われてみれば、職場で彼を面と向かって威嚇してたのは私くらいだったかもしれない。
「他の女とは違う目をしてた。ビックリしたけど、君の心を僕のものにできないかなってずっと思ってたよ」
「……」
 女慣れしてるんだ。
 こんな口説き文句、どこでもサラサラ言えてしまう人なんだ。
 そう思い込もうとするんだけど……彼が案外優しい一面も持っているのを知ってしまった今となっては、戦う気力も起きない。

「女は好きだけど、自分に縛り付けたいとか思った事はなかったよ。君が初めてだな……ずっと傍に置いておきたいって思った対象は」

 何となく人形を扱ってるような言い方だから、少しムッときたけど……この人はこういう表現でしか愛情を伝えられないのかもしれない。

「お仕事……遅れるんじゃないですか?」

 私を抱いたまま、なかなか場を去ろうとしない事が気になった。
 仕事人間だから、いつもは私の顔も見ないで出かけてしまう事もあるのだ。

「……たまには、仕事を忘れたい日もあるさ。渚が風邪ひいてなかったら、このまま抱いてやりたい気分でいっぱいだよ」
「!」
 
 冗談には聞こえない。
 何故か分からないけれど、彼は私の存在で少し心のバランスがとれている様子だ。
 いつもピリピリして、社員には恐れられ、安らげる場所なんか無いんだろう。

 でも……私は、男性に抱かれた経験がない。
 影沼氏の事は嫌いじゃなくなったけど、いざ体に触れられるとなると……どんな事になるのか想像がつかない。

「冗談。行ってくるよ……悠里が少し調子悪いみたいだから、様子見ててくれる?」

 私をベッドに戻して、立ち上がった彼はビジネスマンの顔に切り替わっていた。

「分かりました。私もできるだけ早く元気になりますから……こちらの事は気にしないでください」
「うん。でも、何か厳しい状態だったら遠慮なく携帯に電話して」
「分かりました」

 部屋を出て行く、影沼氏の肩は広くて……男性の包容力を感じさせるものがあった。
 若いのに……会社の責任の半分ほどを背負わされ、非情に徹しなければいけない。まだまだ思いやりっていうものには欠けたところがあるけれど、彼の根がそれほど冷たいものではないのが一緒に暮らしていて分かってきている。

 こんなに男性を身近に感じた事はない。
 付き合った男性の事は、兄弟が何人いるのかすら分からない人もいた。
 あれは愛情以前に、恋とも言えないものだったと思う。

「ああ……やっぱり私はあの人を好きになってしまったのかなあ」

 これだけ自分の思考を支配する男性に会ったのは、やはり生まれて初めてだし。
 自分のピンチを本気で心配してくれた事も手伝って、影沼氏を好きだという気持ちを誤魔化すのは無理そうだという事を認めざるを得なかった。

 影沼氏の唇。
 私のと重なると、何故か違和感が無い。
 とろけるような感覚になって、いつまでもその口付けを受けていたい気持ちになる。

 私は草食じゃない。
 多分……恋愛を恐れている、ただの弱虫だったんだ。
 だって、今…私は彼に抱かれてもいいかなっていう気持ちにすらなっているのだ。

 私の胸の中で、毎日抱えているストレスを少しでもやわらげてあげたい。
 上司だった人だし、今はご主人様だけど……年下の男性には違いなくて。
 私の持っている本来の「母性」が呼び覚まされてしまった感じだ。

 意地悪なご主人様に、私の気持ちは傾いた。

 残念ながら、これは認めざるを得ない事だと……ベッドにうずくまりながら感じていた。

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