草食系な君と肉食系な僕

2−1 記憶

 私は今、“完全にメイドな状態”で影沼邸にいる。
 なぜこんな状態になっているかというと、芯さんは私の事に関する記憶を失ってしまったから……だ。正直、とてもつらい日々を送っている。

 あの日……芯さんに屋敷を追い出された日。元派遣社員の野崎さんが、彼のいる影沼邸に火を放った。
 ニュースで報道されて、すぐに現場へかけつけたけれど、その時にはすっかり火は消えていて、せわしなく警察が周辺住民への聞き込みをしていた。
「あの、この屋敷に住んでいた方はどうなりましたか?」
 忙しいのは分かっていたけれど、芯さんがどうなったのか聞きたくて、私は強引に警察に話しかけた。
「こっちは忙しいんだ。あんた誰なんだ」
「このお屋敷で働いている者です」
 もうクビになって屋敷を出た事は伏せて、私はそう伝えた。すると、警察の態度は少し軟化して、私にも何か事情を聞きたい事があるような様子を見せた。
「影沼さんが雇い主なの?」
「はい。あの、それで…彼は…」
「放火の可能性が高いんだが、……何か分かる事ないですか」
 すぐにでも彼の様子が聞きたいのに、警察は彼の容体を何も言ってくれない。
「事前に何か危険を察知しているような様子はありました」
「ふむ……やはり、放火の線か」
 ここまで話したところで、救急車に運び込まれる芯さんを見つけた。
「芯さん!!」
 駆け寄って声をかけるけれど、彼は目をつむったまま酸素ボンベを口にあてられている。
「彼は、大丈夫なんですか?」
 救急隊員の人にそう質問すると、彼らは少し渋い顔をした。
「関係者の方ですか?」
「そうです。影沼さんの使用人です」
「……同行者がいないんで、あなたに頼んでもいいですかね」
 私と悠里くんが出てしまった影沼邸は、当然誰もいない。
 家族と呼べる関係の人が極めて薄い芯さんだ……私が救急車に乗っても特に文句は言われないだろう。
 そう思って、私は芯さんの手を握りながら救急車に乗った。
 
 搬送中、救急隊員のやりとりを聞いていると、どうやら芯さんは一酸化炭素中毒によって意職不明になっているようだった。
 外傷があったのか、頭に包帯を巻いているのが気になったけど、どれくらいの傷なのかを聞いている余裕はなかった。
「芯さん、芯さん……」
 彼はこんな事件が起こる事を予期していたに違いない。
 説明するには難しい事だったろうし、私の性格ならあの屋敷を出ないと言い張った事も想像できる。
 だから、彼は危険を察知した段階で私と悠里くんを外に出す事を即決したんだろう。

 野崎さんが放火したと分かったのは、事件から三日経った頃だ。
 派遣切りにあい、そのせいで家族と別れる事になり……自暴自棄になったという理由だった。
 悪質なファックスの送り主も彼だったようで、かなり以前から犯行の意志はあったようだ。それでも、私が芯さんに内緒であのファックスを破り捨てていたせいで事件を大きくしてしまった……。この事は今でも悔やんでいる。
 正直に変なファックスが届いている事を伝えるべきだった。
 何のきっかけなのか分からないけれど、芯さんは自分の身に危険が迫っている事を緊急に知るチャンスがあったようで……それで、とばっちりが私達にかからないよう、早い段階で屋敷の外に出した。
「芯さんらしいけど……残された人間の方がつらいよ……」
 ベッドで目を閉じたきりの彼を見ながら、私はただ涙を流すしか術が分からなかった。

 派遣切りの時、確かに芯さんはひどく冷酷な方法で彼の仕事を奪った。同じほどに芯さんを憎んでいる人はたくさんいただろう。
 本当の彼は、一人切るごとにお酒でも入れないと紛れないほどつらい気持ちになってしまう人だ。でも表にそんな顔は見えないから、当然彼を恨む人は多い。私だって、一緒に暮らすようになってから彼を好きになった訳で……会社にいた段階で彼を好きになるのは難しかったと思う。
 今、ようやく彼を心から愛しいと思える自分になったのに。そんな自分の前で、彼は「ごめん、どうしても君の事を思い出せない」なんて言うようになってしまった。
 悠里くんの事は分かっていて、そういう意味で言えば、私が屋敷に来る前の彼に戻ったと言ってもいいかもしれない。いや……違う。記憶を失った彼は以前の彼ではなく、すっかり野獣性を失った状態だ。

「放火されるなんて、僕も相当冷酷な上司だったんだな」
 週刊誌に面白おかしく記事を書かれているのを見て、苦笑する芯さん。
 それを聞いていて、私はどう答えたらいいものか迷ってしまう。以前の芯さんになら、「そうですよ、あなたは随分な鬼でしたよ」なんて軽く茶化す事もできたかもしれない。でも、今の彼は本来持っていたナイーブな部分を露出したような状態で……うっかり冗談も言えない。
「あまり外の意見を気にしないでください。私と悠里くんは影沼さんの味方なのだから」
 コーヒーを差し出しながら、私は遠慮がちにそう言葉をかける。
 私の事はほとんど覚えていないから、『芯さん』と名前で呼ぶのも慣れなれしい感じがして……結局彼の事は『影沼さん』と呼んでいる。
「ありがとう。何だか、いろいろ良くしてくれて……感謝してるよ」
 ニッコリ微笑む芯さん。
 本来の優しい彼が見えたのは嬉しいけれど、“こんな状態の彼は違う”と思ってしまう自分がいる。
 私は、意地悪で不器用で……それでいて時々大胆な彼が好きだった。そう、『肉食系』な彼を私は愛したのだ。

「お兄ちゃん、渚ちゃんを忘れちゃったの?」
 悠里くんも私と同じくらい彼の変化を悲しんでいる。
「忘れたというか、記憶の金庫に鍵がかかってしまってるような感じなんだよ」
「いつか思い出す?」
 私が寂しい顔をしているのを見るのがつらいようで、悠里くんは一生懸命こんな言葉を口にする。
「そうだな……僕にとって大切な人の事なら、きっと思い出すよ」
「……」
 芯さんの言葉を、複雑な思いで聞く。
 じゃあ、彼にとってそれほど大切な存在じゃなかったなら、このまま思いだされずにメイドとして彼に仕えるしかないんだろうか。
 うっかり涙が出そうになるけれど、これ以上悠里くんを不安にさせてもいけないから、一生懸命それを我慢する。



 芯さんは事件をきっかけに、仕事の第一戦から退く事になってしまった。
 記憶さえ戻れば、以前のように働けるのだろうけど……今の彼は混乱しすぎていて、とても激務をこなせるような状態じゃなくなってしまったのだ。

「父さんからいきなり連絡があって、何かと思ったら……芯の代わりになれって。全く迷惑な話しを持ち込まれたよ!」
 こんな言葉で影沼邸に現れたのは、金髪で色白の男性だった。どう見ても日本人顔ではなく、少し悠里くんに似ている感じだ。
 この人は、芯さんのお兄さんにあたるらしく……今まで自営していた会社の社長をやっていたらしい。芯さんのお父様から代役を頼まれ、臨時に会社の指揮をとる事になったのだと言った。
「社内に芯以上に使える人間がいないってのも問題だと思うけど……まあ、自分の会社以外を見るのも面白そうだから来てみたよ」
 外見は芯さんよりずっとマイルドで甘いのに、この人の言葉には常に『毒』が感じられる。
「綾(りょう)に頼むなんて、親父もよっぽど僕が頼りないと思ったんだろうな」
 芯さんは、そう言って影のある笑みを見せた。
「そりゃあ、お前……毒を抜いたような今の芯に会社を任せられるわけないだろう。しかも、今は人員整理の真っ最中らしいじゃないか。放火されるほど恨まれるのはしょうがないさ……ま、僕はもう少し上手くやるけどね」
 綾さんは芯さんの倍は毒を持っている。
 そんな感じがして、思わず私は彼を凝視してしまった。
「何、僕の顔に何かついてる?」
 私の視線に気付いて、綾さんが私を見た。
「いえ、別に」
 お茶を運んできたトレーを抱きかかえ、そのまま場を去ろうとしたら……腕を捕まれた。
 驚くほど強い力で、そのまま私は綾さんの座っていたソファに倒れ込んでしまった。

「ふーん……芯が手なずけた野良ネコって、君の事だろう?」
 男性のつける香水の香り。
 それが強烈に分かるほど、彼は私の近くまで顔を寄せてきた。
「何の事ですか」
「裕子から事情は聞いてる。別件で頼まれてたんだ……忘れてたよ」
 チョンと顎をすくわれ、以前の芯さんを思わせる冷めた声を耳元で囁かれた。
「な、何をですか?」
 目の前に芯さんがいる事で、私はかなり慌てた。そんな私を見て、綾さんは楽しそうに笑う。
「芯の周りをウロチョロしてる君をたぶらかして欲しいって言われてたんだ」
「!?」
 この言葉には私だけでなく、芯さんも反応を示した。
「芯、記憶がなくても、この女に興味あるか?それほど上玉とは思えないけど」
「言いたい事はそれだけか?綾、お前…何がしたいんだ」
 今まであまり表情を変えなかった芯さんが、急激に怖い顔になった。
「はは……怒らせたらやっぱりお前が一番恐そうだな」
 軽い調子で笑い、綾さんは私を解放した。
 良く分からないけれど、芯さんと綾さんはちょっとしたライバル関係にあるようで。お互いに相手には絶対負けたくないという雰囲気が見えた。

「ま、しばらくこの屋敷にやっかいになるよ。僕のお世話もよろしく……渚ちゃん」

 不敵な笑みを見せ、綾さんは勝手に空いてる部屋に自分の荷物を入れている。
 断る事もできず、芯さんは悔しそうな表情をした。

 この人のせいで、私は二匹の野獣と一緒の暮らしをしなければならなくなった。


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