草食系な君と肉食系な僕
8話 変化
しばらくぶりに影沼の屋敷の前に立った。
綾さんが週末は帰っていいと言ってくれたから、私は素直にそれに従う事にした。芯さんに会いたいというのはもちろんあったけれど、悠里くんがどうしてるだろうかというのも気になっていた。
複雑な家庭に育ってはいるけれど、芯さんは悠里くんを可愛がっていて……今のところ曲がったところは見られない。それでも、もし自分の本当のお父さんが綾さんだと知ったらどうだろう。自分のお母さんに対して不信感を持たないだろうか。
「結婚もしたことないし……子供を持つ母親の気持ちなんて余計分からない」
色々考えてはみたけれど、私の中ではハッキリした答えが出ない。
誰かを悪者にして責めていられたら楽なのに、影沼家の人たちはどうにも完全な悪人になりきれない人が多い。
私の思いは二つ。悠里くんが自分の生きる道に疑問を持たずにまっすぐ育ってくれる事。そして、もう一つは芯さんと綾さんが苦しい生き方から解放される事。
二人が幸せを見つけたら、私はどうなるんだろう。
身分の違いとか当然考えるけれど、私は芯さんのパートナーになるほどの人材じゃない。結婚っていうのはそう簡単じゃない。それはお兄ちゃんを見ていて思っていた。どんなに好きあって結婚しても、生活の過程で負の条件が重なれば別れが訪れる事もある。
怖い……。
そうだ、私はえらそうなことを色々考えてるけど。結局自分が傷つくのが怖いのかもしれない。自分は芯さんを好きでい続ける自信がある。でも、芯さんは年下だし……これからもっと素敵な女性に巡り会う可能性も高い。
「私らしくないな」
強気で男嫌いの看板をかけていた頃の自分の方が、今よりずっと強かった。
失うものもなかったし、恋をする本当の苦しみも知らなかった。
要するに……芯さんもつぶやいたことがあるけど。
『守るものができると、弱くなってしまう』
こういう事なんだろう。
大切な人の為に戦うのは当然躊躇しないけれど、自分がいる事で本当に相手が幸せになるだろうかと考えると……答えが出なくなる。
こんなに複雑にものを考える人間じゃなかったんだけど。芯さんや綾さんと知り合って、人間の中身は複雑に出来ている事を知った。
「渚ちゃん!」
玄関に茫然と立っている私を見て、少し大人っぽくなった悠里くんが驚いた声を上げた。
「悠里くん。元気にしてた?」
「う……うん。僕は元気だよ」
少し言いにくい表情で、彼はそうつぶやいた。
「僕は……ってことは、芯さんはそうでもないの?」
「ん……僕にもお兄ちゃんの考えてることが分からない」
「?」
こんなやりとりがあって、私はとりあえず靴を脱いで屋敷の中へと入った。
中はそれほど散らかってなくて、定期的にハウスキーパーを入れているという話を綾さんから聞いたのを思い出した。
私が居た頃より何だか余分なものがなくなって、すっきりしている。
その情景を見るのが何だか少し寂しい。それに、悠里くんが何か言いにくそうにしているのも気になる。
久しぶりに晩御飯の支度をして、私は悠里くんと向かい合って食事をした。
最初の頃は使用人だからといって一緒の食事は断っていたのだけど、一人だと寂しくて食欲が出ないという悠里くんの意見を聞いて芯さんから是非一緒に食べてくれと言われた。
シンプルな肉じゃがとほうれん草のおひたし……それに野菜の味噌汁。
こういうのが芯さんは好きで。洋食系を好む悠里くんも、自然にこの食事に慣れてくれた。今では大嫌いだったほうれん草もモリモリ食べてくれる。
「悠里くんもすっかり一人前になったね」
私の料理を美味しそうに食べてくれる彼を前に、私は思わず笑顔がこぼれる。
「うん。好き嫌いはもうほとんどないよ。学校にも行ってるし、お医者さんからも体育とかに出る時間もあっていいって言われてるんだ」
あんなに学校嫌いだったのに、ニコニコと学校の話をする悠里くん。
心配しすぎだったのかな……こんなに真っ直ぐ育ってくれているなら、影沼家の複雑さというのは悠里くんにとってそれほど悪影響じゃない?
こんな事を考えていると、いつの間にか芯さんが帰ってきていて……食事を終えて食器を片づけている私の目の前に立った。
「渚。何故いる?」
想像していたのとは違う、とても冷たい反応に私の心はギュッと縮まる。
「え?」
「綾のところにいるはずだろう。ここで何をしているんだと聞いてるんだ」
帰ってきてほしいと言ったのは芯さんだ。
待ってるって。
なのに……この、いかにも「迷惑だ」といわんばかりの態度は何だろう。
「あの。綾さんが週末だけはここに来ていいって……」
「はは、あいつらしいな。俺の女を抱く気にはならんとか……そんな事を言ったんだろ?」
「……」
知り合った頃の冷徹な仮面をかぶった芯さん。
分かってる。こういう態度をとるときは、決まって彼は本心をどこかへ隠しているのだ。
それでも、笑顔で迎えてもらえると思ったのに……やっぱり、ショックは大きい。
「風呂に入れ」
エプロンのひもをシュッとほどき、芯さんは私にそう命令した。
「先に芯さんが……」
「綾の匂いをプンプンさせている渚を抱く気にはなれん。さっさと行け」
私の目を見ず、何かうしろめたいことでもあるかのように彼は氷のように冷たい言葉を吐き続ける。
(私が綾さんのところへ行っているのが気に入らないんだろうか)
出て行く時ですら、こんなに冷たくはなかった。
なのに、今更どうして?
私の心はハテナでいっぱいだったんだけど、口ごたえするのも無理で……大人しくお風呂に入る事にした。
「……」
私と芯さんの様子を、悠里くんが遠くで心配そうに見ている。きっと芯さんがこんなふうになってしまっているのを、悠里くんは分かっていたのだ。だから、事実をうまく伝えられなくて、おどおどしてしまったに違いない。
(きっと芯さんサイドで何か起こったに違いないわ)
脱衣所で衣類を脱ぎながら、私は芯さんが変わってしまった理由を考えていた。
綾さんにライバル意識を持っているのは事実として……それでも、私が帰ってくるのを待ってくれていた芯さんだ。それよりも強烈な何かがあったに違ない。
優しい芯さんを知っている。
私は……あの人の心が冷えているとは思っていない。
絶対何か理由があるのだ。
ゆっくり体を洗っている気持ちにもならず、おおざっぱにシャワーを浴び、私はすぐにお風呂を出た。
抱く気になれないとか言っていたけれど、私だって今のような芯さんに抱かれる気持ちにはなれない。言われたとおりお風呂には入ったけど……このまま今日は寝てしまいたい。
そうは思っても、リビングですっかり私を待ち構えていた芯さんの前を素通りするのは無理だった。
「渚……僕の部屋にいろ。すぐに行く」
「……はい」
何かされる前に理由を聞こう。
冷たい態度をとる理由が分かれば、私だって彼を受け入れる気持ちになれるだろう。
そう思って、私は言われるまま芯さんの寝室へ入った。
中は以前と同じで、無駄なもののない空虚な部屋。
違うのはお酒の瓶が数本ベッドサイドに置かれていたことだろうか。以前は飲む日にキッチンから持ち出して飲む感じだったのに、見たところ常にアルコールを傍に置いてある様子。
「何があったんだろう」
彼の身の上に起きた事を想像して、私は胸が痛くなった。
そして、ついに彼が部屋のドアを開けて中に入ってきた。
「何も聞くな。何も言わないで……ただ、僕に抱かれるんだ」
そう言った芯さんの表情は、とてもつらそうで……私は理由を聞こうと決めていた心が、あっけなく崩れ去るのを感じた――――――。
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