草食系な君と肉食系な僕
3話 懐かしい香り
次の日の朝、シャッターは開けられていて日の光が程よく差し込んでいた。
夫は宣言通りベッドにはいなかった。眠ったのが自分だけでないのは、私の隣のシーツが少しだけ乱れているのを見ればわかる。
(でも、あの人言葉を一切発しなかったな)
気だるい体を起こしながら、撫でられた頭を自分で触れてみる。
「……」
頬へのキスで体が疼いたのは、気のせいだ……孤独すぎて、誰かと接触することに飢えていたからだ。そう自分に言い聞かせた。
着替えを済ませてリビングに降りると、思いがけず人の気配があって驚く。
国木田さんが座っていることはないから、ソファに腰掛けているのは客人にちがいない。
「おはようございます」
一応声をかけると、その人はふっと顔を上げて微笑んだ。
「やあ、久しぶりだね」
「綾さん!」
驚いて駆け寄ると、綾さんは思ったより元気そうに私を見上げた。
「仕事をすっぽかして消えるから、追いかけてきたよ」
「えっ」
「なんてね、嘘だよ」
相変わらずの意地悪さでくすくすと笑うと、まだ湯気の立つカップから紅茶を一口すすった。
この落ち着いた様子を見ると、私の事情を全部知っているようだ。
夫の昴さんとも面識があるんだろうか。
「まあ、君も座ったら?」
「あ……はい」
言われるままソファに腰を下ろすと、綾さんは少し神妙な顔になってカップをソーサーい戻す。
静かなリビングは珍しいお客様がいることでほんの少し空気が動いている。
私は綾さんが何を言い出すのかと、黙って言葉を待った。
「芯の相手は、子どもだったよ」
「え……どういうことですか」
唐突に出た芯さんの名前に、どきりと胸が鳴る。
「結婚できるギリギリの年齢。16歳で、まだ高校生だ。血筋は間違いない血統書付きだけど、世間を何も知らないお嬢で驚いた」
「……そうですか」
そんな若い子をあの人はどう扱っているんだろうか。
できれば具体的には何も知りたくない。16歳だって妊娠は可能だろうし、その報告まで聞いたら私は理性的ではいられなくなるだろう。
「渚の相手は?」
「あ……私の夫は昨日初めて寝室に来ましたけど、顔も知らないし。言葉も交わしてないです」
「え、そうなの?」
驚いた様子でそう言うと、綾さんは私の状況をギリシャ神話に例えて興味深そうにした。
「まるでエロスとプシュケーだな。人間の女の惚れたエロスが神なのを隠して夫として深夜に顔を隠して通う……ってやつ」
「そんなロマンチックなものじゃないですよ。目的がわからないし、これからもこんな生活するなんて耐えられません」
「……なら相手の正体を暴いてやれば?」
興味薄そうに綾さんはそう呟いて、軽く髪をかきあげた。
綺麗な色素の薄い髪がサラサラと日の光で輝く。
(暴くって……)
「そんな勝手なことをして怒らせたら何されるか」
「俺の知ってる情報では、手越という男は国籍が日本じゃないし、結構広く社交界のリストを見たけれど今の所名前は見つかっていない」
どこまで怪しい相手なのかというのを伝えたかったんだろうか。
綾さんの言いたい意思が見えず、私は困惑する。でも綾さんは念を押すように私を見ながらもう一度正体は確認したほうがいいと言った。
「僕はもうここには来れないかもしれない。渚の顔が見たくて無理に来てみたけど……元気そうで安心した」
そう言った綾さんはどこか苦しそうで、彼の置かれた立場も今楽じゃないのだと想像する。
「綾さん、体の調子はどうなんです」
「俺の心配はいいよ。とにかく言いなりになってるなんて渚らしくない。君の本来の力を見せてやったら」
「……私らしく、ですか」
確かにここまで言いなりになってきたけれど、生活も立場もどれも違和感ばかりだ。こんな生き方、望んでない。
(どんな目に遭おうと、昴さんと対面したほうがいいのかもしれない)
「それを言いにわざわざ来てくれたんですか」
綾さんはにこりと笑うと私の頬にそっと触れて、立ち上がった。
「らしくないのは百も承知だよ。でもほんの短い間でも僕を助けてくれた渚のことはほったらかしにできないと思ってね」
「……ありがとうございます」
心細く生活していたところに訪問してくれた綾さんの心遣いは、涙が出そうなほどありがたかった。
私は次に昴さんが来ることがあったら、ちゃんと話してみると約束して綾さんと別れた。
島の端にあるヘリポートから飛び立つ綾さんを見送りつつ、彼がこの後も元気で暮らしていってくれることを心から願う。
(綾さん……芯さんと同じで最初は嫌な人だと思ってたけど、人って深く知ってみないと本当のところはわからないんだな)
再び一人になった島の淵に立ち、私は自分のこれからを真剣に考えた。
数日後。
また同じように夜にだけ昴さんが来るというので、私はそっと懐中電灯を枕元に忍ばせておいた。
(顔を照らせば、さすがに観念して話してくれるかもしれないし)
その後に襲われた時のことも考えて、携帯用のブザーも手に持つ。
(驚いて怯んだら、そのまま逃げ出そう)
島に洞穴があったから、そこに逃げ込んでしまうしかないというところまでは考えてあるけど、その後のことはわからない。
ある意味命がけの行動だ。
それでも綾さんに言われた通り、このまま言いなりになっているのは私らしくないのは確かだ。
「なるようになれ、だな」
気持ちを決めたらすっきりして、私は懐中電灯とブザーを手元に置きながら以前と同じようにベッドに入った。
深夜……ドアが開いて昴さんが入ってきたのがわかった。
疲れたようにため息をつきながら椅子に上着を投げる音がする。
(こんな遅くに、一体どういう意味があって私のところに来るんだろう)
タイミングを計りながら、私はまだ寝たふりをしていた。
「……」
昴さんはベッドサイドに腰をかけ、私が眠る姿を確認するようにじっとしている。
その時、ふっと香ったかおりに私はハッとなる。
(これ……この香りは)
まさかと思いつつ、私は寝返りを打つふりをして昴さんの方を向いた。
すると彼は以前と同じように私の頭を優しく撫でた。
相手が誰なのかわかった私は、鼓動の高鳴りでもう目を閉じているのが難しくなる。
「芯さん……ですよね」
「……っ」
間違いない、この香りは芯さんのものだ。
この前はシャワーを浴びた後のようで分からなかったけれど。
「どうして?芯さん。どうして顔を見せてくれないんですか」
「……渚は知らなくていいことだ」
(やっぱりそうだ……っ)
久しぶりに聞いた芯さんの低い声に、私はたまらず起き上がって彼の腕にしがみついた。
「芯さん、ずっと会いたかった……毎日芯さんのことばっかり考えてた」
頬にキスを受けた時も体が疼くはずだ……相手が心から愛する人だったのだから。
「渚」
芯さんは私の手に自分の手を重ねると、もう片方の手で私の頭を抱き寄せる。
「僕もうっかりしたな……渚には、もう少し知らないでいてもらうつもりでいたのに」
「芯さ……ん……っ」
顔の見えない暗闇で、私は求めて止まなかった芯さんからの野獣のようなキスを受けた。
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