抹茶モンブラン

1. 新しい上司

「必要なOSを、これから習得してもらいたい」
簡単な事務処理だけしていた契約社員の私に、会社はこういう特殊な命令を下した。

契約の仕事内容も「事務」から「データ処理」に変更され、私はウインドウズしか動かした事が無いのに、職場で扱う膨大なデータ処理作業の為の人員に選ばれた。

「人不足でね。正社員を雇う余裕が無いんです」
私がOSの手引きを見ながら呆然としていると、人事の大村さんがそう言って苦い顔をした。
「私なんかが出来るんでしょうか、こんな難しい事」
不安でつい大村さんにすがるような目を向けてしまう。
でも、彼は落ち着いて“大丈夫ですよ”っていう顔をしている。
「まあ…出来るかっていうより、出来てもらわないと困るって感じですよ。あなたは普通の人より3倍努力する方ですから、きっと頑張ってもらえると信じてますよ」
かっぷくのいい体を椅子から起こして、彼はニッコリ言った。
「頑張ります……」

私、乙川鈴音(おとかわすずね)は27歳にしてバツイチ、職歴無しだった。
趣味程度に大学でパソコンはいじっていたけど、大学を卒業すると同時に結婚したから、一度も社会に出て働いた事が無かった。

何のスキルも手にしない無職の主婦が、文無しで離婚した。

深い事情を会社側は知らないけれど、私の経歴に全く職歴が無いのを見て、何となくそういう背景は察知しているのかもしれない。
たまたま面接の時に私と同郷だと分かった大村さんが気に入ってくれて、かなりの異例な採用となった。

「君の力を必要してるのは堤くんのところだ。まあ、彼も忙しいからほとんど見よう見真似で習得してもらうしかないんですけどね」
「はあ…堤さんですか」
私はその名前を聞いて、さらに不安がつのった。
堤光一(つつみこういち)は、たった一人で膨大なデータの処理とその詳細研究に追われている超ハード人間。自宅にいつ帰っているのかも分からないワーカホリックだ。
この会社では太陽系にある惑星、および太陽の画像を処理するという特殊な分野の仕事を扱っている。
その中で、堤さんは太陽の画像処理を担当している。
毎日外部の天文台から送られてくる画像をきちんとした使えるデータとしてプログラミングに乗せて操作する。
何でこんな仕事があるのか私にはさっぱり分からなかったけど、ここは、ほとんど法人の研究所みたいな施設だというのはぼんやり理解している。

堤さんという人については、本人にダイレクトに声をかけた事が無いから詳しくは分からない。
年齢は多分30歳前後かなという感じだ。
顔はわりと普通なんだけど、醸し出す雰囲気に色気を感じる。
ため息をついて頭をかき乱す仕草ですら、何か男らしさが漂うっていうか…。
それでも、彼に浮ついた噂なんか一度も流れた事は無いという。

まあ、あの仕事量だと、女性とデートしてる暇も無いかもしれない。
常に仕事に追われているから、時々ぶち切れてメチャクチャな文句を言っている事がある。
当たられた人も被害者で、たまたま切れた日に不満をぶつけられたら大変だ。

あまり人数の多くないこの会社で、彼はある意味金づるというか…あの人の研究成果が無ければ会社自体もうまく進まないというのは事実だった。
だから、どれだけ彼が不機嫌で、どれだけ無茶な要望を出しても会社側はほとんどの要求を飲む。
そのせいで周りの人間が振り回されているのを、私はここ1年働いてみて分かっていた。

だから、あの人の研究室でデータ操作をするという仕事は、OSを習得するより私の心をブルーにさせていた。

それでも、離婚直前の地獄のような苦しみを考えたら、仕事だって割り切って生きることはそれほど苦痛ではない。
むしろ会社で多少嫌な目にあっても、自宅でくつろげる毎日の方がましだ。


「乙川です。今日からここで働かせていただきます」
私は改めて堤さんの研究室に入って、頭を下げた。
資料の山に埋もれた彼は、本の隙間から私をちらっと見て「よろしく」とだけそっけなく言った。

とりあえず用意されていた机について、PCを立ち上げてみたけど、何をやればいいのか皆目見当がつかない。

「あの……」

いつまでも座ってばかりいるわけにもいかず、私は恐る恐る堤さんに声をかけた。
すると、目線はパソコンに向いたまま「何?」と言う。

「OSを習得しろって言われたんですが。何から始めればいいですか」
私がそう聞くと、堤さんはおもむろに立ち上がり、膨大な資料が並ぶ棚から数冊の本を抜き出して私の机に投げてよこした。
「それ、マニュアルだから。まずはPCに入ってるLINUXを習得しといて。UNIXは下手に触れられたくないから、後で簡単に教える」
「…はい」

ニッコリ笑って丁寧な指導を受けられるとは思ってなかったけど、まさか本当にこんな無茶な人だとは思わなかった。
ウィンドウズだって怪しいのに、LINUXを自分で習得しろっていうのは相当きつい。
第一、コマンド操作っていうのが分からない。

軽く泣きそうになったけど、ここで仕事を失う方がもっと泣かなければいけない事になるし…どうしようもない。
私はこの日から1週間、独自にLINUXの操作について勉強した。
真後ろにいるのに、彼から私に何か仕事要請があると、メールでそれが依頼される。
口なんか利かなくても仕事が進んでしまうこの環境が、私は何か不自然だなあと思った。

「データを見て、保存したりカットしたりするだけだから、それほど詳しいところまで知らなくていいから」
週明けにそんなふうに言われて、“だったらそれを早く言ってくださいよ!!”と頭が切れそうになった。
ほとんど寝ないでUNIXの事まである程度勉強したのに。
でも、実際に操作をしてないから、いまいち感触が分からなくて不安になっていたところだった。

「実際にどんな事をやればいいんですか?」
そう聞いたら、彼はめずらしく気分が乗ったのか、私にUNIXについて簡単に説明してくれ、コマンド操作を実際にやって見せてくれた。

「画面が固まったりして、どうにもならない時は僕に声をかけて。勝手にリブートとかしないでね」
「はい、分かりました」
リブートっていうのは、コンピュータを再起動する事なんだけど、単体のPCと違ってデータを共有しあっているUNIXを下手にいじるのは禁忌らしかった。
何だかキーボードに触れるのも怖い。

一度彼から怒鳴られている人を見た事があって、本気で怒らせたら鬼より怖いという感じだった。
後から聞くと、彼の了解無く勝手にプログラムをいじったのが原因だったらしい。
その人は専門知識が豊富だったから、当然そういう部分もいじりたくなったのかもしれないけど、全部堤さんが自分で組んだプログラムだったから、それをいじられたのは相当嫌だったんだろう。

そういうのもあって、私はビクビクしながらコマンド操作をした。
ログインしただけで、もう何か達成したような感覚があったりする。
特殊なIDLというプログラムを立ち上げて、それを操作するのも感激だった。
ウィンドウズは全部クリックでどうにかなるけど、コマンドで一つひとつの操作を命令していかないと動かないコンピュータを触るのは初めてで、実はちょっと楽しかったりした。

「好きなの?こういう仕事」
堤さんは、私が初めてにしては結構操作をこなしているのを見てそんなふうに聞いてきた。

「ええ。やってみて嫌いじゃ無いのが分かりました」
「変わった人だな」
それだけ言って、彼は自分の席に戻ってしまった。

(変わった人…って、堤さんにだけは言われたくなかったですよ)
心の中でそんな事を思ったりした。
社内では「変人堤」とか陰口を叩かれ、あまり周囲の人には好かれていない。
本当に孤独な人だなあっていう感じだ。
私の日常も孤独なんだけど、別に誰かに嫌われて生きてる訳じゃないから、ある意味堤さんよりは孤独じゃないのかもしれない。

                      *

ちょっと操作に慣れて、調子が出てきたある日。
私はとうとう操作ミスをやってしまった。
何度かフリーズした時に堤さんの指示でリブートしていたから、私は今回もリブートで立ち上がるだろうと思っていた。
なのに、いくら待っても白い画面から先の画像が出てこない。

私の心臓がドクドクいって、その場から逃げ出したくなった。

この日、堤さんは学会か何かで留守だった。
彼の携帯に状況を伝えるメッセージを残してずっと返事を待っていた。
終業時間が過ぎても連絡が無くて、私は結局彼が研究室に戻るまでずっとその場に固まっていた。

他の作業も手につかなくて、もう最悪な状態だった。

「乙川さん。何…フリーズの事だけでこんな時間まで残ってたの」
背後で堤さんの声が聞こえて私は跳ね上がった。

「ご、ごめんなさい!勝手にリブートかけちゃって。画面が立ち上がらなくなってしまいました」
べそをかきながら私がそう言うと、堤さんはクスッと笑ってすぐに機械に何か色々な操作を施していた。

「はあ、これはスイッチ切るしか無いな」
そう言って、絶対やってはいけないという電源オフという最終手段をとっていた。

それでスイッチを入れなおしてみたら、OSは素直に立ち上がってくれた。

「よ…良かった」
私はその場にほぼ泣きそうな状態で崩れ落ちた。

「変な操作しないで放置しておいてくれて助かったよ。これ以上何かいじられたら、それこそ二度と立ち上がらなくなるところだった」
別に怒るふうでもなく、彼はそう言って自分の席に戻った。
心底ホッとして、帰ろうと時計を見たらもう9時だった。

「あ、じゃあ…帰ります。お騒がせして申し訳ありませんでした」
そう言って私が帰ろうと荷物をまとめていたら、堤さんが後ろからお菓子の箱をポンと投げてきた。

「クッキー。それ持って帰っていいよ」
「あ…ありがとうございます」

私がお腹をすかせているのを見越していたみたいで、彼は自分用に買ったお菓子を分けてくれた。
タバコもお酒も好きじゃないみたいで、彼は常に甘いものに囲まれて生きている。
脳みそを使う人は甘いものが欠かせないんだろうか。
別に太ってもいないし、それなりのかっちりしたいい体格をしてる。
ただ座って作業してるだけじゃないのかな。

駅までの道のり。
辺りが暗いのをいいことに、私はもらったクッキーをボサボサと食べた。
甘さが脳を安心させる。

周囲の人は、堤さんは仕事以外の事は頭にない変人だって言っている。
でも、至近距離で仕事をしていると、時々そうでもない部分も見られるから、私は堤さんという人を観察するのが面白くなっていた。

INDEX ☆ NEXT
※このお話の中に出てくる仕事内容は架空のものです。
似たようなお仕事はありますが、現実のものとは違います。

※作中に出てくるOSの名前は現実に存在するOSの名前です。
UNIXに関する情報はこちら
LINUXに関する情報はこちら
あまり作品内容に深く関わる情報ではありませんが、リアリティを出す為に使わせていただいております。

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