抹茶モンブラン

2.上司の気遣い

新しい仕事に就いて、1ヶ月経った。
多少堤さんという個性に振り回されてはいたけど、私は淡々と仕事をしていた。
室内には私以外誰もいないっていう事も多かったし、わりと気楽だった
それでも、興味なのか心配なのか以前働いていた事務職員の間では私の事をアレコレ言う人がいた。

「堤さんと二人きりでどういう会話してるのかしら」

「あの変人堤だからね…いじめられてんじゃないの」

時々「大丈夫?」とか本気で聞いてくる人もいたけど、私は「大丈夫ですよ」とそっけなく答えていた。
実は、それほど大丈夫じゃない場面もあったんだけど、出来なきゃ困るという大村さんの言葉を思い出して何とかこなしていた。
堤さんに質問するっていうのが一番緊張する瞬間で、「プリントってどうすればいいんですか」とか聞いた日には呆れて5分くらい無視されている事もあって、下手な操作するのも怖いから、そのまま仕事が滞る事もあった。
もの言いは怖くないんだけど、忙しいところに声をかけると本当に不機嫌な顔をされる。
「あと5分待って」
「マニュアルでどうにもならなかったら、もう一回声かけて」
と言われる度に「使えない人だな」と言われている感じで、凹むんだけど、一度教わった事は忘れないようにメモしていた。
私の努力が多少伝わったのか分からないけど、堤さんの私へ対するトゲトゲしていた態度も少しずつ普通になっていった。

仕事の方はそんな感じで何とか頭をフル回転させて頑張っていたけど、私生活の方ではガタガタになりつつあった。
その原因はプライベートな事だったから、職場にそれを持ち込まないよう仕事に集中するよう心がけていた。

ちょうど2週間ほど前の事。
休日の午後、私は次の週に食べるものを買いだめしようと思って近所のスーパーまで買出しに出た。
あまり重いものは持ちきれないから、とりあえず野菜とか肉・魚などコンビニとかでは手に入らないものを重点的に買う。
ほうれん草が激安で売られてたからって以前主婦をやっていた時みたいにガバッと買う事は無い。一人分の食材なんて、それほど多く買っても意味が無いからだ。
夫に食べさせるんだって思っていた頃は料理も好きで頑張っていたけど、一人になってからは本当に適当になってしまった

油の買いおきも無かったなあとか思いながら売り場をキョロキョロしていた、その時…。

「ハナちゃんはまだ食べられないんだからー!」
という明るい女性の声が聞こえた。
ふっとそっちに目線を向けて、私の体は一瞬にして凍った。
前夫と、その再婚相手が嬉しそうに手をつないで歩いていたのだ。
彼は肩からスリングをかけて、中には小さな赤ちゃんが入っている。

(彼の子供なんだ。私の間には授からなかった…赤ちゃん。新しい奥さんとの間には無事に生まれたんだ)

猛烈な衝撃と、思い出したくない嫌な記憶が蘇って、私は買おうとしたものを全て売り場に戻してスーパーを立ち去った。
心臓はドクドクで息が苦しい。
耳はキンとなって外の音もあまり聞こえない。


元夫は、私との夫婦生活の間に、別の女性に本気になった。

学生時代に知り合って、先に社会人なっていた彼が「大学卒業したら結婚しようよ」って言ってくれたから、素直に嬉しくて結婚した。
私にとって彼は初恋の人だったし、すごく大事にしてもらっていたと思う。
年齢のわりに落ち着いた人で、しょっちゅう5歳以上の年齢差があるように見られていて、彼は「俺って老けてんのかな」とか笑っていた。

温和な性格で、全く問題の無い結婚生活。
ただ一つ、彼がすぐに欲しいと言っていた赤ちゃんにはなかなか恵まれなかった。
それでも二人だけの生活も楽しいよねって言って、私達はうまくいっていた。

本当に何も問題は無かった…ような気がする。

それがある日、平和な生活を180度ひっくり返される事が起きた。
夫が唐突に離婚したいと言い出したのだ。

「え、何それ」
いつも通り味噌汁をお椀についでいた時だったから、私はその手を止めて彼を見た。
冗談でも何でもなくて、彼はすごく真面目な顔をしていた。

「言い訳はしない。他に好きな人が出来た。慰謝料はいくらでも払うから…別れて欲しい」

「…」

相手の女性は同じ職場の人で、ちゃんと付き合ってはいないけどお互いの心は確認しあっているという事だった。
慰謝料とか言われても、私の中ではそんなものどうでも良かった。
彼の全てが大好きで、私は疲れて帰ってくる彼に元気のつくものを食べてもらいたくて、日々料理の研究をするのが趣味になっていた。
家事も嫌いじゃなかったし、外に出て働くのも悪くないと思っていたけど、家庭で暖かく暮らしていて欲しいという彼の意思に従った。

何が不満だったんだろう。
何度聞いても、「鈴音は悪くない」とだけしか言ってもらえなかった。
落ち度が無いのに、大好きな夫を知らない女性に奪われた。

私の敗北感は大学受験に失敗した時より強く、猛烈に自分をみじめにした。

直接対話するのが嫌なら弁護士を立ててもいいと言われたけど、私はもう無条件で彼と離婚する事に同意した。
当然両親も友人も「そんな不当な別れは無いだろう!」と怒りをあらわにしていたけど、私はそういう怒りすら沸いてこなくて、とにかく自分には愛情を感じられないという彼と別の生活をする事を選んだ。
お金っていうレベルで片付けられるような問題じゃなくて、私の人間への信頼感みたいなものが、粉々に音を立てて崩れ去った。

悲しいことに、彼はスーパーで会ってしまうほど近くに住んでいる。
もっと遠い場所に引っ越したかったんだけれど、住宅事情と奇跡的に拾ってもらった会社の近くに住むには、今の場所で暮らすしかなかった。

1年会う事は無かった。
彼が私と離婚して半年ぐらいしてから再婚したという事は友人からの情報で知っていた。
それでも直接その人を見なかった事で、私は自分の中に芽生える黒い嫉妬を押さえ込んできた。
涙も流さなかったし、終始冷静で、その冷静さを見て前夫は「お前は本当に強いよな」と言った。

強いわけが無い。

大好きな人に愛情が無くなったと言われ、別の女性に心を奪われ、傷つき過ぎて涙を流すという手段を忘れてしまっただけだ。

そんな彼が赤ちゃんを抱いて小柄な可愛らしい女性と幸せそうに歩いている姿は、私を想像以上に駄目にした。
スーパーを足早に去り、息を弾ませて自分のアパートに戻る。
私を駄目にしたのは、彼の幸せそうな顔だけじゃない。あの人の肩からぶら下がってスヤスヤと眠る罪の無い顔をした赤ちゃん。それをあやす新しい奥さん。
あの新しい幸せに包まれた「家族」という映像に、私は駄目にされた。

どれだけ他人を傷つけても、自分の幸せっていうのはやっぱり特別なんだろうか。
私に泣いて謝った彼は、あれで自分の罪が全て払拭されたと思っているんだろうか。

何も考えたくない。
何も考えられない。

しばらく安定していた精神状態が急激におかしくなるのが分かった。
ここ数ヶ月飲まずに過ごせていた安定剤に手がのびる。
これを飲まないと、手足が震えて電車に乗れなくなるから仕方が無い。主治医には強いストレスのせいでまた不安定になってしまったんですねと言われ、安定剤と一緒に抗不安薬も一緒に出してもらった。

「眠くなりますから、気をつけて下さい」
そう言われたけど、職場で居眠りするわけにもいかないから、カフェインをとったりしてその副作用の眠気を飛ばそうと頑張った。
安定剤を飲みながらカフェインっていうのは本当は良くなかったんだけれど、眠気が次々に押し寄せてくるから、どうしようもない。

仕事が無くなったら、生活が出来ない。
両親に迷惑をかけるのは嫌だ。私は立ち直ってうまくやっているという事になっている。

元来頑固で融通の利かない性格の私は、何でも一人でこなそうとする。
不安も、心配も、表に浮き上がる前に自分で抑える。
本当は全然抑えられてなんかいないのに、私の頑固な心は「大丈夫、私は大丈夫」なんて常に呪文のように唱えていて、薬の力を借りてるっていうのに自分ひとりで立っている気になってる隠れ弱虫だ。
お金なんかで私の傷は癒されないのよ…って、強がってみたけど、現実は厳しい。

とにかく、今は仕事だ。
私は全てを忘れてまだ完全とは言えないコンピュータの操作にやっきになった。

「乙川さん…ちょっと無理しすぎじゃないの」
普段全く声をかけてこない堤さんがある日私にそう言ってきた。
「え。全然無理なんかしてませんよ」
私は自覚が無かったから、そんな事を言われて正直驚いた。
すると堤さんは時計の針を指さした。

「9時。もうとっくに契約時間過ぎてる」
「あ…」
私は毎日アパートに戻るのが憂鬱で、何か別のものに神経を分散させたかった。
それで、ここしばらく研究室に遅くまでいた。
堤さんも別に何も言わないでいてくれたから、関心がないのかと思っていたけど、多少そこは気にかけてくれているらしかった。

「暗くなると危ないし、もう帰ったら」
「そうですね。じゃあ、失礼します」

そう言って、私はPCをオフにして立ち上がる。
すると、急に目の前がグラッと揺れて目の前が真っ暗になるのが分かった。

「…さん、乙川さん!」
名前がずーっと遠くに聞こえて、しばらく私は夢から覚醒する時とそっくりな感覚の中にいた。

「乙川さん!!」
ようやく堤さんの声がリアルに聞こえてきて、私は軽く気を失ったらしかった。
「救急車呼んだほうがいいかな…」
深刻にそう言われて、私は慌ててそれを止めた。
「大丈夫です、ちょっとめまいがしただけです」
「でも」
「画面を長時間見てたから、少し疲れただけですから」
私を支えてくれていた堤さんの腕から離れて、私はどうにか立ち上がった。
寝不足な上に食欲が無くてあまり食べてなかったのが悪かったみたいだ。

「車で送るから、門の前で待ってて」
そう言われ、断る暇もなく堤さんは車のキーを片手に駐車場の方へかけて行ってしまった。

無関心そうだった彼が、あれだけ素早い行動に出るっていうのに正直驚いた。
一人で帰れますと言い張る私を有無を言わせない調子で彼は私を助手席に乗せた。
「住所どこ?」
「……」

結局、住所も全部聞かれ、カーナビにその住所を登録される。

「じゃ、行くよ」
そのままナビが開始され、静かに車は発進した。
抵抗するのも疲れ、私はそのまま体の力を抜いて背もたれにもたれかかった。
普段あまり口を開かない堤さんなのに、車内では静かになるのが気まずいのか色々他愛の無い事を話していた。

「車通勤されてたんですね」
私は今更な事を言った。
私より遅く出勤してきて、私より早く帰る事が無いから、堤さんの行動手段が何なのかすら知らなかった
あの職場だったら、電車を使った方が良さそうだけど、彼はほとんど真夜中に帰宅するから道路もすいていて車の方が早いんだと言った。

結局アパートまで送ってくれた彼は、私が倒れた原因も、車中で憂鬱そうな顔をしている理由にも触れず、そのまま帰っていった。
私が「何も聞かないで」というオーラを出していたのかもしれない。
正直送ってもらったのは助かったし、何も事情を聞かれなかったのもありがたかった。

良く分からないけど、彼の持つちょっと不器用な優しさが感じられた。

絶望的だった私の心に、ほんの少し暖かい温度が戻ったような気がした。


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