抹茶モンブラン

3.海ほたる

それからさらに1ヶ月経った。
堤さんは1週間のうち半分は外に出て何かしらの会議に参加したりしているから、私は一人でOSをどんどん勉強した。
文系頭の私がコンピュータを触るのが好きな人間だと思わなかったけど、自分の打ったコマンドが順調に走るのは面白かった。
画像を綺麗にトリミングして、ムービーになるように整える作業ぐらいは出来るようになった。

「またこんな時間までやってる…」
堤さんに声をかけられて、私はハッとした。
操作練習をやっている間に、またもや8時近い時間になっていた。
7月に入って日も長くなってきていたから、時間の感覚がおかしくなっている。

「乙川さん、飯ご馳走するよ。今からどう?」

「は?」

変人堤が私を食事に誘った。
歓迎会っていうか、新しく入った時も何も言ってもらわなかったし、そんなもんだと思っていた。
第一1分の時間も惜しんで仕事をしている彼が、食事を誘うなんてあり得ないと思っていた。

事務の女性達の間では、“堤さんの彼女にだけはなりたくない”という話しはちょくちょく出ていた。
仕事しか頭に無いから、彼女になってもどうせ放ったらかしになるに決まってる…とか、結婚したら亭主関白でひどい目に合いそう…とか、まあとにかく幸せにはなれないだろうっていう結論だ。
彼の何を知ってるでも無い人たちが、そう言っているのを聞くのは気分は良くなかった。
でも、そんな悪評高い堤さんと一緒に食事をするというのは、やや違和感があった。
ただ食事を一緒にするだけなのに、正直、かなりの緊張感が体に走った。


「それとも僕との食事は嫌かな」
想像してたのと違う、わりと紳士な態度で彼はそう言った。
「いえ、そんな事ありませんよ」
嫌そうな顔でもしてしまったんだろうか。
私は慌てて笑顔を作った。

「ならすぐ支度して」

けしかけられるように帰りの準備をさせられて、私はいそいそと堤さんの後ろにくっついて歩いた。
ほとんど座った状態の彼しか見た事がなかったから、身長がどれぐらいなのかあまり分からなかったけど、後ろ姿を見ながら相当高いんだ…なんて、ちょっとびっくりした。
バスケットでもやってたんだろうか…と思うぐらいだ。
前夫を思い出すのは嫌なんだけど、彼は大のバスケ好きだった。だから、テレビで常に身長の高い選手を見ていた私は、こういう長身の人を見るだけで軽くブルーになる。
トラウマというにはまだあまりにも記憶が鮮やか過ぎて、少しでもあの人を思い起こさせるものがあると震えたりする。


「車で行かないといけない場所なんだ、乗って」
そう言われ、彼の車の助手席に乗った。
一度倒れた日に送ってもらっていたけれど、今回は意識もクリアで、必要以上にドキドキする。
ドアを閉められたとたん、何だか“逃げられない”という息苦しい気分になった。

バックミラーを軽く直して、堤さんは何も言わずにゆっくりと車は走らせた。

道路が比較的空いていたから、車のスピードはどんどん速くなる。
両サイドに流れる景色は早すぎて、めまいがしてくる。
極度の緊張感の中にある時、私はこんなふうに三半規管がおかしくなる。
私はカバンに入れてあった安定剤をこっそり手にして見つからないようにそれを口に運んだ。

このスピードで、いったいどこまで行く気なんだろうか。

「……あの、どこまで行くんですか」
背もたれにはり付いた状態で、私は恐る恐るそう聞いた。

「海ほたる」
堤さんは普通にそう言った。
ここは東京だ。
千葉の木更津に続くアクアラインを渡るまでは、相当な距離があるはず。

「え。そんな遠くまで行くんですか?」
食事だって言ったのに、何でアクアラインまで乗って海ほたるへ!?
仕事を離れた彼は、私の上司っていうより本当に普通の男性になっていた。
助手席に座っている自分は、彼の特別なのかなという錯覚を覚える。

「車って助手席に乗ったら最後だよ。どこに連れて行かれても抵抗できないし」
堤さんは、今まで見た事の無いようなうつろな目で真正面を向いたままそう言った。

「え?」
この人…大丈夫なのかしら。
もしかして、気軽に車に乗ったのは軽率だったのかな。
前回堤さんの車に乗せてもらった時とは条件が違うという事に気付いて、急激に不安になっていった。

「そんな不安な顔しなくていいよ。本当にただ夜景見るだけだから」

「…何かあったんですか?」
あまりにも彼の様子が余裕のない感じだったから、私はついそんな事を聞いてしまった。
すると、堤さんは自嘲ぎみな笑みを浮かべ、低い声でつぶやいた。

「……君の仕事はデータ処理だけじゃないって知ってた?」

「どういう事ですか」

堤さんの声は鬼気迫るもので、私の不安も頂点に達した。

「乙川さんの仕事内容には、僕を癒す事…ってのも含まれてるんだよね。まあ、これは僕の中だけの注文。名目はデータ処理って事になってるけど、僕には君っていう存在が必要なんだ」

「な……」

私が自暴自棄になった頃とそっくりな雰囲気が彼から感じられた。
彼が本心でこんな事を言い出したのか分からなかったけれど、私の頭にはカッと血が上った。

堤さんが発言した事は、完璧なセクハラだ。
理由はどうあれ、私を「女」で「男を癒す」という道具に見ている。
この人は噂だけじゃなくて、本当に嫌な男なんだ。
多少でも彼を庇う気持ちで接していた自分がバカだった。

「降ろして下さい!」
私は爆走している車の中で叫んでいた。

「おい、こんなところで降りたら死ぬって!」
本気で私がドアを開けようとしているのを見て、堤さんがさすがに慌てた様子を見せた。

「死んだっていいですよ!どうせ私なんかどこで死んでも関係ないんですから」
悔しくて、涙が出てきた。

ただの癒し人形として扱われた事に頭にきて、猛烈に情けなくなった。

癒す女性が欲しいなら、もっと別を当たって欲しいわ、私はそういう人間じゃない。


私の日常は孤独だ。
兄弟はいないし、両親は遠くの県でこじんまりと暮らしている。
学生時代の友人はいるけど、悩みを相談したりした事が無いから、私の事は皆「強い女ね」っていうイメージで見ている。

どこにも吐き出しようのない苦しみ。
それを私は一人で乗り越えたつもりだった。

なのに…こんな男の前で、私は涙をこぼしてしまった。

ノンスキルだった私をやっと拾ってもらったのに、その仕事先にはこういうセクハラな最低男がいて、私をどうにかしようとしている。
どうせここで抵抗したり会社に訴えたりしたって私が負けるのは分かっている。
頭が良くて、立場が強い人の方が断然有利な世の中に出来ているんだから。

私は車の中で思わず号泣してしまった。

離婚前も、離婚後も、ずっと泣かずに頑張ってきた。
深く考えず、単純な恋愛感情で結婚した私も悪かったのかもしれないし、まともに職業を見つけられなかったのも自分のせいだ。
一生泣くもんかと我慢して生きてきた。
なのに、堤さんの横で私は、遠慮も無く…まるで幼稚園ぐらいの子供が迷子になったみたいに、オンオンと声をあげて泣いていた。


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