抹茶モンブラン

2-1. 堤の過去 (SIDE 光一)

女性を求める気持ち。
久しくそういう普通の感情が沸くこともなく、僕自身が人間的に壊れてきているような感じがしていた。
仕事なんかどこかでけじめをつければ区切りがつけられるっていうのに、いつでもダラダラと資料を読みあさっていたりする。
正直、僕は社会人になってから、ろくでもない生活を続けていた。
好きでもない女性を抱いた後、即座にベッドサイドに置いた書類を読んだりしているような…常軌を逸した仕事馬鹿だった。

「最低……」
気持ちの確認など一度もしないまま、体だけを重ねた女が、僕を軽蔑したような目で見る。
「何かおかしい?」
自分の無意識の行動を最低と言われ、思わず女をまじまじと見てしまった。
一瞬燃えたように感じた夜の情事。
なのに、夜が明けるとお互いどこか哀れな空気が漂っていた。
「いくら何でもご飯を食べた後みたいに…、そんな態度って狂ってるわよ」
そんな捨て台詞を残して女は部屋を出て行った。

確かに。
女が出て行った後の自分の状態を見て、「尋常じゃないな」と思った。
裸同然の状態で、書物を読む自分の行動は普通の人間なら狂ってると思うのかもしれない。
たとえ一夜だけの付き合いだったとしても、もう少し情ってものがあっても良さそうだ。

なのに、僕の中に残るのはただの虚無感だけだった。

一時の快楽に溺れてみても、心の満足はまるっきり得られない。
不思議だ…。
男っていうのは、そういう欲求を果たせば一通りの満足は得られるものだと思っていた。
なのに、繰り返す浅い異性交際が僕を幸せに導いてくれた事は無い。
だいたい僕がぼんやりコーヒーショップで読書とかしていると、声をかけられる事が多かった。
酒も入ってないのに、そういう誘いをかけられる女性の心理っていうのも分からなかったけど、僕は特定の恋人は持たない主義を貫いていたから気軽にその申し出を受ける。
ただし、「愛は無い。愛が芽生える事は無い」という条件を最初に必ず念押しした。

人を愛する事の意味を、どこかで探していた気がするけれど、仕事に埋没するに連れてそういうものとは逆方向に走り出して、戻れなくなっていた。
PCに向かうか、取引会社との打ち合わせか、プールで泳ぐか、甘いものを食べるか…。
こんな生活がループのように繰り返されていた。

体の欲求が減ったと同時に、僕の頭は甘いものを異常に欲するようになった。
ある意味僕っていう人間は、相当危険な男だと自分でも自覚している。
極限状態になると、自制が利かなくなる。
こんな男…、誰とも深く付き合わない方がいいんだ。
そう思って生きてきた。

悲しいかな、機械的にこなす仕事ばかりやたらうまいこと動く。
その仕事のせいで自分の命が少しずつ削れているような感覚もあったけど、そのサイクルを止めてしまうと生きる場所を失う気がして、どんどん自分の首を絞めるような行動に走る。

“僕は生きてるのか?本当にこの体は僕のものなのか?”
真夜中の研究室で、茫漠とした不安に襲われ、ストレスを消す為にクッキーの箱を一つ空にする事は日常茶飯事で。
こんな生活をしていたら、40代になる前に死んでしまうかもしれないな…なんて思っていた。


そんなある日、聞いた事の無い涼やかな笑い声を聞いた。

「え、そうですか?知りませんでした…そうなんですねー」

他愛の無い話をして、笑っていたのは…新しく入った事務の女性か?
名簿を見て中途採用の乙川鈴音という女性だというのが分かった。
全く異性には興味を失っていた僕のアンテナが、何年かぶりにピピッと伸びた。

そうは言っても、もう女は面倒だという気持ちが強く働いて、僕は積極的になるのを止めていた。

なのに、気付くと僕は彼女の姿をしょっちゅう目で追うようになっていた。

廊下ですれ違うと、微かに笑みを浮かべながら会釈をする。
空模様を見る為に窓の外に身を乗り出している姿。
休憩室で、新聞の上につっぷして居眠りをしている姿。

こんな何気ないシチュエーションを繰り返し見る度に、僕の彼女への好意がどんどん強くなるのが分かった。
恋人になって欲しいとか…そういうレベルまでは考えていなくて、単純に乙川さんがいてくれたら、落ち込む自分の気分を少し立ち直してもらえるんじゃないかと思った。
ちょうどデータ処理の簡単な作業をお願いしたい人を入れて欲しいと人事に言うところだった。
その機会を利用して、僕はサポートを彼女にお願いしたいと申し出た。

幸いというか…僕の我がままな注文は通る事が多く、今回も希望通りになった。
自分の研究成果を会社の目玉に据えられているのは分かっている。
正直それを逆手に取って無理な注文もつける事が時々あって、影では扱いにくい男だと思われているのは分かっている。

優しい紳士とは到底思えない自分だけれど、もし乙川さんが少しでも心を傾けてくれたなら、彼女が驚く程大事にしたい気持ちは少しずつ芽生えていて…。
自分にもそういう異性を大事にしたい気持ちがあったんだと少し驚いているぐらいだった。

乙川さんの目に自分がどう映っていたのか分からない。
それでも、一緒に仕事をするのは自然な空気だった。
僕は縄張り意識が強く、半径5m以内に気に入らない他人が入り込もうとすると嫌悪感が沸く。
でも、すぐ近くで後姿を見せて仕事をする彼女がいるのは、どちらかというと心地よかった。

近くで仕事をするだけでいいと思ってはいたものの、会議やら何やらで結局僕は仕事に追われる日々。
欲求がエスカレートして、とうとう僕は積極的に彼女を誘うという行動に出た。
その前から何か事情があるようで、薬を常用してるふうなのは分かっていたけれど、そういうのは触れられない事だろうから、黙っていた。

「僕を癒して欲しい」
なんて…自分でもつくづく最低だなという言葉を彼女に言ってしまった。
女性のプライドを傷つける最低な言葉だった。
当然彼女は怒ったし、想像以上に泣かれて、僕に対してあそこまで感情をあらわにする女性っていうのも初めてで、相当驚いた。
最低な男ぶりを車内で口にしてしまった為に、あっという間に彼女には嫌われるところだったけれど、正直に自分が限界なんだという事を伝えた。

何故だろう。
乙川さんの存在を感じるだけで、僕は「生きて前を向いていこう」と思える。
それまでの陰鬱な自分が少しずつ払拭されるのが分かる。
話してみても、普通の女性なんだけれど…何か心に決めたらそれを大事に守る性格なのかなというものを感じた。
一度世話をした動物に情が出て手放せなくなるような…そんなタイプ。

多分僕の態度や言葉は乙川さんに甘えていたんだと思う。
華奢でいかにも弱々しそうな年下の女性に、何とも言えない癒しのオーラを感じた。
僕の目を「捨てられた子犬みたいだ」と言って、彼女は僕を受け止めてくれた。
あんなに自分の弱みを見せられた相手っていうのも生まれて初めてで…乙川さんと出会う為に僕はここまで誰の事も愛さずに生きてきたんだろうかと思ったりするぐらいだ。

嫌われていないのを確認して、僕は彼女が抱えているだろう何かつらい過去を一緒に背負ってあげられるなら…なんてガラにも無い事を思っていた。
時間が割けないなんて言い訳で、結局本を読んだり資料を目にしていたら何か自分が存在する意義があるかのような錯覚を覚えるから「生きている証」の為に僕は仕事人間になっていた。

乙川さんの存在が、僕の心を変えた。

彼女の為なら一緒に過ごす時間を見つけるのは苦痛じゃない。
週に1日ぐらいは空けてもいいと思うぐらいだ。

30歳にして、初恋か?
笑えるな…、他人が聞いたら本気で笑われそうだ。
それでも、僕は海ほたるで抱いた彼女の体の温もりを忘れられない。
好きになってくれるまで待つと言ったけれど、本当なら今すぐにでも彼女の全てを知ってしまいたい衝動に駆られる。

誰にも知られたくない過去の一つや二つはあるだろう。
だから、僕は乙川さんが知られたくない事なら過去の事を聞きたいとは思わない。
彼女の醸し出す多少憂いを帯びた表情は、何かつらい過去を乗り越えてきた人のもののように感じる。
傷を負った者同士、何か惹かれるものがあったんだろうか。
彼女と過ごすつかの間の時間は、いつでも僕を幸せな気持ちにしてくれる。
ほんの時々コーヒーショップで雑談するだけの関係だけれど、僕の日常は見違えるように明るくなった。
乙川さんが暗い道を強烈な月明かりで照らしてくれているから、僕は自分の道を足を止めずに歩き続けられる。


何度目かの外でのデートの際、思いつきで作ってみたといって、彼女は手作りのクッキーを持ってきてくれた。
確か高校生ぐらいの頃に一度クラスメイトからこういうプレゼントをもらった気がするけれど、それ以来こんな照れくさいプレゼントを受け取った事が無かった。

「僕に?わざわざ焼いたの?」
そう言って驚く僕の顔を見て、彼女は笑った。

「そんなすごい事じゃないですよ。喜んでくださるなら、いくらでも作ります。嫌じゃなければ毎日のお弁当だって作りますよ」

僕が毎日菓子パンみたいなもので昼食を終わらせているのを見て知っている彼女は、食事事情を多少心配してくれているみたいだった。

手作り弁当。
おふくろが作ってくれたのはいつだったか…もうほとんど忘れてしまった。
ただ、「光一が好きなものいっぱいいれたからね」って毎回言ってた気がする。
そんな愛情こもった手作り弁当を、またもらえるなんて…思っていなかった。

「嫌ですか?やっぱり誰かに見られたりしたら照れますよね」
「いや、嬉しいよ」
「本当?」
「うん」

こんな具合に、僕は乙川さんの手作り弁当を食べる毎日になった。


INDEXNEXT
inserted by FC2 system