抹茶モンブラン

2−2. キス

「聞こうかどうか迷ったんだけど」

めずらしく堤さんのアパートに呼ばれ、私はちょっと緊張しながら出されたコーヒーを飲んでいた。
そんな時、彼が言いにくそうに口を開いた。

「…何ですか?」
「うん、あのさ…お昼とか車乗る前とか薬飲んでるでしょ。体どこか具合悪いの?」

私はこっそり飲んでるつもりだったけど、薬を取り出す時の“パキ”っていう独特の音はごまかせなかったみたいだ。
胃薬ですとか普通に嘘をつけばいいんだろうけれど、堤さんとは仕事以外でもこうやって会うようになっているし、簡単に事情は話さないといけないかな。
そう思って、私は自分がバツイチだという事を初めて告白し、そのせいでやや神経が不安定なのだと伝えた。

「そう。普段の生活はその薬だけでコントロールできるの?」
彼は私がバツイチだという事には全く反応を示さずに、体の状態について聞いてきた。
「ええ。まあ、疲れやすいっていうのはあります。だから土日も一人でいた頃はほとんど寝てばかりでしたし。慢性疲労してる感じですね。でも、仕事では緊張感もありますし、ミスが無いようにしますから」
そう言うと、彼は手を振ってそういう事はどうでもいいという仕草をした。

「仕事でのミスは別問題だから。乙川さんが苦しいのに無茶な注文つけてたら、言って欲しいだけ。僕ってそういうの気が回らないし…とにかくもっと言いたい事言っていいから」

「はい…分かりました。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げ、私は会社に居る時と変わらない態度で堤さんに接してしまう。
そんな私をじっと見て、彼はちょっと寂しげな顔をした。

「あのさ…待つって言ったけど、乙川さんの心って少しは僕に向いてるのかな」
「え、どうしてですか?」
未だに敬語も外せないし、常に彼との距離をある程度空けた状態でいるから、彼にそう思われても仕方なかったかもしれない。
思っていたよりずっと強く感じる堤さんの好意を、私は素直に嬉しいと思っていた。
だから毎日お弁当を作ったり、クッキーを焼いたり…おせっかいな事をしている。

「何ていうか、乙川さんの心が随分遠く感じるから…」
そう言った堤さんの瞳はやっぱり捨てられた子犬のように見えてしまって、私は年上の怖い上司を、優しく抱きしめたい…なんて思ってしまう。
私の心は、多分彼が想像しているよりずっと近くにあるんだけれど、それを伝える方法が分からない。

「そんなに遠いですか?」
「うん、もう少し…近くなりたい」

机を挟んで向かい合って座る距離っていうのは、隣り合って座るよりやや心が遠くなる。
不思議だけど、好きな人とは隣に座っていたいっていう感覚になる。
そうは思うけど、自分から彼の隣に座るという勇気が出ない。

「近くなるには、どうすればいいんでしょうか」

何年生きてきたのか。
結婚までしていたっていうのに、私は夫以外の男性を知らない。
だから、こんなバカみたいな質問をしてしまう…。

「んー…乙川さんが僕に触れたくないとか、まだ好きになれてないなら無理は言えないけど」
「いえ、私…随分前から堤さんの事は好きですよ」
実は海ほたるで8割ぐらい好きになっていた。
人間の心は時間をかけて落ちるものもあれば、短時間…いや、一瞬にして落ちる場合もあるんだと私は自分でそれを体験してみて分かった。

私は堤さんが好きだ。
この気持ちは、誰とも比べたくない。
前夫と比べて、どっちが好きかとか聞かれても、それは答えようがない。
でも、前夫よりはるかに不器用な生き方をしている堤さんを見ていると、不思議に愛しさがこみ上げる。

堤さんは誰にでも優しい訳じゃないし、仕事に関係した事には怖いほどのシビアさを見せる人だ。
それでも、人間付き合いが下手なせいで随分誤解を受けているのが、ここしばらく付き合って分かってきていた。

「一緒にいるだけでいいって思ってたのに、一緒にいると触れたくなる。触れるとキスがしたくなる。多分キスをしたら…そこから先も知りたくなるような気がする」

「……」

寝起きのようなボサボサな頭をしてトレーナーを着ている彼は、比較的若く見えて、年の差が3つあるという気がしない。
職場では近寄りがたい彼も、プライベートで会っていると、ごく普通の愛しい私の彼だ。

だから、私は別に彼に触れられる事が嫌だとは思っていなくて。
もしかしてそういう雰囲気になったらっていう覚悟もしながら、彼のアパートに来た。

「近くに座って」
「え?」
「僕の隣に座ってくれない?」
そんな要求をされて、私は言われるまま彼のいる壁側の席に座った。

「これくらいだと、少しは近く感じますか?」
「うん。だって、この距離だったらキスができる」
私が何か答える間もなく、ふっと彼の顔が近付いて、頬にキスをされた。
体がビクッと反応して、右半身に痺れが走る。

「嫌な感じする?」
「…いえ」
「よかった」
そう言って、彼は私を懐に深く抱き込んだ。
自分以外の人の温もりが何だかものすごく懐かしく感じられて、心が暖かくなる。
堤さんの香りに包まれて、すっかり体が緩むのが分かった。

「やっぱり、近付けば近付く程、もっと…もっとって思ってしまうね」
体を少し離して、彼は私をじっと見つめた。
黒くて綺麗に輝く瞳。
30歳という年齢で、ここまで澄んだ瞳を持っている大人が他にいるだろうか。
それくらい、彼の瞳は綺麗だった。

唇が近付くまで、随分長い時間がかかった気がする。

お互いの瞳を見つめながら、少しずつ近付く。
あと数センチという距離になって、自然に目を閉じた。
すると、ふわっとした彼の唇が触れる。
思わずそのキスをきちんと受け止める為に、私は自分で顔の角度を少し変えた。

「…甘い。キスが甘いって感じたの初めてだよ」
唇を離して、堤さんはそんな言葉をつぶやいた。
「そうですか?さっきクッキー食べたせいかな」
私がそう言ったら、彼はクスッと笑った。
そのまままた目をつむって、次々に送られてくるキスの刺激に酔いしれた。

大人になったつもりでいたけれど、私は誰かに愛されたくて…ずっと心細かった。
堤さんと居ると、独りで生きるのはやっぱり寂しいって思っていた自分の本心に気付かされる。

プールで体力づくりをしているという堤さんの胸板は厚くて、頬を寄せると何だかすごく大きな人に抱かれてるみたいで安心する。

「過去の事…聞かないんですね」
私は、自分の過去を全く探って来ない彼に多少不思議な気持ちがしていた。
どうでもいいと思っているわけじゃないんだろうけど…。

「君が話していいと思える時に話してくれればいいよ。このくらいの年齢になれば、それなりの過去は背負ってるだろうし。僕だってそうだよ。一生君には語れない過去を引きずって生きてる…」

そう言った堤さんの顔は、本当につらそうだった。
彼は仕事を離れてまでこんな顔をして過ごしてきたんだ。
そう思ったら、誰が何と言っても私だけは彼の味方でいたいと思った。

人間への警戒心が完全に解けた訳では無いし、前夫との傷っていうのは別の場所でまだ残っていたけれど、堤さんとのお付き合いっていうのは私の心に確実に暖かいものを送り込んでくれていた。
積極的に誘ってもらわなかったら、堤さんとこうやって近くで過ごすことなんか多分あり得なかった。
そう考えると、泣いて車を降りると大騒ぎしたあの夜は私にとって実はすごく大事な日だったような気がする。

甘いキス。
キスは甘い。
……どっち?
きっと、心が溶けるとキスは甘くなるんだと思う。

私達は薄暗くなってきた部屋の片隅で、何度もキスの味を確認しながら胸を高鳴らせていた。


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