抹茶モンブラン

2−3. 焼きもち

職場での私の仕事は相変わらず淡々としたものだった。
特に難しい注文をつけられる事はなくて、最初難しいと思っていた画像処理も慣れてくるとそれほど大変ではなくなった。
決まった作業を繰り返すうちに、自分でも簡単なプログラムくらいは組めるようになっていた。
それを実際の仕事に活用させるまではいかなかったけれど、自分のプログラムで画像がパッと現れたりすると、単純に嬉しかった。

そんなある日、堤さんの共同研究者になる高田祐二(こうだゆうじ)さんという私と同い年の若い研究員が入って来た。
体は大きいけれど、柔和な顔立ちをしており、私が「よろしくお願いします」と言うと、優しそうに微笑んで「こちらこそ」と答えた。
イギリスで生まれ育った彼は、英語がネイティブだった。
それでもご両親が日本人だというのもあって、日本語もかなり上手に使うことが出来ていた。

「高田には僕の仕事をいくつか分担してもらって、共同研究をする。彼からの頼まれ事も出てくると思うから、よろしく頼むよ」
堤さんからそう言われ、私は素直にハイと答えた。

外出の多い堤さんに代わって、留守の間は高田さんと二人きりになる事が多くなった。

お弁当を作るのに、毎日堤さんにメールで“明日はお昼必要ですか”というメールをする。
彼はそのメールに簡単に必要かどうかを答えてくる。
でも、高田さんが入ってからというもの、何故か直接携帯に電話が入るようになった。

「もしもし。どうしました?」
特に嫌でも無かったけれど、彼からわざわざ電話をくれるなんてめずらしいなと思っていた。
「いや、今日は変わった事無かった?」
「何もありませんよ。PCもワークステーションも故障無かったですし。電話とかも特にありませんでした。急ぎじゃないという電話に関してはメールしましたが」
私は真面目に彼の言葉に答えていたんだけど、彼が聞きたいのはそういう事じゃないらしかった。

「高田とはうまくいってる?」
「あ、はい。すごく日本語も上手ですし、何も問題ありませんよ」

実際、高田さんは冗談が大好きな明るい人で、あまり親しくない人とはすぐに語れない私も彼のペースに巻き込まれてつい笑ってしまう事が多い。
孤独な作業の合い間に高田さんと雑談するのは嫌いじゃなくて、私の息抜きになっていたんだけど、どうも堤さんは私と高田さんが親しくなるのを警戒しているような様子を見せる。

「私…そんなに簡単に心があちこち行くタイプじゃないですよ」
やや不満げにそう言うと、堤さんもあわててその本心をはぐらかそうとする。

「乙川さんを疑ってなんかないよ。単に新しい人とうまくやってるのかって心配してるだけで…」

そう言われても、気まずい空気が流れてしまい、「おやすみなさい」と電話を切る頃には何だか胸に言いたい事が詰まって出ないような変な感覚になった。


                          *

「ああ、それって嫉妬じゃない?」
ほとんど相談事をしない私が、多少プライベートな事を話せる相手は、大学時代の親友、坂井久美(さかいくみ)だ。
彼女は私と違って、社会スキルを相当高く身につけていて、2度の転職の後、ずっと夢だと言っていたデザイナーになった。
私の離婚の時は親身になって心配してくれて、それ以来一応自分の状況報告は定期的に彼女に打ち明けている。

「嫉妬…。職場での関係なんてそうそう縮まりっこないんだけど、やっぱり二人きりだっていう環境だから心配になっちゃうのかな」
久しぶりの女友達との買い物で気分が晴れて、私は自分の恋愛をついつい深く語ってしまっていた。

堤さんが高田さんとの事で焼きもちを妬いているなんて、あの人のキャラクターを考えるとあり得ない気もするんだけれど…久美にそう言われると、そうなのかな…なんて思ったりする。
私は好きになった人の事は基本的に必要以上に疑いたくないと思うタイプで、盲目的に信用してしまう性格だ。
前夫に裏切られたという過去を背負っていてすら、今、堤さんを疑う気持ちなんてほとんど無い。
それは愛情が薄いからなのかと言われると、“違う”と答える自信がある。
好きだという気持ちに正直になりたいだけだ。
これを言うと久美は「嘘つき」って言うんだけど…事実だから仕方ない。

「好きな男を多少なりとも疑わないなんて、おかしいよ」
「そうかな。ありもしない事実を作り上げて不安になってても際限ないじゃない」
「ふーん…そうか、鈴は疑って不安が広がるのが怖いから見ないようにしてるんだ」

そうだろうか。
ハッキリ言って私は、周りが言うほど精神的に強い方では無い。
堤さんにはバレてしまったけど、こんなに近い友人にすら心が不安定な事や治療を受けている事は告白していない。
それが分かっているから、必要以上に暗い方向に心が向くのを本能的に止めているのかもしれないな…そんな風に思ったりした。

「あ、そういえば舞が結婚決まったんだって」
同じ大学だった舞ちゃんとは、ちょっとした心のすれ違いで今は連絡をとりあっていない。
それを久美は分かっているんだけれど、橋渡しみたいに私に舞ちゃんの事を定期的に知らせてくれる。
きっと私の情報も彼女に伝わっているに違いない。
「え、そうなんだ。ずっと連絡とってなかったから…、じゃあ、あの長いこと付き合ってた彼と?」
「うん。同棲が随分長く続いていたみたいだけど、子供が出来たみたいで。入籍だけだって」
「へー…。良かったね、きっかけが欲しいみたいな事言ってたもんね」
私は純粋に彼女が幸せになってくれる事を願って、その報告を聞いた。

基本的に結婚っていうのはおめでたいと思う。
そこから新しい二人の世界が続いているわけなんだけど、よほど価値観に差が出来たり相手に対する絶望が深くなければ簡単に離れたりはしないだろう。
私は残念ながら離れてしまったけれど、だからといって結婚が悪いものだとは思えなくて。
将来を誓って未来を供に歩く仲のいい夫婦がこの世に一組でも多く存在してほしいなという思いは強い。


久美と別れて、私は思いっきり衝動買いしてしまった洋服を両手にぶら下げてアパートに戻った。
普段あまりお金を使わないから、季節の変わり目ごとに洋服をまとめて買ってしまう癖は直らない。
社会人っていうのは、こういう外見にかけるお金がかかるからそんなに自分の自由になるお金っていうのは多くない事を、働き始めて実感している日々だ。

ふとアパートの駐車場を見たら、見慣れた堤さんの車が見えた。
「堤さん?」
不思議に思って運転席を覗くと、彼は運転席のリクライニングを思いっきり後ろに倒して、目を閉じていた。
起こしていいものか迷ったけど、暑さをしのぐ為に全開にされた窓の外から声をかけた。
「どうしたんですか?」
「……今日会う約束してなかったっけ?」
言われて、私は自分の記憶違いで久美の約束が堤さんとバッティングしていた事に今更気が付いた。
スケジュール帳には来週堤さんとは会う事になっていて、記入ミスから彼との約束をすっぽかした状態になってしまった。

「ごめんなさい。来週の約束だと思ってました!」
私が青ざめて何度も頭を下げていると、彼の長い腕がすっと窓から伸びてきて、私の腕をつかんだ。
「え?」
「乗って。これからでも時間あるでしょ?」
有無を言わせない迫力でそう言われて、私は大人しく荷物を後部座席に置かせてもらって、彼の隣に座った。
無表情の堤さんがエンジンをかけて、エアコンの調整をしながら車を発進させる。

「あの…何時からあそこに?」
約束したのは昼の12時だ。
まさか、その時からいた訳じゃないよね…。不安になる。
「僕もあの暑い中、昼間から車の中で待つ気力は無いよ。何も連絡が無いから心配はしたけど、多分君が約束した日を間違えたんだろうなって思ってさ。帰って来そうな5時くらいからあそこにいた。携帯に催促の電話したって慌てさせるだけだし。良かったよ…本気で何かあったのかと思って、あと少しで駐車場を動くところだった」
静かなもの言いで、特に怒っているような様子は見えなかった。
ただ、彼の中で消化出来ない気持ちが渦巻いているような感じは伝わってきた。
携帯に連絡をくれれば、すぐに対処できたのに。
こういうところが、ちょっと変わった人だなあと思う。

あまり語らないまま運転をしていた堤さんが、口を開いた。
「恋愛って結構負担大きいね」

「え…、負担ですか」
私は唐突な彼の言葉に、ちょっと驚いた。

「うん。多分僕が君を好きになり過ぎてるんだと思う。天秤がうまいことバランスをとってくれない。君と一緒にいられる時間が短いのがつらいなんて…こんな事思う人間じゃなかったんだけどな」

長めの前髪をグッと後ろにかきあげて、彼はちょっと笑っていた。
好きになり過ぎている…。
そんな言葉を聞いて、自分の心臓がバクバクするのが分かる。

「どこに向かってるんでしょうか」
私はまたもや逃げられない助手席という場所に座って体を縮めていた。
乱暴じゃないけど、時々心が見えなくなる堤さんのギリギリの顔を見るのは結構怖い。
今回のギリギリっていうのは、仕事の事ではなくて、高田さんとの事とか約束をすっぽかされた事とか…そういう気持ちが入り混じっているのが分かった。

「さあ…自分でも良く分からない状態でハンドル握ってるからね。どこに行こうか」
目的も無く車を走らせるっていうのは、ある意味ただ走らせる事でストレスを分散させようとする行動に見える。

「戻りましょう。私のアパートでもいいし、ちゃんと部屋でお話しましょうよ」
私は彼の様子が怖くなってそう言った。
すると、堤さんは目線は前を向いたまま黙っていた。

「…今日はちょっと抑えが利かない気がする」
数十秒続いた沈黙の後、彼はそうつぶやいた。

「え?」
「言ったよね。キスしたらそこから先もきっと求めてしまうって…。出来るだけそういう欲求は見せないでいたかったけど、今日はどうにもならない。車を走らせていれば多少気持ちが紛れるから、こうしてるけど…」

「……」

人を好きになるというのは、幸せな事も多い。
でも、好きな気持ちの大きさに比例するように、苦しい気持ちにも陥りやすい。
私は堤さんを好きになる気持ちをどこかで無意識にセーブしているところがあった。だから彼との約束を間違えたりするような抜けた部分が出る。
でも、彼は私が思っていたよりずっと強く私を思ってくれているようだった。

「乙川さん…」
「はい」

「君を抱きしめたい」

堤さんの低い声が車の中に静かに響いた。

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