抹茶モンブラン

3−1 温もりのないベッドサイド

光一さんが忙しすぎて、職場で過ごすのは高田さんと一緒の事が嫌でも多くなった。
光一さんは、相変わらずの追い詰められぶりで、お弁当を渡しても返事が無い事があった。
そういうのが続くと、何となく余計な事はしないほうがいいのかなと思う。

「口を利かないのは怒ってるんじゃなくて、単に耳に入ってないだけだから」
と、事前に言われていたけど、やっぱり声をかけても返事が無いと無視されたみたいで、軽く傷つく。
そんな訳で、私はお弁当を作る回数を減らして自分も外食したりバリエーションのある昼休みを過ごしていた。

事務の女性はほとんどが50歳を過ぎた職員さんで、彼女達はつるむでもなく勝手に自分の席でお弁当を食べている。
だから、私は事務に居た頃から昼食はだいたい一人だった。
もちろん一人が好きな訳でもなかったんだけど、話が合う人がいなかった。
そんな中、年齢が同じっていう事もあって、高田さんと時々ランチを外で食べるようになっていた。

「高田さんって、頭の中で言葉を考える時ってやっぱり英語なんですか?」
私は見た目が完璧日本人なのに、英語がネイティブだという彼の言語能力に興味があった。
「うーん。やっぱり英語かな。あまり意識してないですけど…。日本語は一応一瞬何ていう単語だっけかって考える事が多いから、やっぱり無意識に考え事してる時は英語なんでしょうね」
「そうですか。私は日本語しか分からない人間なので、バイリンガルな人の脳ってどうなってるのかなって常々不思議だったんですよ」
そう言ったら、高田さんはハハハッと軽やかに笑った。

何を食べて大きくなったのか分からないけど、彼はラガーマンみたいにいい体格をしていて、一緒に歩いていると何だかお父さんと一緒にいるみたいな感覚になる。
包容力っていうか…そういう懐の大きい部分が垣間見える人で、一緒にいると単純に安心する。
異性を感じないで自然に話せるから、私は彼と一緒にランチするのを楽しみにしている。

「僕、ラーメン大好きなんですけど。女性とラーメンって駄目かな」
いつもはだいたいイタリアンになるんだけど、この日高田さんは有名店に行列が出来ているラーメン屋を見てそう言った。
「いいですよ。私も麺類大好きですから」
「そう?じゃ、少し並ぶみたいだけど、あのお店入ってみましょう」
「はい」

こんな成り行きで、私達は20分待って600円のラーメンを食べた。
高田さんの体なら一杯では不足だろうと思っていたら、やっぱり私が半分食べたぐらいの時に替え玉をしていて、食べ終わるのは一緒だった。
「すごく美味しかった。日本は食のバリエーションが多いからいいですよね」
彼はラーメンにすごく満足していた。
私も久しぶりに食べるとんこつ味のラーメンに大満足だった。

仕事は光一さんと同じ種類の事をやっているのに、高田さんには追い詰められるような気配は無くて、この違いは何なんだろうって思っていた。
「堤さんと高田さんがやっている仕事ってどういうふうに違うんですか?」
帰り道、私はそんな質問をした。
すると、高田さんはビックリした顔をして私を見た。
「え、堤さんと比較しないでくださいよ。あの人の足元にも及ばないんですから、僕は。正直、彼は僕を拾ってくれたようなもので…、本当なら日本の研究室に入れるルートなんかなかったんです。だから、僕は堤さんをすごく尊敬してますし、感謝もしていて…」
そう言って、彼は言葉を一度切った。

「あの、乙川さんって…その。堤さんと付き合ってるんですよね?」
「え?」
私が彼のお弁当を作ってきていて、さり気なく彼の机の上にそれを置くのを見られた事があったらしかった。
私は特に否定をする必要も無いかなと思って、素直に彼との付き合いを認めた。

「そうですか。やっぱり…ですよね」
「あの、何か問題が?」
軽く暗くなった高田さんの様子を見て、私は何かまずい事を言ってしまっただろうかと不安になる。

「自分の尊敬する人の恋人に好意を持つって…許されないんでしょうかね」

「…は?」

日本語の使い方を間違えているのかと思って、私は彼の顔を見上げた。
すると、高田さんはかなり真剣な顔で目線を前に向けていた。

好かれるっていうのは嫌な気分にはならなかったけれど、一緒に仕事をしなくてはいけない人からそういう言葉を聞いてしまうのは、ちょっと困った。

高田さんは体は大きいけれど、心が繊細で他人の心を思いやる気持ちが強い人だ。
自分の言った言葉で私が困っているのを見て焦っていた。

「すみません、変な事言って。何か、乙川さんと一緒だとすごく気が楽になるんで…僕はこうやってたまにランチをしたり職場で雑談するだけでも嬉しいんです」
彼の言葉はとても丁寧だ。
これだけ日本語を流暢に操れるっていうのは、彼のご両親がしっかりと日本の言葉を教えて育てられたんだなっていうのが伝わってきた。

「あの職場には私ぐらいしか独身女性いませんしね。高田さんなら他にもきっと素敵な女性との出会いがあると思いますよ…」
私はこういう言い方でしか彼の言葉には答えられなかった。

「いえ、僕はこれでも趣味に生きるタイプで、結構色々な国の女性と友達になって、たくさんの人間を見てきた方だと思ってるんですけど。乙川さんみたいな人ってあまり出会った事がないですよ」
「そうですか?趣味…ってどんな?」
話を自分の事から逸らそうと思って、私は彼の趣味について質問をした。

「今は料理ですね。本の通り作るより、さらに美味しくなるように工夫したりするのが大の楽しみになってましてね。時々自分のアパートで小さなパーティとかするんで、どうぞ今度参加してください」
高田さんはオフの時間を自分の趣味に当てていて、相当真剣に取り組んでいるようだった。
仕事オンリー人間の光一さんとは対照的な人だ。
「へえ、すごいですね。本格的なんですか」
「まあ、結構本格的ですよ。一度始めるととことん追求したくなるのは性格でしょうね」
「そうなんですか」
オフをめいいっぱい楽しんで仕事もきちんとこなすっていうのは、素敵な生き方だなあと私は思った。

「…やっぱり乙川さんといると、ホッとするなあ。素敵な方ですね…あなたは」
そう言って、高田さんは再び私を褒めてくれた。
何だか真正面からそういうのを言われると、本当に照れてしまう。

「私、そんなに素敵な人間じゃないですよ」
光一さんにも言われたけど、私は褒められるとすぐにそれを否定しにかかる。
高田さんにもそこを指摘された。

「謙遜っていうんですか?そういうの。僕が言うあなたへのプラスの印象は不快にさせてますか?」
「いえ、とんでもないです。恥ずかしいんですよ、褒められるのって…」
私はもうどう答えていいか分からなくなって、俯いて黙ってしまった。

「…堤さんに逆らう気は無いんですけどね。やっぱり二度と会えないタイプの女性の為だったら、多少戦おうかなっていう気分になってしまいますよ」
高田さんは本当にストレートな性格で、光一さんみたいにぼんやりと好意を伝えるっていうのじゃなくて、くっきりと輪郭が浮かび上がるような心を伝えてくる。
先にこの人に会っていたら、私は彼を好きになっただろうか…?

分からない。
こういう「IF」もしも…っていう事を考えるのは無駄な事だと誰かが言っていたのを思い出す。
現実にある事だけが真実なんだから、そこから目を離すなっていう事なんだと思う。

だから、今は光一さんしか考えられないという事が、私の心の中にある真実だ。
でも、だからといって高田さんの心を否定する権利も無い。

「困らせてすみません、ただ、僕はあなたに好意があるっていう事だけ知っていてもらえればそれでいいんです」
職場のドアを開けながら、彼は明るい表情で私に微笑んで見せてくれた。

                       *

二人で研究室に戻ると、出張だと言っていた光一さんが席に着いていた。
表情は固く、腕組みした状態でPC画面を睨みながら難しい顔をしている。
彼のギリギリな表情を見て、高田さんと一緒に部屋に戻ったのはまずかったかな…という変な意識が働いた。

余裕がある時は優しい彼だけれど、飽和状態になると必要以上に心配事を膨らませる癖があって、何度か高田さんとの事では探られていた。

「お疲れ様です。あの…今日って出張でしたよね?」
それとなく機嫌を伺ってみる。
「……」
無言だ。
これは、彼がギリギリで、さらに私に対して何か疑惑をかけている証拠だった。

口を利くのを諦めて、自分の席に戻る。
光一さんは、限界を超えるとちょっと危ない人間だという事は自分から告白していた。
さらに、そういう時は下手に触らないで放っておいた方がいいとも言っていた。
まるでUNIXみたいだ。

“触れるな、危険“

なんて、看板でも立てられてるような…。

結婚したら亭主関白とか、そういう感じの人では無い。
ただ、ちょっと特殊な性格をしているのは確実で。
自分が心を許した人じゃなければ至近距離には近寄らせないという神経質な部分もあるわりに、常にデスク周りはごちゃごちゃしていて、掃除とかそういう事に関してはどうでもいいみたいだ。

要するに、人間に対する好き嫌いが多い。
高田さんの事は彼が積極的に呼んだのを見ると、人間的に信頼していて好きな人なんだと思う。
ただ、私と彼が仲良く話すのを見るのは気分が良くないらしい。
今日高田さんから言われた事を考えると、私も必要以上に高田さんとは親しくしないほうがいいのかなとも思うけれど、一緒に仕事をしている以上付き合わないわけにもいかない。

人間の心は確実なものなんか無い…って、私が自分で言った言葉だ。
だから、光一さんが私の心を疑うのもそれほど変な事ではないと思う。
私だって、彼が外でどんな人と接しているのか見えないから不安が無いだけで、すごく素敵な女性と過ごしているのを見たら、そりゃあいい気分じゃないと思う。

28歳真近だっていうのに、私はまだまだ異性関係っていうものの複雑さを理解できない。

                        *

その夜、私は久しぶりに目が冴えて眠れなくなっていた。
11時をまわってしまうと、そこから寝ようとしても睡眠力が落ちる。
睡眠薬を頓服でもらっているからそれを飲んでも良かったけど、あれを利用してもだいたい3時間ぐらいで目が覚めてしまうのが分かっているから、どうしようもなく眠れない時だけ使用しようと思って手をつけていない。

余計な事が頭を占有して、どんどん嫌な気分が心の中を支配する。

光一さんが口を利いてくれなかった事でも落ち込んでいたし、また前夫に会うかもしれないと思って通うスーパーを変えたりしている自分の後ろ向きな行動にも嫌気がさしていた。
裏切られたのは私の方なのに、何故かコソコソしているのは私だ。

恋人はいても、家族っていう固い絆にはかなわないと、どこかで思っているんだろうか…。

私はいったい何を求めて、日々生きているんだろう。

好きな男性がいて、仕事があって、ちゃんと生きている。
これ以上私が望むものなんか無いように感じるのに、光一さんが眠っていたベッドサイドに温もりが無いというだけで、言葉に出来ないような寂しさを感じた。


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