抹茶モンブラン

4−2. ライバル?

光一さんの強すぎる思いに、私は少し後ずさりをしてしまった。
誤解を与えるようなシチュエーションを作ってしまったのは私だし、そこは反省しているけど、光一さんの嫉妬はちょっと普通レベルを超えていると感じた。
余裕のある時の彼と違って、あの日の彼は前後不覚とも思える状態だった。
私の言葉を伝えようとしても届かなくて、胸が苦しくなった。

嫉妬…。
現実とは別次元の妄想が、彼の心を真っ黒に覆っているのが分かった。
それは彼自身も感じている事らしく、涙にくれる私の横で言いようのない悲しい顔をして一言「…ごめん」と呟いた。

少し距離を空けた方がお互いの為にいいような気がして、オフでの時間はしばらく会うのを控えましょうとメールした。
光一さんからの返事は短かった。

“分かった。鈴音がそう思うなら、そうしよう。”

職場での付き合いはいつも通りで、仕事内容に関しては軽く口で伝えられ、その後の細かい指示は全てメールだ。
その方が口で伝えられるより的確に仕事内容を把握する事が出来たし、忙しい彼の行動を邪魔せずに済むのがいいと思った。
同じ部屋にいても、1日まともに口を利く事が無い日もあったりして、光一さんが私の恋人かどうかという事さえ怪しく感じるようになった。

高田さんとの距離は私の方から離すようにしていて、いろいろ誘ってはくれるけれど、理由をつけて断っていた。
彼は2度も3度も同じ誘いをするような事は無かったし、光一さんとうまくいかずに落ち込んでいる様子も察知してくれていた。
だから、高田さんの心遣いには感謝していて。
逆に彼の好意をことごとく拒絶している感じがして、申し訳ないなと思ったりした。

「僕の事は全く気にしないで。いくら断られてもこっちが傷つくなんて事は考えなくていいですからね」
そう言ってくれて、私も素直にお礼だけは伝えている。
まさか彼の部屋に泊まった事で光一さんが狂ったように嫉妬したなんて事は言えない。
私はあの日の事をうまく嘘をつくべきだったのかしら。
全てを告白して欲しいと言われ、その通りに答えた。
何もなかったのは事実だし、正直に話した方が変な誤解を生まずに済むと思った。
でも本当は、秘密にする苦しみに耐えるより話してしまう方が私にとって楽だったからなのかな…と振り返ったりする。

光一さんのギリギリな精神状態を見れば、もっと私は気を使うべきだったのかもしれない。

こんな反省をしたって私達の関係が良くなる訳でもなく、私は軽く失恋したような気持ちで日々を過ごしていた。
離婚したての頃も、今みたいな脱力感の中にあったような気がする。
何かしようと思っても集中力が落ちていて、うまく進まない。
料理すら満足に出来なくなって、お弁当を作るのもしんどいと思うようになった。
私が精神的に参っているのを一番分かっているのは光一さん本人で、お弁当はもういらないと随分前に言われていたから、私はその通りに作らなくなった。
自分の為だけのお弁当は本当に適当になってしまい、最近では以前頼んでいた仕出し屋に注文する事の方が多い。

                       *

「鈴音?」
買い置きの牛乳が無くなったから、ついでに食材も少し買っておこうと思って立ち寄ったスーパーで唐突に声をかけられた。
「俊哉…」
会わないようにと気をつけていた前夫が、目の前で買い物カゴを手にして立っていた。
この日は彼一人が買い物していたみたいで、奥さんも赤ちゃんもいないようだった。

彼の顔を見たらきっと憎しみがわくだろうと思っていた。
許せない気持ちが再燃して、自分が苦しくなるだけだと。

なのに、しばらくぶりに見た前夫の顔は思っていたより幸せそうでもなくて、それとなく生活と仕事に疲れた様子の見える普通の男性だった。
光一さんと同い年だったはずだけれど、見た目は光一さんの方が若く見える。

「前、奥さんと赤ちゃんを見たわ。子供授かったみたいで良かったね」
私は手にしていた卵のパックをカゴにそっと入れながらさり気なくそう言った。
「そうか、もう鈴音には見られてたのか。そうなんだ…思ったより早く授かったから、慣れない事ばっかりの連続だよ。正直子供を持つっていうのは理想していたよりずっと大変でさ…」
何より子供を授かる事を望んでいた彼が口にする言葉とは思えなかった。

まあ、私達が駄目になったのは子供がいなかった事だけが原因では無いし、子供を授かっていても、もしかしたら駄目になっていたかもしれない。
初恋で、他の男性を一切知らなかった私と同じように、私以外の女性を知らなかった俊哉。
他にもっと自分に合った異性がいるんじゃないか…と、結婚してから思うのはそれほどおかしい事ではなかった。
私はそれでも俊哉を選んだ自分を信じたかったし、彼と過ごす時間は心地よかったから他の恋を探そう何て夢にも思っていなかったんだけど。

「ずっとこんなふうに再会してしまうのが怖かったんだけど、会ってみたら意外と冷静で、今結構驚いているの」
私はそう言って、ちょっと苦笑してみせた。
本当に…、不思議なほど俊哉を前にした私は冷静で、悲しみの一つも浮き上がっては来なかった。
妙な妄想と雑念に追われていた日々の方がずっとつらかった気がして、私はずっと過ぎ去った過去に苦しめられていたんだと分かった。

「鈴音も新しい人とか出来たの?」
彼からこんな事を聞かれるとは予想もしてなかった。
でも、私はその質問に素直に頷いた。
「俊哉とは全然違うタイプの人。見た目は強そうなんだけれど、すごく内面がもろい人で…。俊哉は逆だったわね。あなたは誰かを支えていたいっていう人だったものね」
そう言うと、俊哉は少し考えるような仕草をしてから「そうかもね」と力無く笑った。

「また見かけたら声かけていい?」
彼はその場から立ち去る前に、私にそう言った。
「うん。もう逃げなくていいんだと思ったら、私も気が楽になった。じゃあね」
買うべきものは全てカゴに入っていたから、私はそのままレジに向かって歩いた。

予想していたよりずっと自然な会話で、まるで古い幼馴染とでも再会したような気分だった。
新しい生活を受け入れながらも、彼なりに苦労はしている様子で、私はやっぱりこの世はそんなに甘い事だけで構成されていないんだというのを漠然と感じたりしていた。

                       *

12月に入って、本格的な寒さになった。
ずっとタンスの中に眠らせていた冬服を引っ張り出した。
コートを羽織るにはまだ早い気もして、ジャケットの下にカシミヤのベストを着たりするのが定番スタイルだ。

いつも通りの朝。
挨拶をしながら、私は研究室へ足を急がせていた。

「あ、乙川さん」
挨拶だけして通り過ぎようとした事務室前で、私は呼び止められた。
「はい。どうしました?」
足を止めて事務室の中を見ると、明らかに若いというのが分かるスーツ姿の女性が目に入った。
「前に鹿児島での写真で一度見たでしょう。鮎川紗枝(あゆかわさえ)さんっていう方でね、来年根元さんが定年でしょう。でも、新しい人は雇う余裕無いとか言われてたんだけど、たまたま鹿児島では人手が足りてたみたいで。それで鮎川さんに東京へ来てもらう事になったのよ」
そう説明され、私はずっと光一さんさんに聞けずにいた女性の名前を予想外なかたちで聞く事になった。

「鮎川です。東京は全然慣れない土地なんで…、色々教えてください」
そう言って、鮎川さんは丁寧に頭を下げた。
真っ黒なツヤのある長い髪がさらりとゆれる。
決して濃すぎないナチュラルメイクと、薄く色付くピンクの唇。
初対面から好感度の高い女性だなという印象だった。
「乙川鈴音といいます。私もこの職場では初心者なので、どれぐらいお手伝いできるか分からないですけど、何かありましたら気軽に声をかけてください」
「はい。堤さんから乙川さんの事は伺ってました。お会い出来て嬉しいです」
そう言って、彼女は気さくに握手を求めてきたから、私はその手を軽く握った。

光一さんが…彼女に私の事を話していた?
まさか恋人だという事を話した訳ではないんだろうけど、鮎川さんの表情を見ていると、ちょっと内面を探りたいような様子が見えて、軽く動揺する。
おまけに、光一さんからは事前に何も聞かされてなかった事も軽くショックだった。
まあ、事務の人が新しくなるという事は事後報告でも大して仕事に支障は無いんだけど、少なくとも彼と関わりが深そうな鮎川さんの事を彼から何も知らされなかったのは、やっぱり気分のいいものではなかった。

私にも嫉妬する心っていうのはある。
表面上あまりそういうのを出さないようにしているし、実際隠せる能力も私は持っているらしい。
それでも、光一さんが高田さんに対して抱くような黒い感情を、私だって持っているわけで。
こういうのって、多分人間の自然な感情なんだろう。

鮎川さんを紹介された事を、職場でさりげなく光一さんには告げた。
彼は「ああ、そうだったね。報告してなくてごめん」なんて軽く言った。
関係がどういう人なのかって事までは聞けなくて、結局その何日か後に鮎川さん本人から事情を聞いた。

もしかして彼女は光一さんを特別に思っているんじゃないか…という私の嫌な予感。

その予感が的中してしまう事を、私は後日知る事になる。

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