抹茶モンブラン

5−2 選択

恋は人を自己中心的な世界へと引きずり落とす。
誰でも好きな人とは、どうあってもつながっていたいと思うはずだ。
もし「好きな人がより幸せになるなら、自分は相手を諦める」という選択をした場合、これはどういう感情になるのだろうか。
「愛」という言葉が相応しくなるのは、そういう自己愛を捨てた時なんだろうか。

命に代えても欲しいと思うその人が、立てないほど弱っている人を助けようとしている。
それを私はどう応援したら自分に正直であり、相手を最も尊重する事になるのか思い悩んでいた。

こんな事を考えるようになったのは、病院で療養中の紗枝さんを見舞いに行った時の事が大きく関係している。

その日は光一さんが病院へは立ち寄れないというので、頼まれていた新しいパジャマを私が届けに寄った。
その前から何度かお見舞いには行っていたけど、特に会話が弾む事も無くて、何だか居心地の悪い空気のまま私は病院を後にしていた。

「何度もいらしてくださってありがとうございます」
足以外はすっかり元気になった鮎川さんがベッドに上半身を起こしてそう言った。
個室に一人寝ている鮎川さんのベッドサイドには綺麗な花が活けてある。
「綺麗ですね」
ピンク色のバラが、何だか彼女に元気を与えるように綺麗に咲き誇っている。
「ええ、私はバラが好きで。精神的に寂しいだろうからって堤さんが時々買ってきてくださるんです」
「そうですか」
週1ペースに数時間ほどしか光一さんと会っていないけれど、彼がマメに花まで持って見舞いに来ている事を知るのは、やはり胸が痛い。

「あの…乙川さん」
鮎川さんの瞳が真剣なものになった。
「なんですか?」
ベッドの横にあった小さな丸い椅子に座り、私はなるべく落ち着いた態度で彼女の言葉を待った。
「私…もしかして歩けなくなるかもしれないって言われているんです」
「でも、リハビリをすれば……」
私はそう言いかけたけれど、何だか勝手な言い方だなと思って言葉を切った。
「もちろんそうですね。私の精神力にかかってると思います。でも、こんな事言ったら人間として最低だって分かってるんですけど……」
大人しい鮎川さんだけれど、この時の彼女は、自分の中にあるとても強い気持ちを必死に口でどう説明したらいいのかと考えているようだった。

数十秒沈黙が続いた。
やがて、決心したように鮎川さんは顔を上げて私を見る。

「あの…お願い、お願いです。私から堤さんを奪わないでください」
とうとう短い言葉で彼女は魂の叫びとも言える言葉を口にした。

「光一さんは、でも…」
私の恋人だ。
彼は私の大事な大事な命にも代えがたい人…。
でも、肉親を失い、頼れる親戚も友達もいないらしい孤独な彼女を唯一支えているのは光一さんただ一人。
言葉を続けられなくて、私は黙ってしまった。

「彼が乙川さんを愛してるのも知ってます。それでも…私は彼の存在が欲しい。多分あの人がいたから私は精神をここまで回復できたんです。ベッドサイドで必死に呼びかけてくれた彼の声を覚えています。もうこの世に未練は無いかなとぼんやり思ってた時に、彼の声が私を引き戻してくれました…」

そうなのだろう。
かなり大きな事故だったというのは聞いていて、お医者さんも本当は助かるかどうか五分五分だったと言っていたらしい。
そんな彼女が光一さんの身も心も欲しいと思うのは分かるし、例え恋愛関係でなくても傍にいてくれるならと思うのは仕方のない事だと分かっている。

でも、今鮎川さんが私に言ったのは「光一さんとの関係を切って欲しい」というものだった。
要するに「別れて欲しい…」と。
二つ返事で「分かりました」とは到底言えない話だし、それに従うのが果たして鮎川さんを幸せにする事なんだろうかという冷静な気持ちもあった。

誰もが幸せになる道はどこにも用意されておらず、多分私が今から選ぼうとしている道は誰も幸せにならない。
それでも、用意されているのはその道だけで…他は全部行き止まりか崖になっているのも見えた。

「すぐにはお返事出来ません」
私は、やっとそれだけ口にした。
この返事を聞いて、鮎川さんもたまらなくつらそうな顔をした。
「もちろん無茶で勝手な事を言ってるのは分かってるんです。最低です。愛じゃないです…私の感情は。ただのエゴイズムです。それを十分分かっていて、あえてこういう事を言ってるんです」
鮎川さんのうつろな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
涙というのは伝染するのか分からないけれど、私の目からも自然に涙が出た。
どうにもならない切ない気持ちが私の胸を猛烈に締め付ける。


「ごめんなさい」
帰り際、鮎川さんは私の背中に向かって小さくそうつぶやいた。
彼女の痛いほどの気持ちが伝わってきて、私は本当に大声を出して泣きたい気分だった。

誰も悪くない。
でも、誰も幸せになれない。

鮎川さんの気持ちを無視して光一さんと恋人を続けても、罪悪感で関係はぎこちなくなるのも想像できてしまう。
光一さんだって鮎川さんの本当の気持ちを知ったら、どう答えていいのか分からず、きっと苦しむに違いない。

一応働く手足があって、日々の生活を無理なく過ごせている私。
田舎には両親がいて、縁談の話もある。
私の条件の方が鮎川さんよりも安定しているのは確かだ。
この事実が私を本心から切り離し、「光一さんと離れるしかないのではないか?」という気持ちにさせる。
どうして私はこういう時にいい子ちゃんになってしまうんだろう。
心の底では絶対に光一さんと別れるなんてあり得ないと思っているのだ。
なのに、その本心を隠すように、私は彼との別れを選ぶのが正しいんだと自分に言い聞かせている。

『鈴音、他人の不幸の上に自分の幸福は無いのよ。覚えておいてね』

かわいがってくれたおばあちゃんが、小学生ぐらいの時に私に言った言葉だ。
何故かそれが忘れられなくて、私はその言葉を色紙に書いて自分の部屋に飾ってある。
光一さんがその色紙を見つけて「鈴の音のように可愛らしく育った君は、心もこんなに美しく生きるよう願われて育ったんだね」と言っていた。

自分の幸せの前に他人の不幸があるというのは無視できない事だ。

光一さんの心を裏切る事も、ある意味それは誰かを不幸にするという事と一緒なのかもしれない。
でも…今の私には光一さんと付き合い続ける選択肢は残されていない気がしていた。
鮎川さんからの必死の告白を受けてから2週間ほど、私はずっとこの事だけを考えていた。
光一さんと会っている時も上の空で、何故か彼に抱きしめられる度に軽い罪悪感が伴うようになった。

私は心が強くできていない。
鮎川さんが苦しんでいるのを知っていながら、光一さんと楽しい時間なんか過ごせるはずがない。

「鈴音…ここ最近元気が無いね。僕が紗枝にかかりっきりだから寂しい思いをさせてるのかな」
まだ私と鮎川さんの間に交わされた言葉を一切知らない光一さんが心配そうにそんな事を言う。
「ううん、鮎川さんの看病をするのは当たり前の事だし。そんな事で落ち込んでやしないから大丈夫。ちょっと風邪ぎみなのかな、体調が悪いだけ」
私はそう言って、自分が今抱えている悩みを全て隠した。

私は光一さんが一番苦しまない道を選びたい。
彼を愛してるから。
心から愛してしまった人だから……。


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