抹茶モンブラン

5−3 鈴音の決意 その1

SIDE光一

紗枝の足はいっこうに動かない。
毎日リハビリさせているけれど、まだ立ち上がる事も出来ず、挫折して泣いてしまう彼女を励ます日々が続いている。
仕事帰りに鈴音と会っていた時間を、今はほとんど紗枝を励ます時間にあててしまっている。
もっと近い関係の親類がいれば、その人にお世話をお願いするのが普通の状態なんだろうけれど、鹿児島の親類は皆それぞれに仕事を抱えていて、とてもかけつけられないと言われた。
鹿児島に紗枝を戻す事も考えたけど、無責任そうな親類に彼女を任せるのも不安で、結局は僕が彼女を看る事になった。

「もう私は死んだ方が良かったのかもしれない」
こんな絶望的な言葉を言う紗枝を強引にでも生きたいと思う方向にむけてやらなければと、僕は必死だった。

                       *

紗枝は親友、鮎川吉行の妹だ。
鮎川は僕なんかよりずっと頭も良く、精神的にも大人な人間で、一緒に会話をしていても常にどこかリードされている感じがして、僕は勝手に彼をライバルだと思っていた。
でも、一緒に飲んだ時、僕は鮎川に言った事がある。
「お前が羨ましい。才能もあって人徳もあって…本当に鮎川には何一つかなわないよ」
正直な気持ちだった。
すると、鮎川は笑って僕の肩を叩いた。
「隣の芝は青く見えるって本当だな。俺は堤が羨ましいと思ってる。マイペースで自分のやりたい道を譲らずに生きる強い意志を持ってるだろう。何ていうか…幸運の神様がついてるんじゃないかなって気がするんだ。仕事でもプライベートでも、将来きっとお前は幸せになるだろうって感じさせられる」
思いもよらない言葉だった。
自分が運がいいなんて思った事もないし、将来が明るいとも思えなかった。
でも、鮎川はこの会話をした数ヵ月後に突然の事故で亡くなった。

彼の位牌を前に、僕は彼が何よりも大切にしていた妹、紗枝の事を考えていた。
何度か3人で食事をしたこともあり、僕のとっつきにくい性格にもかかわらず、紗枝はすぐになじんでくれた。
そんな彼女が悲しみのあまり涙も出せずに正座したまま動かない。

「お兄ちゃんもいなくなっちゃった…どうしよう」

二人の母親が病気で亡くなったのも、つい1年前の事だった。
その当時まだ短大生だった紗枝にとって、この現実を受け入れるのは容易でないのは明らかだった。誰か彼女をバックアップしてやれる人間はいないのか…?
葬式の間中ずっと観察していたけれど、紗枝をお願いできそうな頼りになる人間は見当たらなかった。

鮎川の遺影が僕に語っていた。
『お前しかいないんだ。紗枝を支えてやってくれ…頼む』

そういう鮎川の心を感じ取り、僕は紗枝の前に座って優しく声をかけた。
「紗枝、僕を鮎川の代わりだと思っていいから。何でも相談して。僕は東京に戻ってしまうけど、いつでも連絡してくれていいから」
そう言ってやると、今まで涙も出せない状態だった彼女がとうとう大声で泣き出した。
「堤さん…私、独りは怖い。独りは寂しい」
「大丈夫、独りじゃない。それに、きっと未来には僕や鮎川以上に君を愛する人が現れる。その時まで、僕を頼ってくれていいから」
「はい…ありがとう。ありがとうございます」

こうして、鮎川への友情の証として紗枝を見守っていこうと決心した。
だから、僕が紗枝の為に必死になるのは亡くなった鮎川への厚い友情の証なんだ。

これは何度も鈴音には伝えてあった。
当然彼女も僕の事を理解してくれていると思っていたし、以前のように不必要なほど彼女を疑ったりする事も無くなっていた。

なのに…ある日僕は唐突に、鈴音から死刑宣告とも言える言葉を聞かされた。

「私、光一さんとは、もうお付き合いを続けられないと思うの…」
無表情で抑揚のないトーンの鈴音の声。
僕は言われた台詞をすぐに飲み込めなくて、返事をするまで少し時間がかかった。

紗枝の世話で会えない日が多くなっていたのは事実だが、こんな唐突に別れ話を出されるほど関係が悪化していたとは思えない。
いったい何があったっていうんだ。

「納得いかない。何が原因なの?」
もちろん僕はこんな突然の別れを承諾する気は無くて、何とか鈴音の不安の原因を取り除いてやろうと思った。
でも、鈴音の瞳に不安は見えなかった。
ただ漠然とした悲しみのようなものはうかがえた。

「光一さんには内緒にしてたんだけど、私…田舎でお見合いしたのよ」
「…え?」
初耳だ…というか、どうしてお見合いなんかする必要があるのかすら分からない。
「両親が帰って来いってうるさくて。それで先週の週末にお見合いしてきたわ」
「そう。そういうのは僕に相談してくれないわけ?」
冷静に別れ話を進めようとする鈴音に少し腹が立って、僕は不機嫌な調子になった。
「相談しても光一さんを混乱させるだけでしょ?正直ね、私…あなたと付き合うのに疲れたの」
「疲れた?」
「ええ。安定してないっていうか、常に不安にさせられるし。ちょっとの事でも浮気を疑われたりして…ご機嫌を伺ってるのにも疲れたの」

冷え冷えとするような鈴音の声に、僕も心が凍るような感じがした。

「…そういう理由で、僕とはもう別れたいって思ってるの?」
ハッキリ口にしないから、自分から感じた事を言ってやった。
すると鈴音は固い表情のままコクンと頷いた。
「仕事はまだ続けるけど、お見合いの相手とは時々会う約束をしたわ。その人、今転勤で埼玉に住んでるの」
恋愛感情なんか全く無さそうな、その見合い相手とやらに鈴音は身を委ねようとしてるのか。

心は冷えながらも、頭には血が上っていた。

「信じない。鈴音は僕を愛してると言ったじゃないか。今は会えない日が多いけど、紗枝だってそのうち一人で歩き出す日がくる。その日まで待ってはくれないの?」
情けないほどのすがりつきようで、僕は彼女がこの別れ話を取り消してくれるのを待った。
でも、鈴音は「鮎川さんの事は関係ないわ」と言った。

「……」
茫然自失となり、もう口にする言葉は無くなった。

つき合い始めるのも唐突なら、別れというのも唐突なものだ。
段々に関係が悪くなって、そういう予感がしていた別れとは明らかに違う。
続くと思って安心していた道が、足元から崩れ落ちる感覚に襲われる。

誰か鈴音の言葉は嘘だと言ってくれ。
彼女はまだ僕を愛してるんだと証明してくれ……。


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