抹茶モンブラン

5−7 告白

SIDE光一

紗枝の病院生活が終わり、彼女はバリアフリー建築になっているアパートに引っ越す事になった。
鈴音からの話を聞いていた僕は、紗枝が時々じっと僕を見て何か言いたそうにしているのを感じるようになった。
たまに口にする「ごめんなさい」というセリフも、ずっと看病している事に対して言っているんだと思っていたけど、もしかしたら鈴音との関係に溝を作ってしまった事への謝罪なのかなとも思えた。

引越しが全て終わり、僕がいない時は有料のヘルパーさんを頼る事になった。
「可能な限り立ち寄るようにするよ」
僕はいつも通り紗枝にそう言った。
紗枝はコーヒーを二人分入れてくれて、僕の前にひとつマグを置いた。
一緒にコーヒーを飲むなんて今まで無かったから、彼女は僕が甘党だという事を知らない。
角砂糖無しのコーヒーを口に含むと、何とも言えない苦味が口中に広がった。
砂糖を入れないコーヒーっていうのは…今の僕の心に似ているなと感じた。

「さて…」
今は何時くらいかな…と思い、半分まで飲んだコーヒーを置いて時計を見た。
すると、紗枝が急に悲鳴に近い声を上げた。
「見ないで!」
「…紗枝?」
紗枝は両手を組み合わせ、それを口元にぎゅっと押し付けて今にも泣きそうな顔をしている。

「時計見ないで…私との時間が退屈みたいに見えてしまう。もっと一緒にいて、ずっと一緒にいて。帰らないで!」
泣き叫ぶように、紗枝はそう言って僕にしがみついた。
「紗枝…」
「嫌、私の事ずっと支えてくれるって言ってくれたでしょう?堤さん無しでは生きられないの」
子供のように泣いてすがる紗枝を抱きしめて、僕は彼女の恐怖心が治まるのを待った。
彼女のパニックぶりは、鈴音が別の男に行ってしまいそうだと僕が感じた時と似ていた。

                            *

「…紗枝」
落ち着いたのを確認して、僕は彼女の目を見てゆっくり口を開いた。
「紗枝は大事な人だ。尊敬する鮎川の妹だし、僕自身も君を妹みたいに思ってる。ただね、僕も本当はそれほど強い人間じゃないんだ。君に見せていない情けない分部や弱い部分がたくさんある。それを見せずに君をフォローできたのは、僕を後ろで支えてくれていた人がいたからなんだ」
そこまで言ったところで、紗枝の様子を伺う。
涙は止まっていて、じっと僕の話を聞いている。

「…紗枝を生涯支えたいと思ってる。君がいつか一緒に暮らしたいと思える異性に巡り会うまで、僕は君をフォローし続けたい。でもね、それを可能にする為には、僕にも僕を支えてくれる人が必要なんだ」
言葉を選びに選んで、僕は鈴音の存在を遠まわしに語った。
紗枝もそれが分かったみたいで、僕の顔を見上げて言った。

「鈴音さんね。あなたが心から愛しているのは…鈴音さんなのね。結局私は“鮎川吉行の妹”でしかないのね…」
「……」

紗枝がどういう反応を示すのか、僕にも予測がついていない。
決定的に傷つけてしまっていない事を願いつつ、嘘をつくのはやめようと思っていた。
自分に嘘をついて鈴音との関係を終わらせるより、紗枝がこれから歩かなければならない現実を少しでも直視してもらった方がいいと思った。
それに、鈴音を失った僕が紗枝を満足にフォローしていけるのかどうかというのも、自信がない。

「あのね」
紗枝は少し自嘲気味な笑みを浮かべて、再び口を開いた。
「何?」
「私…多分死んだら地獄に落ちるだろうなって思ってたの」
「…どうして?」
「だって、それぐらいひどい嘘をつきつづけてたんだもの」
紗枝が言おうとしている事が全く予想が出来なくて、僕は返事に困った。
次の言葉を言うまでに紗枝は相当葛藤していた。
涙は消えて、苦しそうに眉をよせている。
今からそれを告白する事で彼女の心が自由になるなら、何でも言って欲しいと僕は思っていた。

「見てもらうのが一番早いわ」
そう言って、紗枝はゆっくりと車椅子から立ち上がった。

僕は夢でも見ているのかと思った。
立ち上がれず、下半身が動かないと言っていた紗枝が立ち上がった。
そして、テーブルのへりに捕まりながら数歩あるいて見せた。

「紗枝!歩けるのか!?」
嬉しさが先に立ち、僕は紗枝をぎゅっと抱きしめた。
歩ける、歩けるんだ、この子の未来には、まだまだ明るい光が差し込んでいたんだ!
「怒らないの…?」
僕が嬉しくて目に涙を浮かべているのを見て、紗枝が驚いた顔で見上げている。
「嬉しいよ、また以前の紗枝に戻れる可能性を知ったんだ。嬉しくない訳がないだろ?」
そう言うと、紗枝はまた両手で顔を覆って泣いた。
枯れてしまうだろうっていうほどの号泣で、僕もつられて彼女の頭を優しく撫でながら再び涙がこみ上げた。

そのまま数分経っただろうか。
紗枝は泣くのをやめて、今度は素直な笑顔を見せた。
本来の彼女が持つ、明るい笑顔だ。

「鈴音さんもあなたも…本当にお人よし過ぎるわ…。私は罪悪感の塊で今まで過ごしてきた。堤さんを失いたくなくて、悪魔になってでもあなたをつなぎ止めていたかった。でも、もう自分を解放したい…本当は、こうやって堤さんからハッキリNOという言葉を聞くのを待っていたのかもしれない」
そう呟き、紗枝は車椅子に戻ってホウッと一つため息をついた。
何か、重い荷物を背中から降ろしたような安堵の表情を見せていて、僕は紗枝がこれから未来をしっかり歩く決心をしたんだと理解した。

彼女はもう少し東京でリハビリをして、歩けるようになったら鹿児島に帰るつもりだと言った。
「東京の空気に憧れて来たけど、堤さんがいるという事以外、私にはあまり楽しい事がなかった。やっぱり生まれ故郷の土の上で生きるのが私には向いてるみたい」

ずっと子供のように幼く見えていた紗枝の顔が、一人の成熟した女性の顔に見えた。

SIDE鈴音

光一さんから夜突然メールが入った。

“時間が許されるなら、今からアパートに行ってもいいかな?”

私はその時外で買い物をしていたから、その事を素直に返信した。
すると、さらにメールが返って来た。

“いつものコーヒーショップにいるから、来てもらえる?”
“分かったわ、今から行くわね”

何だろう。
私は携帯を閉じて考える。
もしかして、私との別れを決定的にする何かを告げられるんだろうか。
あの人が、そう簡単に紗枝さんを傷つけるような事が言えるはずがない…。

私はこんな暗い気持ちで、待ち合わせのコーヒーショップに向かった。

駅前にあるそのお店に近付く。
(ああ、ここで談笑した日々が遠い過去のようだわ)
そう思って私は一度立ち止まって、遠くからその店の風景を眺めていた。

「光一さん…」
いつも私達が座っていた指定席とも言える二人がけ用のテーブルに、光一さんが座っているのが見えた。
仕事虫の彼が、本も書類も見ないでただボーっとコーヒーカップをいじりながら座っている。
その姿を見て、私は何も考えず店に向かって走り出していた。
どんなシチュエーションで、どんな言葉を交わすとしても、一瞬でも彼の近くにいられる事が私には何よりも嬉しい事なのだと気付いた。
今から何を語られるのか分からなかったけど、私は彼と会えるだけで自然に嬉しい気持ちになってしまうのだった。

                        *

息を切らせてお店に入った私に気付いた光一さんは、すぐに席を立って私の方へ歩いて来た。
お互い職場では顔を合わせているのに、こうやってオフの顔を見るのはあの別れ話をした日以来で、何だかその場で私は泣いてしまいそうだった。
「外に出ようか」
光一さんは優しくそう言って、私の背中に軽く手を当てた。
店の外は人通りも少なく、車が時々走りすぎる音だけ耳に届く。
初夏が近くなって、気温は緩くなってきっていたけれど、この日の夜風は冷たかった。

「鮎川さんの新しいアパートへ行っていたの?」
私がそう言うと、光一さんは「うん」と一言答えたきり黙っている。
どこへ向かっているのか、何か目指すところがあるような足取りで彼は私の少し斜め前を歩いていた。

やがて、有料駐車場までたどり着き、彼は車のキーを手にして言った。
「この時間じゃあ海ほたるは無理だけど、アクアラインを走ろうか」
助手席のドアを開けて私が乗るのを待っている。
すぐには何も語ろうとしない光一さんの様子が不思議だったけど、私はそのまま黙って助手席に座った。
「久しぶりだね、鈴音を助手席に乗せるのは」
自分も運転席に着いて、彼は自然な笑顔を私に見せた。
「そうね」
そう答えて、私も少し微笑んだ。
車という密室にいても光一さんといると、自然に心が安らぐ。

急にどうしたというんだろう…光一さん。

流れる夜景を見ながら、私はそんな事を思って車のガラスに映る彼の横顔を見た。
気のせいか、彼の瞳が少し涙で濡れているように見える。

しばらくネオンの綺麗な道路を走っていたけれど、やがて街灯の少ない空き地に車を停め、光一さんは一つため息をついた。

「鈴音…」
少し低めの声で私の名前を呼ぶ。
「…何?」
運転席に顔を向けると、そこには優しく微笑む光一さんの顔があった。
その表情を見たとたん、何故か今まで抱いていた不安な気持ちは消え、心臓が甘くドキドキと高鳴った……。


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