ワンルームで甘いくちづけを
1. 出会い
1−5
「私は……分かりません。まだ、お会いしたばっかりで、突然結婚っていうのは……」
混乱している私を見て、佐伯さんはフッと軽くため息をついた。
「ごめん。ちょっと急ぎ過ぎた……もう少しお互いを知る時間は必要だね」
「そうですね」
佐伯さんの私を子供みたいに見る目には、やっぱり32歳という年齢を感じさせる大人な雰囲気があると思った。
どんなに背伸びしても、私はまだこの人と並ぶには幼い感じがする。それが少しもどかしい気もしたけど、実際自分は年下なのだから仕方ない。
「じゃあ、結婚云々はまた後で話すとして……一応これからも少しずつ会ったりしてもらえる?」
(こんな私でよければ……)
「はい、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げた私を見て、佐伯さんはホッとしたように胸ポケットから煙草を取り出した。
「あ、俺……結構ヘビースモーカーなんだけど……大丈夫?」
くわえた煙草に火をつける前に、彼はそう聞いてきた。
「はい。煙草の煙は平気です」
「そ、良かった」
シュッと慣れた手つきでライターを擦る。その火が風で流れる前に、煙草の先端にオレンジ色の火が灯った。
彼の吸っている煙草を見て、私は不思議な気分になった。偶然にも彼が吸っていた煙草が、兄も時々吸っていた銘柄と一緒だったからだ。
くゆる煙。
香ってくる煙草の白い影。
兄が生きていた頃、私は彼に“体に悪いよ”……なんて言葉はかけた事がない。その弊害は兄自身が良く分かっていた。それでも喫煙という習慣は、複雑な思考を持っている彼に必要だったのだ。
目をしばたかせて窓の外を見ながら煙草を吸う兄の姿は今も私の脳裏に焼き付いている。
大抵の人は副流煙を嫌う。健康に良くないものだと立証されてるんだから、当然だろう。でも、私には兄との思い出を繋ぐ大切なアイテム。
だから、この香を漂わせる人となら一緒にいるのも悪くない……そんな気がした。
日も落ちて、さすがに薄いコートでは寒い時間になった。
食事ぐらいはしようという事になり、美味しそうなイタリアンレストランでディナーをとって、この日は別れる事にした。
「菜都乃さん、俺の事は斗真って呼んでいいから。いつまでも“佐伯さん”じゃ堅苦しいだろ?」
「は、はい。私の事は呼び捨てでいいですよ、年下ですし」
「そう?じゃあ遠慮なく菜都乃って呼ばせてもらうよ」
「はい」
「また連絡する、じゃあおやすみ」
私が乗る電車の駅付近で別れた。
別れ際のあっさりした態度からも、彼が女性に執着しないタイプの男性なんだというのが伺えた。
その淡白さが今の私には楽だった。
(最初は緊張したけど……慣れるとそれほど居心地は悪くなかった。あんなタイプの男性は初めて)
電車の外に流れてゆくネオンを見つめながら、私は斗真さんと一緒にいた時間がそれほど苦痛じゃなかった事を思い返していた。
でもこれは恋の始まりなんかじゃない。
ただ、自分の心の深い部分を理解してくれる人に出会えた事が驚きだっただけ。
私は自分にそう言い聞かせていた。
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