二度めの恋は大胆に

1. カフェで

 少し肌寒いけれど、小春日よりの日曜日。
 駅前はいつもに増して人通りが多くなる。ちょっと休憩したくなっても、座る場所を見つける事も難しい。
 佐奈は書店で適当に選んだ単行本を手に近くの喫茶店に入った。
 ここは穴場と言える場所で、書店の裏にひっそりと存在している店なのだ。
「いらっしゃいませ」
 顔なじみになったマスターに会釈をして、お気に入りの窓際席へ座る。
 ここでカーテンから漏れる日に当たりながら本を読むのは、佐奈にとって極上の時間だ。

 世間では「婚活」などと言って、休日を一緒に過ごす人を探す事に必死になっている。
 佐奈も今年二十九歳になるけれど、見た感じが若いから、だいたい二十代前半だと思われる事が多い。いくつか転職して、今はパソコンで事務処理する事を中心とした仕事をしている。正規職員にしてもらえる道もあるという事で、ここで一生働けたらいいなという希望を持っている。
 佐奈が休日に一人で過ごすのを好む理由。
 ひとつは本当に一人が好きであるという事。あとは、「恋愛話が苦手」という事だ。友人と会っても、だいたいは恋愛について話題に登る。その度に、佐奈は気まずそうに笑うしかできない。
 彼女はちょっと深刻なぐらい「恋愛恐怖症」なのだ。
 大学時代、一生を誓うほど好きになった恋人がいて、佐奈にとっては初恋だった。でも、若い二人が結婚などまだ考えられるはずもなく、二年ほど付き合ったある日、恋人は心変わりして佐奈の元を去った。
 一生を誓ったはずだった。
 家も持ったら、犬を飼いたいねとも言っていた。
 子供は二人くらいが丁度いいかな……なんて本当に実現しそうな雰囲気で語り合った。
 佐奈にとって、その恋人との時間が全てで…その後は恋愛をしようという気持ちにすらならなかった。
 そういう意味では、佐奈は「心が不器用」な人間なのかもしれない。
 仕事はある程度のスピードでこなす事ができる。でも、自分の信じたものが消えてしまうという恐怖心は口にする事もできないほど彼女を打ちのめしていた。
「いずれ終わる恋なら、初めから無いほうがいい」
 そう言いながら佐奈は小説の中に理想の恋を求める。
 物語の中の主人公達は、悩んだり泣いたりしても、最後には必ず笑顔を取り戻していて……感情移入しやすい佐奈にとっては一緒に恋愛を成就させたような気分になるのだ。

こんな佐奈だけれど、喫茶店で時々見かける若者を見るのは楽しみにしている。
 まだとても若いように見えるその男性は、ブラックコーヒーを飲みながら佐奈と同じように単行本を読んでいる。
 佐奈と同じ理由でそこにいるのかどうかは分からなかったけれど、マスターへの応対の仕方や喫茶店で見せる仕草全てが好ましいものに見える。
 だからといって彼に声をかけようとか、仲良くなりたいとは思わない。恋のマジックを佐奈は知っている。
 相手を知りたくて、最初は尽きない話題で楽しい日々だろう。それで、少し時間が経過するとどちらかの気持ちが大きくなって、どちらかが少し相手の気持ちを重く感じたりする。その間に喧嘩もするだろうし、苦しくて、涙が止まらなくて眠れない日々も来るだろう。
 それでも続く未来があるならいい。
 でも、そんな保障はどこにもなくて、いつでも「別れ」という不安と闘わなくてはならない。
 恋愛を繰り返して楽しくしている友人もいる。失恋を次の恋愛へ繋げるパワーにしていける人もいるのも分かっている。だからこそ、佐奈は自分はやはり心がどこか壊れてしまったんじゃないだろうかと思っていて……この重度の恋愛恐怖症は簡単に治ってくれないみたいだ。

 読みかけの小説を閉じ、しばらく外を眺める。
 通りかかる人の中には笑顔で肩を寄せ合うカップルもいれば、小さな赤ちゃんを抱いて何か話しかけながら歩いている女性もいて。皆とても幸せそうに見える。
 その幸せはそれぞれが努力して勝ち取ったものだろう。色々苦労が裏にあっても、自分にとって一番大切なものは何なのか考えながら道を手探りで歩いている人も多いだろう。
(私の幸せは何かしら……)
 溜め息混じりに、そんな事を思う。
 子供は好きだ。色々な物事に偏見がなく、いつでも素直な感情をむきだしにしている姿は、憧れと言っても過言ではない。自分にもあんな時代があったはずなのに……どこで忘れてしまったのか。自分の欲しいものがどこにあるのか。自分の存在している意味がどこにあるのか。

「あの」

 突然男性の声がして、佐奈は驚いて顔を上げた。すると、眺めているだけでいいと思っていた男性が真面目な顔で立っていた。
「はい?」
「これ、落としてましたよ」
 差し出されたハンカチは、確かに佐奈のもので……お手洗いに行った時に落としたのだと気付いた。
「すみません!」
 真っ赤になって、そのハンカチを受取る。ここまで過敏な反応をする必要は無かったのだけれど、普段から男性との間には見えないバリアを張っている佐奈だ。こんな唐突に話しかけられると、パニックになってしまう。
「謝る事じゃないですよ……じゃあ、また」
 そう言って、彼はニッコリ微笑んで去ってしまった。
 佐奈は手にしたハンカチをギュッと握ったまま、しばらく動けなかった。久しぶりに会社外の男性と口を利いた。とても感じのいい、優しいトーンの声。佐奈の事を見知っているのか、「また」という言葉を最後につけていた。
 こっそり盗み見ていた事もバレているんだろうか。そう思ったら、恥ずかしくて顔から火が出そうになる。

 恋はしない。
 恋は危険。
 一度傷ついた心は癒える事を知らず、いつまでも佐奈の心でくすぶっている。
 なのに、好意というのは律している心とは裏腹に勝手に走り出す。
 自分から声をかけない限り、進展は無いだろうと決めつけていたけれど、意外なところで相手から声をかけられた。

 これが恋愛恐怖に悩む佐奈にとっての淡い、淡い、恋のはじまりだった。



 本社にいた新人が週一回のペースで佐奈のいる支店に出張してくる事になった。最近病気で休んでいる社員の穴埋めに回されたようで、本来ならもう一人人員を増やしてもいいくらいの状態だったのだが……会社の経営も厳しいらしい。
「今野くんて、入社式の時代表で挨拶してた子よね。超可愛い子だったよね?」
 一緒に働く佐藤佳奈美にそう聞かれ、佐奈はどうだったか記憶が無いと答えた。実際記憶に無かったし、新しい異性が入るというのは例え年下でもかなり緊張するものだった。
 ところが、その新人を紹介された時、佐奈は思わず声をあげそうになった。
「週一ペースで参お世話になる事になりました、今野恵一と申します。まだまだ分からない事ばかりですので、どうぞ色々指南ください。よろしくお願い致します」
 年齢は二十二歳のはずだったけれど、恵一の言葉はもっと年上を連想させるようなものだった。
 そして、佐奈が何より驚いたのは、相手があの喫茶店で顔を合わせる青年だったという事だ。
(スーツを着ているから、喫茶店で見かける時より大人びているけれど…間違いないわ)
 そう思って、佐奈はドキドキしつつも、相手は自分に気付かないといいなと思っていた。変に知り合いみたいな態度をされても困るからだ。
 恵一は思慮深かった。目線で佐奈の事は認識しているそぶりを見せたけれど、話しかけてきたりはしない。他の社員と熱心に仕事をしている。
 好感の持てる人材だというのは、こういうところからも分かってしまう。どうせなら、もっとガッカリしてしまいたいぐらいだったのに、佐奈の中で恵一への印象はどんどん上がる。
(彼は二十二……私は見かけは若くても、もうすぐ二十九歳。こんなに年上の私がこんな気持ちになっているなんて、迷惑なだけだわ)
 「好意」が「恋」に変化してしまわないよう、佐奈は自分の心を必死で抑える。
 でも、どんなに心が絶望の底にあろうとも、ほの暖かい空気に触れたいという欲求は生きている人間なら当然持っているもので。佐奈が恵一に惹かれたのは当たり前で自然の事だったと言える。
「結城さん、この書類はどのバインダーですか?」
 なるべく頭を仕事に集中させようとしていたところ、恵一がそう尋ねてきた。総務は佐奈と佳奈美二人だけで、佳奈美はちょうど席を外していた。
「あ、ええと。ちょっと待ってくださいね」
 不意打ちだった事もあって、佐奈は喫茶店で見せたあのうろたえぶりをまた披露してしまう事になった。バインダーの背表紙と恵一の持っているものを照らし合わせるだけの単純な作業だったのに、何故か文字が頭に入ってこない。
「ここですかね?」
 先に恵一の方がその背表紙と一致する場所を見つけた。佐奈は「そうです」とだけ答え、自分の仕事はもう終わりだ……と、その場を去ろうとした。すると、恵一は意外にもさらに佐奈を引き止めた。ちょうどお昼のチャイムが鳴り始めた頃だ。
「社員食堂、一緒に行ってもらえませんか?いまいち場所もよく分かってないので」
 かなりナチュラルにそう言われたのもあり、佐奈は警戒する間もなく「ええ、いいですよ」と答えていた。
 恵一は二人きりになっても佐奈に喫茶店での事は口にしない。
 その事にホッとし、一緒に定食を選びながら佐奈は一通り料金の支払い方とかを教えた。
「助かりました。本社とはやっぱりシステムが全然違いますね」
 そんな事を言い、恵一は二つ空いている席を見つけて先に佐奈に座るよう合図した。
 一緒に食べるつもりの無かった佐奈だけれど、恵一のさり気ないエスコートに負けたかたちになった。佳奈美が戻ったら、多分「ずるい!」と言われるだろう事が予想されたけれど、仕方のない展開だ。
 異性の前でご飯を食べるというのも、佐奈にとっては久しぶりで。思わず咀嚼したあと、どうやって嚥下するのかを忘れた。
「ん!」
 のどにご飯が詰まり、慌ててお茶でそれを流しこむ。
「大丈夫ですか?」
 何をやっても恵一の前では格好の悪い事ばかりだ。それでも「大丈夫です」と言い、少しずつご飯を食べ進める。雑談すら出来る状態ではなくて、佐奈は目の前の定食をたいらげる事だけに集中した。そんな彼女の様子を見て、恵一は無理に何か言ってくる事もなく、佐奈を気遣う様子は見せつつ黙って食事を続けた。
「じゃあ、お先に」
 恵一は先に食べ終えたようで、トレーを持って席を立ち上がる。佐奈はそれを見上げつつ、自分の行動が情け無い事に泣きそうだった。
 週末に会う相手だとお互い分かっている。
 偶然に職場まで一緒だったのに、それをチャンスにする事ができない。

 恋ってどうするんだったかしら。
 最初はおしゃべりして、親しくなって……手をつないだりするんだったかな?
 ううん。そういう具体的な事じゃない。
 相手との距離の縮め方。そういうのを私は忘れてしまった。

 残った定食を食べる気力を失い、佐奈は力なく食堂を出た。



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