二度めの恋は大胆に


4.戸惑い

 喫茶店で恵一からされた告白。
 佐奈はどう答えていいか分からず、「私、あなたよりずっと年上よ?」なんて口にしていた。
「それが何か障害になりますか?僕は何歳離れていても、魅力的だと思った人にはアタックする主義なので」
 こんな言葉で切り替えされ、ますますオドオドする佐奈。
 好意を持っている相手なのだから、素直に喜べばいいのだけれど……相手の幻想を自分が壊してしまわないかという不安が先に立ってしまう。
「私には…もう…」
 佐奈としては「もう恋をするつもりはない」と言いたかったのだけれど、恵一は違う意味に捉えた。
「あ、もう恋人がいらしたんですか?すみません…妹さんのお話を鵜呑みにしてました」
 かなりバツの悪そうな顔をして、恵一はペコリと頭を下げた。
 すぐに訂正すればよかったのに、佐奈は曖昧な笑みを浮かべたまま「いえ」とだけ言った。

 男女の深い溝は恐らく未来永劫埋められるものではないのかもしれない。
 同じ人間なのに、言わなくても通じるものと言っても通じないものがある。
 恋愛においては、その複雑さたるや……想像を絶する。こんなに幸福を味わえるものも無い気がするし、こんなに絶望に突き落とされる事も無い気がする。

 一度咲いた桜がある。
 佐奈には花を咲かせる立派な幹と土壌があるはずなのだけれど、それはたった一度の大失恋によって凍結されてしまった。いつでも冬の枯れ木のまま……芽を吹くことすらなかったのだ。

「会社でも、先輩として。お店にも時々顔を出してください……それ以上の事は求めませんから」

 謙虚な恵一らしい言葉だった。
 佐奈を本気で気に入っている様子なのは分かったけれど、恋の入り口というのはいつでも薔薇色に見えるものだ。よほど互いに思いやりを持たない限り、必ず衝突は訪れる。そこを乗り越えるパワー……それが佐奈の中には残っているとは思えないのだった。

 このままでは恵一は、この喫茶店に通うのも辞めてしまうような雰囲気だった。
 自分のせいで彼のくつろぐ時間を奪うのは申し訳無さ過ぎる。
「あの。読書がお好きなんですよね?」
 席を立とうとした恵一に、佐奈は思いきって声をかけた。
「ええ。あなたと同じように、休日に少しくらいゆったりしたいと思って…ここで読書したりボーっとしたりするのは好きですね」
 この言葉を聞いて、佐奈は喫茶店での知り合い程度の付き合いならできないだろうかと思った。
 自分に恋人などいないのだと言えばいいだけなのに……それがどうしても言えない。
 
 佐奈の様子を見ていて、恵一はもう一度座席に戻った。
「ここで雑談するぐらいは許されますか?」
 誰もが好感を持つ申し分ない身分の男性が、あり得ないほど低い姿勢で自分に優しい言葉をかけてくれる。
 正直、今までのトラウマを払拭してしまいそうなほど…恵一の言葉は甘かった。
 上辺だけの甘さではなく、佐奈の心を大切にしようという気持ちが伝わる優しさ。若いのに、ここまで他者を思いやれる青年は少ないに違いない。
「私もこの喫茶店で過ごすのは好きなので……一緒にお茶をしていただけるなら嬉しいです」
 精一杯の勇気を振り絞って、佐奈はそう答えた。
 すると、恵一は嬉しそうにニッコリ笑って「ありがとうございます」と言った。この顔は夜に見せるクロードの表情だ……女性を虜にする無垢な笑顔。

(恋愛とか結婚とか…それほど大げさに考える必要は無いかもしれない)

 距離を置いた事で、佐奈の中で少しだけ防御壁が崩れた。
 お気に入りの喫茶店で雑談する程度の仲なら、特別おかしい関係でもあるまい。この場面を会社の人に見られたら噂を立てられそうだけれど、何せ場末の目立たない喫茶店だ。バレる事はまずあり得ない気がした。



 週一回程度の雑談デート。
 男性との接触がほとんど無くなっていた佐奈にとって、これだけでも大事件で。その夜は眠れないほど興奮していた。
 クロード王子の顔をした恵一。
 会社で真面目なサラリーマンをこなす恵一。
 どれもステキだけれど、佐奈にとっては自然体を見せてくれる喫茶店での彼を一番好ましいと思っている。
 彼がお金持ちのエリートだという事は分かっている。
 だから、男女の付き合いに発展する事は避けたいし、その先の結婚なんて…微塵も考える余地はない。

 恋に臆病な者はこう考える。
 『少しだけ生活に潤いが出るなら』とか『本気にならなければいい』とか。そう言い聞かせる事で、関係が駄目になった時のダメージを和らげるように警戒している。
 でも、恋というのはそんな簡単にコントロールできるものではない。
 相手の魅力に惹かれるのは止められないし、離れていても気付くと相手の事ばかり考えてしまう。
 そして、気付くと自分はすっかり恋の虜になっている事に気付くのだ。
 傷を恐れていては恋愛はできない。
 逆を言えば、傷つきたくないなら一生恋なんてしないと決意すべきなのかもしれない。

(でも……私の中にもまだ女性としての本能は残ってる)

 佐奈は、恋愛に臆病になりつつ……恵一と近くなる事で生活に張りが出る事を多少喜んでいた。深い関係にはなるまいという決意は固かったけれど、あの優しい声を聞き、爽やかな笑顔を見られるなら……それだけで極上に幸せな時間が過ごせるはずだ。



 月曜日。
 本当は恵一の来る日は水曜日と決まっていたのだけれど、忙しい今の職場をフォローする為に、ちょくちょく支社にも来る事になっているようだ。
 出社してみると、すでに恵一は仕事にとりかかっており、佐奈を見ても「おはようございます」と、社員の顔を崩す事はなかった。
 会えると思っていなかったから、佐奈は心の準備が出来ていなくて、外からは分からない程度に呼吸が乱れるのを感じた。

「おはようございます」

 佐奈も恵一の言葉に応じ、そっけなく席に着いた。顔を合わせて数日の二人が不自然に仲良くなっていたら、すぐ社員に怪しまれるのは必須だ。
 こういうところも恵一は気が利いている。
 しかも、佐奈に告白したのは恵一だった。だから、佐奈に誤解されるような異性交流もあえて避けているようで……時々かかる誘いもそつなく断っている。

 遠慮ばかりしていたら、恵一がいずれ去ってしまうのは佐奈も理解している。
 好きな気持ちは、もしかしたら佐奈の方が大きいかもしれない。なのに、一歩が踏み出せない。

(一生独身でいいとは思わないけれど……)

 恵一の姿を見ているだけで切ない気持ちになる。
 あれ以来社員食堂で一緒になる事はなかったけれど、時々書類を頼まれたりする時、必要以上に緊張してしまう。

 明らかに佐奈は恵一を一人の男性と見ており、年齢の差などそれほど重要じゃないと思えるほどに好感を持っていた。

 この戸惑い。
 一度交際を断ってしまった手前、今更佐奈から告白する事も難しい。
 苦しくて切ない気持ちを抱えたまま、佐奈は自分の幸せを少しずつ真剣に考え初めていた。


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