二度めの恋は大胆に


2−1.約束

 冷たい雨が二人の心を温もらせたあの日から数日、また恵一が出張してくる水曜日がやってきた。佐奈はどんな顔をしていいのか……かなり悩んでいる。
 だいたい、二人はお互いの携帯番号もメールアドレスも教えあっていないのだ。佐奈からはもちろん聞けなかったし、恵一は確実に佐奈に会うタイミングが出来ただけで満足のようだった。

「少しずつでいいんです。あなたと会う度に一ミリでも近づけるなら……それで嬉しいですから」

 いまどき、こんな若者いるだろうか。
 恋はフィーリングっていうものもある。出合ったその日のうちに深い仲になるカップルもいるだろうし…それが間違った事でもない。だから、恵一という人間の恋の仕方が特殊なのかもしれない。
 それとも、恋愛に臆病そうな佐奈の気持ちを推し量った結果なのだろうか。
 とにかく、周囲で見ていたらじれったくなるほどスローな恋だ。

「おはようございます!」

 十時五分前。元気な挨拶と共に恵一が出社した。
 彼は最初に本社に出勤し、あちらの仕事を調整してから支店に来るという多忙な状態なのに……表情はいつでも余裕に満ちている。
 その笑顔をちょっと盗み見て、佐奈は自分が高校生みたいにときめいているのを感じた。
 恵一は、年下で育ちのいい坊っちゃんで……でも、人間に対して偏見を全く持っていない人のようだ。佐奈をいいと思った理由も、とてもシンプルで普通なら見逃しそうな事がきっかけだったようだ。

「いつもマスターに笑顔で気持ちのいい挨拶をするでしょう?」

 こう言われて、自分がそんなに特別な事をしたのかな…と、佐奈は不思議に思った。でも、恵一の暮らす世界では、裏表の無い笑顔を見たりお世辞じゃない言葉を聞いたりするのは貴重らしく……佐奈の少し地味だとも言える正直な反応が好ましく見えたようだ。
「それだけじゃなくて。雰囲気とか…仕草とか…とにかく、言葉にはし尽くせない部分で色々惹かれたんです」
 真っ直ぐな目でこんな告白をされ、佐奈はどうしていいか分からなくて顔を赤くするばかり。
 付き合ってると言えるのかどうか怪しいくらいの二人だけれど、互いの事を思いやる気持ちは人一倍で……やはり会社では親しげな口を利いたりする事はなかった。

「結城さん、会議室にお茶五つお願いするよ」

 上司からの命令だから、お茶出しくらいで佐奈はどうとも思っていなかった。なのに、そのお茶出しの用意を恵一が進んでやり始めたから驚いた。
「いいですよ。私がやりますから!」
 男性が給湯室にいるのを見るのは不自然で、何だか申し訳なくなる。
「お茶を出すのは女性がやった方が雰囲気がいいので賛成なんですが、それなら用意ぐらいは男がやればいいと思いませんか?」
 そう言った恵一のスーツから爽やかな洗濯のりの香りがする。それぐらい二人は狭い給湯室で近い状態なのだ。
 そのドキドキを抑えつつ、佐奈は茶葉を探す恵一の為にある場所を教えた。
「実は、僕…お茶の稽古もしてきたんで。結構美味しいものを出せると思いますよ」
 そう言って、恵一は軽くウィンクした。

(だ、だめ……王子オーラがまぶしすぎて、倒れそう)

 佐奈は恵一が五つのお茶を綺麗に急須から注がれるのを黙って見ていた。こんなフワフワした状態では、運ぶ途中で転んだりしそうだ。
「はい。少しだけ結城さんのぶんも入れておきましたよ」
 いつの間に入れたのか、別のカップに佐奈用のお茶も用意されていた。
「いいんですか?」
「お茶は心を落ち着けますから……これを飲んでから会議室に行かれたらいいですよ」
 佐奈が動揺でフラついているのが分かったのか、恵一はそんな言葉を残して給湯室を出て行った。
「……」
 ぼうっとしたまま佐奈は言われた通り彼の入れたお茶を口にした。
「美味しい」
 素直にそう思った。
 苦くもなく、ぬるいわけでもなく…安い茶葉なのに、最大限に美味しさを引き出している。
 恵一が言ったように、お茶を飲んだら心が落ち着いた。
「スーパーマンみたいな人だわ」
 お盆に会議室へ運ぶお茶をのせながら、彼に何か弱点は無いものかという変な気持ちになる佐奈。なぜなら、このままなら佐奈の方が圧倒的に恵一を好きになってしまいそうだからだ。
(恋愛は素敵だけれど、振り回されるのは嫌)
 もうとっくに恵一は佐奈の体全てを支配してしまうほど影響を与えているのだけれど、そこを認めてしまったら溺れてしまいそうで……まだ少しくらい余裕があるのだと思いたい状態。

 たくさん好きになった方がつらくなる。
 たくさん愛してしまったら、重くなる。
 相手の色に染まった自分は自分じゃなくなる。

 恋の魔力を一度体験した佐奈にとって、これから自分がたどる道が少し見えているのだ。
 恵一は前の彼氏とは別人で、同じ道を歩くとは限らないけれど。佐奈の心は初恋の時と同じような状態なのだ。
 だから恐くなる。
 自分は一度男性を愛してしまうと、依存してしまう傾向がある。相手が重いと感じてしまうほどに、頼ってしまう。一人でいればそれも諦められるけれど、頼れる存在がいてくれたら…どこまでもそれに甘えてしまう。
 佐奈は自分の恋愛傾向を良く分かっている。
 一見ドライに見えるけれど、内面はとても繊細で……一度受けた傷は決して癒える事を知らない。それだけ相手を深く…深く愛してしまう証拠なのだけれど。妹の瑠奈のように失恋を次の恋の糧に出来るような器用さは持っていないのだ。
 そういう意味では、佐奈は女性的でありながら思考的には男性っぽいのかもしれない。

 女性は失恋を忘れて「上書き保存」。
 新しい恋人ができれば、全てが美しい思い出。本当に器用なものだ。

 一方、男性は失恋しても過去の恋人は消えない。
 要するに「別名保存」だ。
 今愛している相手がいても、過去に愛した女性が消える事はないのだ。
 
 新しい花を咲かせる幹を持っていても、咲かせる花は毎年違うのが女性。
 毎年同じ花を咲かせ、いつでも過去に思いをはせるのが男性。

 一般にそう言われているけれど、佐奈の恋愛傾向は男性的。それに対して、「恋はいつでもできる」「一度終わった恋でもまた始まる」と考える恵一は女性的なのかもしれない。



 お茶出しひとつにしても、独特の価値観でスマートに動く恵一の株が上がった事は確実で。
 その日の帰り道、佐奈は水曜日が終わってしまった事を悲しく思っていた。
(もっとお話ししたい……もっと近くにいたい。毎日会いたい)
 本来甘えたがりの佐奈だ。
 恵一が近くいながら声も満足にかけられない会社での時間は、幸せであり、悲しくもあった。

「結城さん」

 とぼとぼと暗がりを歩いていたら、ふいに車が停まり……運転席から恵一が顔を覗かせていた。

「今野くん!?」
「こんな暗いところ一人で歩いたら危険ですよ。よければ、助手席に乗ってください」
 運転席からバンッと素早く出てきて、彼はうやうやしく助手席のドアを開け……佐奈に乗るよう手をさしのべた。
 まるで、本当に王子様に迎えに来てもらったような気分だ。
 佐奈は言われるまま助手席に座り、ほっこり暖かい車内の空気にほうっと心が落ち着くのを感じた。
「よろしければ、お宅まで送りますよ。そういえば……まだ結城さんの事、僕は何も知らないんですね」
 運転席に戻ってから、恵一はシートベルトをかけながらそんな事を言った。
「私も……今野くんの事まだ何も知らないわよ」
「ですね。お互いもう少し距離を縮めてもいいかな……って思うんですけど」
 すーっと走り出した車。歩くスピードではあり得ないほど早く景色が流れてゆく。
 佐奈は自分のアパートがある最寄駅まででいいと言ったけれど、恵一は嫌じゃないのならアパートまで送らせて欲しいと言った。
「水曜日と日曜日しか会えないじゃないですか……それが寂しくて」
 土曜日も会おうと思えば会えるけれど、佐奈が遠慮しているから……そうはなっていない。
 恵一も実はもっと佐奈と会いたいと思ってくれていた事を知って、かなり佐奈は嬉しく思った。そして、「もっと会いたい」「会えなくて寂しい」と、素直に言ってくれる恵一を可愛いなと思ったのも事実だ。
 大人っぽくませた部分と、まだ少年らしい雰囲気を両方持った恵一は……知れば知るほど魅力的な人間なのだと再認識させられる。

「今週……お店に行きます」
 佐奈はとっさにそう口にしていた。一番早く会える日でも、土曜日しかないというのはやはり寂しいけれど……佐奈にはこの選択しかできない。
 でも、恵一はちょっと思いがけない反応をした。
「ありがとうございます…でも、お店だとお金もかかりますし。それに、指名されてもあまり長い時間はお相手できないので」
 断られたと思い、佐奈は「ならいいです」と言おうとしたのだけれど、恵一はすぐにそれを撤回するような事を言った。

「クロードを独り占めする気持ちはありますか?」
「え?」
「土曜日……お店に入る前。個人的に会えませんか?」

 恵一の顔は真面目そのもので、本気で佐奈を誘っているのが分かった。
 お互いの携帯番号もまだ知らないまま。
 そんな二人が、また少し近付くシチュエーションが訪れた……



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