課長が私を好きなんて!


2 上の空

 土曜日の朝……
 昨日の夜はほとんど眠れなかった。榎さんに話かけられて、あたふたしている夢を見た気がする。
 軽く頭痛のする状態で時計を見ると、約束の一時間前だった。
「やばい!」
 移動時間を考えると遅刻ギリギリだ。お洒落したかったのに、ほとんど何もできない。寝坊で遅刻なんて、最初から印象が悪過ぎる。
 慌てて着替えを済ませ、お化粧も猛スピード。ほとんど何も考えずにアパートを飛び出した。
 カバンの色と洋服が合ってないとか、サンダルにしようと思っていたのにいつものクセでパンプスをはいてきてしまった……とかに気が付いたのは、電車に乗ってからだった。
 決して「お洒落で素敵な人」ではないけれど、特別おかしな格好じゃないからまあいいか。
 とりあえず時間厳守を最優先にした私は、何とか遅刻を免れた。
「こ……こんにちは」
 息が苦しくてうまく言葉が出ない。
 遅刻しそうだったのがバレバレだろう。
「美羽がこんなギリギリなのって珍しいね」
 友人の佐々木理恵がそう言って笑っている。
「ちょっと準備とか、手間取っちゃって」
「そうなんだ。あ、坂本くん。こちらが私の短大時代の友人、中田美羽です」
 坂本くんと呼ばれた男性は、メガネをかけたシンプルな服装の優しそうな人だった。
 同い年だと聞いていたけど、もう少し若い感じがする。
「初めまして。佐々木さんの同僚の坂本一平です」
 笑顔が非常にマイルドな好青年だ。
 手を差し出され、私もそれに応えて「初めまして」と小さく言った。
 最初から二人きりはつらいだろうからってことで、理恵が間に入って私と坂本くんの会話を取り持ってくれた。
「坂本くん、今日は無口だね。普段はもっとギャグとか連発するじゃない」
 理恵がそう言って水族館のチケットを買っている彼の肩をパシッと叩いた。
「俺だって緊張することあるんだって。叩くなよ」
「美羽にいい所見せようとして緊張してんの? 最初からありのままを見せた方がいいよー」
「別に普通だよ。そんなこと言ったら、普段の俺が相当おちゃらけてるみたいに聞こえるだろ?」
 二人のやりとりを見ていて、私はププッと笑ってしまった。
 私より理恵の方が、坂本くんにはお似合いなんじゃないかな……とか思った。
 呼吸が合っている。でも、理恵は超メンクイだから、坂本くんは好みじゃないのかもしれない。

 薄暗い水族館の中を見ながら、私たちはブラブラ歩いた。
 坂本くんは物知りで、魚の名前とか、どういう水温の場所に何が住んでるのかとか……やけに詳しかった。
「魚が好きなんですか?」
 私がそう言うと、彼はちょっと首をひねった。
「いや、好きってほどでもないかな。食べるのは大好きだけどね」
「私も食べるのは好き! とくにさっき泳いでいたサンマとか……思わず塩焼きにしたいと思っていました」
「俺も思った」
 そこまで言って、私たちは顔を見合わせて笑った。
 いい感じだ。この人と一緒にいると楽な感じがする。
 理恵とのやりとりを見ていてもわかるように、人を選ばずナチュラルに愛想がいい。
 社会人としての経験もある程度積んでるから、面白い人だけど妙に浮いてるところもないし。
 でも……この「でも」のせいで、私の心はまとまらない。
 昨日の榎さんの微笑が頭に焼き付いて離れない。
 「笑顔が素敵ですね」と言った声が、いつまでも耳に残っていている。
 あまり告白とかされたことがないから、自意識過剰になってるのかな。
 あの超真面目人間の榎さんが、何故私に告白したのかわからない。
 気に入られたポイントは本当に「笑顔」だけなのかどうか……それも気になってしまう。
 やっぱり冗談だったんじゃないかな。
「美羽! どうしたのよ、ボーっとして」
 私たちは足を少し休めるために、フードショップで座っていた。
 理恵と坂本くんが会話している最中、私は榎さんのことを考えていた……
「何でもないよ。ごめん」
「ちょっとさあ、今日の美羽おかしいよ。上の空っていうか」
 ちょうど坂本くんがトイレに立った隙を狙って、理恵は私にそう突っ込んできた。
「ごめんね。別に何もないけど……坂本くん、気分悪くしてないかな」
 明らかに今日、自分が上の空なことを自覚していたから、私は素直に謝った。
「あの人は天然だから、物事を悪い方には考えないんだ。そこがいい所なんだけど『真剣味が感じられない』とか言われて、友達どまりなんだよなーって嘆いてるよ」
「そうなんだ」
 言われてみて、確かに坂本くんてそういう感じだなと思った。
 すごく裏表のない「いい人」なんだけど、そこから先にはなかなか進まなさそうなタイプっていうか……
「どうする? 私はこのまま帰っても大丈夫かな」
 まだ二時なのに、理恵はそんなことを言い出した。
 榎さんと二人きりになるよりは数倍マシだけど、坂本くんともどうやって間を持たせたらいいのかわからない。
「大丈夫、彼は結構遊ぶ場所知ってるし。それなりに楽しませてくれるって」
 そう言って、トイレから戻った坂本くんに「私はお邪魔なので帰ります!」と言い残して去ってしまった。
 坂本くんはそれで慌てるような様子はなくて「何かせわしない人ですよね、佐々木さんて」なんてボソッと言った。

 結局、坂本くんと二人の時間は夜の七時まで続いた。
 理恵が言った通り、彼は美味しいデザートのお店とかゲームセンターとかいろいろ退屈しないで過ごせる場所に連れて行ってくれた。
 確かに楽しかったし、嫌な思いは全然してないんだけど……どうにも「友達といる」という感覚から抜け出せなかった。
 まだ会った初日だし、恋愛はいきなり燃え上がるものばっかりじゃないよね。
 私はちょっといろいろ贅沢に注文を付け過ぎなのかも。
 一緒にいて楽で……気取らなくていいんだから、坂本くんは私の必要条件を満たしている。
「今日はありがとう。すごく楽しかった」
 駅の改札に到着し、お互い別々の電車に乗るからそこでさようならということになった。
「こちらこそ。中田さんて可愛いから俺なんかでいいのかなあって不安だよ」
「いえいえ。そんな大したものではないですよ」
 おばさんっぽいリアクションをしてしまった。
 私は褒められるとテンパってしまうという情けない性質があるのだ。それは昨日のことでも証明されている。
「これから、少しずつ付き合ってもらえるかな」
 今まで笑顔だった坂本くんが、ちょっと緊張した顔でそう言った。
 二日連続で告白されてしまった。
 本来なら、坂本くんの申し出に迷わず「YES」って答えられたはずなのに。
 なのに……、私は答えるまで少し時間がかかってしまった。
「中田さん?」
「あ、うん。そうだね。たまに会ってご飯とか食べたり……少しずつね」
 私は今ここで、正式にお付き合いの返事をするのではなく、「友達から始めましょう」というものに留めておきたかった。
 そういうニュアンスが坂本くんにも伝わったようだ。
「急がないから。暇があったら遊んでやる……くらいの気持ちでいいよ」
「ありがとう」
 坂本くんと別れ、帰りの電車に乗る。
 いい人だった。
 榎さんのせいにするのは申し訳ないけど、あの人の昨日の言動さえなければ私は坂本くんにもっと興味を持っていたかもしれない。
 なのに、頭の半分を、何故かあの人が占めている。
 おかしい。
 どうも告白されたという事実が、私を妙に浮つかせている。
 きっと榎さんと一緒にいたって会話なんか一つもなくて、居心地が悪くて……気まずいに決まってる。そう思うのに……月曜のことを考えると、胸がドキドキしてしまう。
 どういう顔をすればいいのかな。普通に挨拶できるかな。
(自意識過剰もいい加減にしなさいよ)
 自分で自分に突っ込みを入れてしまう。
 空席があったのに、私は何だかソワソワして座っていられなくて立っていた。

 数駅が過ぎて、電車は会社の最寄駅にとまった。何気なく乗り込んでくる人を見ていたら、スーツ姿の榎さんが目に入った。
 え、何で今日スーツなの? 彼ってもしかして……休日もこうやって出勤してるのかな。
 上司のスケジュールがまったくわからない。
 それぐらい私は、彼の勤務状態にも疎かったということだ。
(ああっ……昨日の今日で顔を合わせたくない!)
 そう思って、私は気付かないふりをして窓の外を見ていた。
 車内は混んでいたし、私が乗っているのなんて気付かないだろう。
 過ぎていく夜の街明かりをじーっと見ていると、真後ろに誰かが立ったのがわかった。
(痴漢?)
 とっさにそんなことを思って、睨みつけようと後ろを振り返った。
 するとそこにいたのは、私の怖い顔を見てちょっと驚いた顔をした榎さんだった。
「え……榎さん!」
 私は声が上ずってしまうほど驚いた。
 まさか、彼の方からこっちに近付いてくるなんて想定外だ。
「こんばんは、偶然ですね」
 昨日のことなんかまるでなかったかのように自然な挨拶。
「こ、こんばんは。……今日土曜日ですけど、出勤されたんですか?」
「ええ、ちょっと残務がありまして。来週の月曜から出張ですし……いろいろ」
 多くは語らず、彼はそう言ったきり私とは反対側の窓辺に立ち、外の景色を見ている。
 私がどこへ行ったのかとか、何をしたのか……というプライベートな部分にはまったく立ち入らない。本当にただ挨拶をする為だけによってきたようだ。
 「残務」って、もしかしたら昨日早く帰ってしまったせいではないかしら。
 私はそんな気がして、少し申し訳ない気分になった。
 しかも月曜から出張というのも、私はチェックしていなかった。
 自分の上司のスケジュールぐらい頭に入れておきなさいよって思うんだけど、彼は常に出かける前日とか当日に詳細な予定を紙に書いて渡してくれるから、ついそれに甘えている。

 十分後、乗り継ぎの駅に着いた。
 何も会話らしいことができないまま「では、失礼します」と言って、ホームに降りる。
「さようなら。暗いので気をつけて」
 発車ベルが鳴る中、榎さんはそう言ってまたあの微笑を見せた。
「あ、あの……榎さん!」
 ドアが閉まってから、私は何故か彼を呼びとめようとしていた。
 お夕食一緒にどうですか……とか言いそうだった。
 でも、電車はそのまま無情にも榎さんを運んでいってしまった。

 階段をのろのろ歩きながら、混乱した頭を軽く叩く。
 坂本くんと会ってきたばかりだというのに、すでに私の頭の中は榎さんのことでいっぱいになっていた。
『暗いので気をつけて――』
 また彼の声がリフレインする。
 やだやだ! 私、どうかしちゃったんだろうか。榎さんが月曜日から出張だと聞いて……すごくガッカリしている。あの微笑をまた見たいって思ってしまっている。
 その考えをかき消すように首をふり、決意を新たにする。
 私が付き合うのは、坂本くんのような一緒にいて楽な人なんだってば! 榎さんは年が離れ過ぎているし、無口だし、面白くないし、正体不明だし……
 私の好きな人の条件には、かすりもしない人だったはずでしょ?
 なのに、何なの……このドキドキは。
 これでは、まるで恋をしているみたいじゃないの!!


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