課長が私を好きなんて!
3 お誘い
榎さんが言った通り……月曜日、彼は出張だった。
パソコンのメールに、水曜日までの詳細な仕事の指示が届いていた。
「きちんと仕事のことだけ書かれている……」
丁寧で親切な文章。
いつも通りのことなのに、そのどこかに少しでも親しみが出てないか探してしまう。
「私にだけの、ちょっと特別な言葉が欲しかったなあ……」
別に『会えなくて寂しいです』なんて言葉じゃなくていいの。『何かあったら小さなことでも連絡ください』とか……私の声が聞きたいのかなって少しでも思わせるような文章があったら、すごく嬉しくなって、舞い上がってしまっていただろう。
だからこの味気ないメールを見ると、ちょっと寂しい。
水曜日の午後に戻ってくるから、今日と明日は顔を見られない。
そう思っただけで胸が痛い。衝動っていうのかな……「会いたい」って……自分の心が榎さんに向かって叫んでいる気がした。
彼は普段からとても忙しくて、デスクにいる時間はあまりない。
週に一回は国内出張があって、海外出張も定期的に入ったりする。英語が堪能みたいで、様々な方面で活躍しているって聞いた。
そして、海外事業のパートナーで、彼とちょっと噂になっている女性がいる。飯塚早苗という、キャリアウーマンだ。
彼女は海外から輸入している製品のマニュアルを翻訳する仕事をしている。
年齢は三十一だったか三十二だったか……それぐらいだ。榎さんのサポート歴も長く、二人の関係はずっと怪しまれていた。
「だいたいさ、いい年齢の男女があれだけいつも一緒に仕事してるんだから、何か生まれない方がおかしいよね」
化粧室で一緒になる石原さんは、雑談で良くこの話題を出す。
それまで私は何となく「そうかもしれませんね」とか「お似合いですね」なんて相槌を打っていた。でも、今日はそんな相槌を打つ気にはとてもなれなかった。
「二人とも仕事中心の人たちだから、男とか女とか……そういう次元を超えてるんじゃないですかね」
こんなことを言ってしまった。私にしては、ちょっときつい言葉だったから、石原さんも少し驚いている。
どうしちゃったんだろう。
私……榎さんのことを異常に気にしている。
「私って、身近な人のロマンスが気になってしまうのよね。飯塚さんは多分、課長のことを気にしているはずなのよ」
私の言葉をスルーして、彼女はまだ二人の関係を怪しむような発言を続けた。
まあ……冷静な時だったら、この意見に私も賛同していたかな……とは思う。
でも、今はどうしても否定したい気分なのだ。
「数年仕事を一緒にやっていてとくに進展がないということは、少なくとも榎さんは飯塚さんをどうこうは思ってないんじゃないかしら?」……って、言いたくなる。
「課長が飯塚さんをエスコートしてる姿とか想像つかないけど、デートするとしたらどういうところに行くのかしらね」
私が適当に話を切り上げようとしているっていうのに、石原さんはまだ榎さんと飯塚さんのロマンス妄想を語る。
飯塚さんが榎さんを気にしているのなんて、誰が見てもわかるけど……榎さんの気持ちはわからないじゃない。
石原さんの妄想話に過敏に反応してしまった自分に気付き、榎さん不在の今日と明日、すごく苦しくなりそうな予感がした。
何で私は榎さんの真面目な告白を笑ったりしたんだろう。ひどく失礼だった気がして、後悔で胸がギュウっと痛くなる。
「あれ?」
カバンの中から、メールの受信音がした。坂本くんから携帯に『次の約束はどうしようか?』という内容のメールが届いていた。
話が合うし、特別嫌な気はしなかった……むしろ自分の好みにピッタリな人だったと思う。でも、なぜかまた会いたいって思わない。
やっぱり会ったその日に、恋愛感情の欠片でも感じなければ……先に進めないんだろうか。
今の自分の気持ちに正直になるとすると……せっかく紹介してくれた理恵には悪いけれど、 坂本くんと男女の付き合いはできないかもしれない。
でも、彼からのメールを見ると……申し訳ない気持ちになる。すごく気を遣ってメールを打ってくれたんだなとわかる文章だからだ。すぐに断りのメールを入れるのもためらわれる。
もしかしたら、榎さんのいない今日と明日で、私の気持ちが彼から遠ざかるかもしれない。坂本くんの方に傾く可能性だってゼロではない。
そう思って、とりあえず「予定がわからないから、また連絡します」という返信メールを打った。
月曜日はどうにか平常心を保って仕事ができた。
でも、火曜日になると早く明日にならないかな……と思うようになった。
何度時計を見ても、五分ずつぐらいしか進まない。
「はぁ……時計が壊れてるように見えるのは私だけ?」
資料のリスト作りをしながら、無意識にため息が出る。
「どうしたんだい、中田さん」
部長の机まで私のため息は聞こえていたらしい。まるで、仕事がつまらない……みたいな態度に見えちゃったかな。
「いえ、何でもありません。ちょっと肩が凝ったなって思って……少し休憩いただきますね」
その場しのぎの苦しい言い訳をして、私は席を立った。
休憩室に入り、コーヒーでも飲もうと自動販売機を眺める。
「……」
こんな時にも私の頭の中は、榎さんのことでいっぱいだ。
榎さんの好きな「グリーン茶」が品切れになっている。
「早く追加してあげないと、明日彼が飲みたいと思った時に買えないじゃない」こんなことを考えてしまう。
もう自分の気持ちを認めるしかないかな……
どこまで好きなのかはわからないけど、私は明らかに榎さんを異性として意識している。
部下に直接「付き合ってください」と言ったのは、彼なりに相当考えた末のことだったと思う。
なのに「冗談ですよね」なんて言ってしまった。
それを断りの言葉だと解釈した後でも、まったく傷付いた表情を見せずに「笑顔が素敵ですね」と榎さんは言ってくれた。
自分が逆の立場だったら、もう会社に行くのも嫌なくらい傷付いたに違いない。
次の日に電車で顔を合わせても「こんばんは」なんて声はかけられない……絶対に。
堅物で、そこが苦手だなと思っていたけれど……四十歳で魅惑的な男のオーラを出している人だ。あれが大人の男の余裕なんだろうか。
当然、これまでに何人かの女性と付き合ったことくらいはあるだろうから、ああいう場面にも案外慣れていたりして。
でも、彼が結婚してもいいと思える人には今まで巡り会っていないのだろう……。モテモテだけど、気軽に異性と付き合う人にも見えないし。
だから、どうして私に付き合って欲しいなんて言ったのか……やっぱりわからない。
でも……ここまで気になるんだから、私からもう一度、彼に接近してみるしかないよね。
結局、水曜の午前まで私はモンモンと榎さんが戻るのを待っていた。
そして、とうとう水曜日のお昼。
ご飯もそこそこにしてフロアに戻ると、今帰ったばかりという様子の榎さんが机の上を整理していた。
「あの……榎さん、お疲れ様でした」
私は自分の席に戻りながら、そう声をかけた。
昼ご飯に出ていて、他の社員は誰もいない。つまり、二人きりだ。
「中田さん、お疲れ様」
それだけ言って、彼はまた下を向いて作業を続けている。
やっぱり、こんな二人きりのシチュエーションでも雑談なんかする人ではないのだ。
わかっていたけど、私は多少強引に話しかけた。
「出張いかがでしたか? 結構寒くなってきましたし、体調とか大丈夫でした?」
すると榎さんはフッと顔を上げて、何か思い出したように床に置いてあったカバンを開けた。
そして中から何か紙袋を取り出して、こっちに歩いてきた。
「これ、中田さんへのお土産です」
「え、私に?」
彼は職場用に大きなお菓子は買ってくるけど、部下に個人的なお土産を買ってきたことは一度もない。
なのに今回は私にだけ……お土産を買ってきてくれた……?
何だか嬉しくなって、すぐにその紙袋を開けてみた。
「あ、『よーじや』のポーチセットですね!」
出張先は京都だった。
個人で旅行に行った時、私はこの「よーじや」で油取り紙を買った。でも、ポーチセットは高かったから諦めたのを覚えている。それが思わぬ形で自分の手の中に……
「嬉しいです。ありがとうございます!」
これを買うためにあの女性ばかりのお店の中に彼が入ってくれたのかと思うだけで、涙が出そうになっていた。
「喜んでいただけて良かった。京都は素敵なものがたくさんあるので、お土産を一つに絞るとなると迷いますよね」
榎さんはそう言って、また自分の席に戻った。
これは……期待していいのかな。
今から私が彼を食事に誘っても、断られたりしないかな。
「榎さん!」
私が結構な緊張ぶりで呼んだから、榎さんの書類をまとめていた手がとまった。
「……どうかしましたか?」
私の気迫に、彼もやや戸惑っている感じだ。
「あの、お土産のお礼に……時間のある時でいいので、お食事とか一緒にいかがですか」
自分からこんな誘い文句を言うのは何年ぶりだろうか。
あまりにも言い慣れていなさ過ぎて、言葉が滑らかに出てこない。
「ええ、いいですよ」
私があたふたしていると、ほとんど間を空けず彼はOKの返事をくれた。
「ありがとうございます。わ、私はいつでも大丈夫なので、榎さんの都合のいい日で……」
「でしたら、今夜がちょうど都合がいいですね。明日の夜から、また忙しくなりそうなので」
驚くほど即決だ。
私は自分から誘ったくせに「えー! いきなり今日ですか?」と、心の中で慌てていた。
「わかりました、では今夜で。場所はお嫌いなものがないようでしたら、私のオススメのお店はいかがですか」
私には行きつけの洋風居酒屋さんがある。
大人なムードでジャズも流れているし、人がごちゃごちゃしてなくて落ち着ける場所だ。あそこなら、榎さんも入りやすいと思う。
「ええ、僕はどこでも構いませんよ。六時半までには仕事を終わらせますが、少し待っていただくかもしれません」
「私は適当に休憩室ででも待ってますから、大丈夫ですよ」
こんな具合に、私は自分から榎さんを食事に誘ってしまった。
その日の夕方、私と榎さんはまた二人で職場を出た。
外のひんやりした風に当たったとたん、「寒くありませんか?」とまた榎さんは聞いてくれた。
「大丈夫です」
意識し過ぎているせいで、私の言葉も短くなる。
本当にこの人は私を思ってくれているのかなあ。
広い肩幅の男らしい後ろ姿を見て、何だかやっぱり信じられない気分になる。
苦手だと思っていたのに……告白されたからって、私はどうしてこんなに榎さんにトキメいてるんだろう。
いただいたお土産のことから考えても、やはり榎さんは私を少し特別に思ってくれているのはわかった。だから、こうやって食事に誘う勇気も出せた。
ただ、ここからどうやって話をすればいいのかわからない。
「道はこっちでいいんですか?」
私がノロノロ歩いていたから、先を歩いていた榎さんが足をとめて振り返った。
もう真っ暗で、彼の表情はほとんど見えない。
「はい。このまま真っ直ぐで。大きな赤い看板が見えるのでわかると思います」
私が場所を教えなければと思い、歩調を速くして彼の横に並んだ。
「僕、歩くの速いですか」
そう言って、榎さんは自分の歩調を緩めた。
「いえ、私が遅いんです。だいたい動作はいつもノロノロなので」
「そんなことありませんよ」
フォローの言葉を追加しながら、彼は私のちょうどいいスピードまで歩くテンポを落としてくれた。
こういうさり気ない優しさって……結構嬉しいものだ。
言葉は少ないけれど、何かと気を遣ってくれている榎さんの態度が、とても好ましく思える。
その時……並んで歩いていた彼の手が、一瞬私の手に触れた。
「あ、ごめんなさい!」
「いえ。ちょっと近過ぎましたね」
お互い照れてしまったのが空気でわかった。
中学生みたいだ……私たち。三十歳になろうという女と、四十の男が、並んで歩くだけで顔を赤くしている。
やっぱり、これは恋なのかな。ほんの一瞬触れただけの手にとても温かいものを感じ、私は あり得ないほど心臓がドキドキするのをとめることができなかった。
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