課長が私を好きなんて!


4 言えない

 職場の飲み会で一緒になることはあるけど、こうやって会社の人と二人きりで飲むなんて初めてだ。
 榎さんは、見やすいようにメニュー表を差し出して「どれがオススメなんですか?」と聞いた。
 いつも友達とくる時は好きなものをドンドン頼むんだけど、相手が榎さんとなるといろいろ気を遣ってしまう。大食いの女だと思われるのも嫌だし、マナーに気を遣うような繊細なメニューも避けたい。
「榎さんは何がお好きですか?」
 結局、彼にメニューを決めてもらうことにした。
 彼はそつのないメニューを何種類かチョイスして店員さんにそれを伝えた。榎さんが好きなものというより、女性が好みそうなものだった。
 飲み物はカルパッチョに合わせて、冷たい白ワインを頼んでいる。
「今注文したので大丈夫でしたか?」
 一通り注文を終えて、榎さんは私にそう尋ねてきた。
「はい、どれも美味しそうですね」
 本当に私はここの料理がすべて好きだから、どれを頼んでもらっても問題ない。
 飲み物と食べ物が運ばれてくるまで、日頃気になっていることを思い出して聞いてみた。
「あのー、榎さんって毎日お昼はどうなさってるんですか?」
 私の質問に、榎さんはきょとんとしている。
「お昼ですか? ……僕は、毎日蕎麦を食べてますよ。お昼にあまりたくさん食べると、午後の仕事がうまく回らなくなるので」
「そうなんですか」
 蕎麦……何て渋いんだろう。緑茶好きな彼にすごくマッチしている。
「毎日だと飽きたりしませんか?」
「いえ、好きなものは毎日でもまったく飽きませんよ。元来僕は一つのものが気に入ると、そればっかりになるんです。白いご飯に飽きないのと一緒ですよ」
 彼の食べ物に対する意識がわかった。
 毎日蕎麦……これはちょっと無理だけど、白いご飯が飽きないというのはわかる。
「何かと和風ですよね、榎さんは」
 そんな彼を、私は洋風居酒屋に連れてきてしまった。大丈夫だったかな……こんな些細なことでも、すぐ不安になってしまう。榎さんのような大人の男性とオフで会うというのは、私にとって初めての経験だから。
 私の心配をよそに、榎さんは運ばれてきたボトルワインを私のグラスに注ぎながら少し笑った。
「食生活は確かに和風かもしれませんね。でも、こうやってたまに洋食をいただくのも決して嫌いではないですよ。逆に新鮮で楽しいです」
「そうですか。あ、榎さんの分は私が注ぎますよ!」
 気の利かない私でも、上司に手酌させるわけにはいかないと思い、慌ててボトルを彼から受け取った。
「ありがとう」
 お互いのグラスに綺麗な白ワインが注がれ、「お疲れ様です」なんてつぶやきながら、小さく乾杯をした。
 口の中に甘くてほろ苦いワインの味が広がる。
 冷えているからすごく飲みやすくて、これはどんどんいけてしまうかも……という感じだ。
「中田さんはワインがお好きですか?」
「はい。お酒の中ではワインが一番好きですね。チーズとクラッカーさえあれば、いつまでも飲んでいられます」
 ビールはそんなに好きじゃないけど、ワインは大好きだ。
 ただ、アルコール度数が高いから、調子に乗ってると歩けないほど酔ってしまうことがある。
 今日はそんなことにならないように気をつけなければ。

 二時間ぐらい経過しただろうか。
 他愛のない雑談を交わしているうちに、自然に時間は過ぎていた。
 きっとつまらない人だろう……なんて、勝手に榎さんのことを決め付けていたけど、何を話していても楽しいと感じる。
 これは、やっぱり相手に興味と好意があるせいだろうか。
 告白を断っておきながら、こんな風に飲みに誘っている自分はムシが良過ぎる気がして……少し罪悪感がある。
 本当は榎さんに、あなたのことが気になり始めてきちゃったんですって言いたいけど、どうしても切り出せない。
 彼の方も、異性関係の話題には一切触れてこない。私がお土産のお礼がしたいと言った言葉を、そのままシンプルに受けとめているようだ。
 私と同じ量のワインを飲んでいるのに、彼はまったく酔っている気配がない。お酒に強いみたいで、職場の飲み会でも浮かれている様子は今まで一度も見たことがない。
「時間が遅くなりましたね。そろそろお会計にしましょう」
 そう言って、榎さんは場のムードを壊さないスマートさで会計を済ませてしまった。
「え、私がお誘いしたのに。お代は私に払わせてください」
 ビックリして私がそう言うと、榎さんはナプキンで軽く口元をふいて、首を横にふった。
「お金では買えない楽しい時間をありがとう。中田さんとこうやってお食事できただけで嬉しいですよ」
「!」
 また……また、殺し文句が出た。
 この人は無意識にこういう悩殺的なセリフを言うんだろうか。
 いつもはあんなに厳しい表情で仕事をしている人なのに、こうやってお酒が入った状態で見ると、何とも優しげで色気のある素敵な男性に見える。
「私もすごく楽しかったです。ご馳走様です」
 あまりお金にこだわるのも格好悪いなと思ったから、私は素直にご馳走になることにした。
 悩殺するようなセリフとワインのせいで、またもや私の頭は混乱している。
「別の日に改めてお礼させていただきますね」
 こんな私の言葉に、榎さんは少し微笑んだだけだった。
 社交辞令だと思ったのかな。
 だいたい、別の日……っていつのことを言っているのか、自分でも良くわからない。
 私は、こうやってまた榎さんと食事をする機会があると思ってるんだろうか。彼は今日限りだと思って付き合ってくれたのかもしれないのに。
 せっかく楽しい食事を終えたばかりだというのに、私の心はブルー。
 榎さんの心はもう自分にはないかもしれないという気がして……どんよりと落ち込むのをとめられない。

 お店を出たのはちょうど十時くらいだった。
 電車も問題なく走っている時間で、このまま帰れば十時半にはアパートに着ける。
 でも、私はまだ帰りたくない。
(終電まで、どこかでお話しできませんか?)
 こんなこと、とても口に出して言えない。
 言ってしまったら、私が榎さんを意識しているのがあからさまにわかってしまう。
 ここまできて、私は何を格好つけようとしているのか。自分でもどうしていいかわからない。
「遅くなったので、中田さんのお宅まで送りますよ」
 オロオロしている私のことを知ってか知らずか……榎さんは、ごく自然にそう言った。
「え? でも……私のアパートによってしまったら、榎さんの終電がなくなるかもしれませんよ?」
「そういう心配はしなくていいですよ。タクシーがありますから」
 そう言って、彼は私をアパートまで送る意志を変える気配はなかった。
 もっと一緒にいたいという私の思いが通じたんだろうか……正直、すごく嬉しい。
 それにしても、お酒が入ったらもっと砕けた態度で接してくれるかと思ったのに、彼の礼儀正しい姿勢はまったく崩れない。足取りもしっかりしているし、顔も別に赤くなったりしていない。私の方が、酔いがまわっている感じだ。
「中田さん、大丈夫ですか?」
 私はまっすぐ歩いているつもりだったけど、どうやら少しふらついているらしい。
 榎さんと一緒にいるだけでもドキドキするのに、さらにワインを飲んだせいか、すごいスピードで心臓が脈打っている。
「ちょっと、ワインが効いてますね。普段はあれぐらいでは酔わないんですが」
「……嫌でなければ、体を支えますけど」
 そう言って、榎さんは歩く足をとめた。
 ドキリとして、私の足もとまる。
 榎さんに支えられる? おおげさかもしれないけれど、私にとって「体を支えられる」っていうのは「抱き合う」のと同じくらいのドキドキ感だ。
「嫌とかではないですけど……申し訳ないですから」
 触れたい気持ちと恥ずかしい気持ちから出た私の言葉を聞いて、彼は不思議そうに質問してきた。
「何が申し訳ないんですか?」
「え、だって。恋人でもないのに……」
 私が言いたかったのは、「恋人でもない自分が慣れなれしく榎さんの優しさに甘えるのは良くない」ということだった。
 本当は金曜日に告白されたシーンからやり直したい気持ちでいっぱいなのだ。
 俯いて黙っている私を見て、榎さんは差し出しかけた手を下ろした。
「そうですね、恋人でもないのに出過ぎたことを言いました」
 私のセリフを、また断りの意味だと解釈したらしい。
 彼は寂しそうな表情を見せ、再びゆっくり歩き出した。その後ろ姿を見て、私は『違うんです!』と心の中で叫んでいた。
 また榎さんの好意を思わぬ形で傷付けてしまった。
 『すぐ言い直しなさいよ、美羽!』自分で自分を叱咤する。
 でも、告白なんて自分からしたことのない私は、結局セリフのフォローもできず、泣きそうになりながら彼の後ろをヨロヨロと歩くだけだった。
 私……やっぱり榎さんが好きだ。
 しかも、今まで付き合った人に対する「好き」とは全然違う。
 うまく言葉が出ないなんて、今までなかった。
 まるで初恋の時みたいな胸の痛さだ。
 恋は苦しい。
 そうか……恋はこんなに苦しいものだったのね。
 一緒にいると楽で、のん気に楽しく過ごせる人がいいと思っていたのに。
 今、私が好きだと思っている人に対する気持ちは、「痛いほど苦しい」という感情だった。

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