課長が私を好きなんて!
5 伝えたい、伝わらない
榎さんは宣言してくれた通り、私をアパートまで送ってくれた。
彼の住んでいるマンションを聞いたら、どう考えてもここから一時間以上はかかる場所だった。終電はなくなるに違いない。
「ごめんなさい。こんなに遅くなるなんて、逆に迷惑かけてしまいました」
私はアパート前でしょんぼり俯いた。
気にしなくていいと言われたけど、自分が誘っておきながら、ご馳走になってしまった上に、家まで送ってもらい、随分迷惑をかけてしまっている感じがした。
「中田さん、もしかして僕にすごく気を遣って疲れてるんじゃないですか?」
「え?」
「仕事を離れれば、職場の上司だということは忘れていただいて良かったんですが。きっと、あなたのことだから、気疲れしているのかもしれませんね」
私の思いがすべて裏目に出ている。
いつもの私ならもう少し甘え上手なんだけれど、さすがに榎さんの前では気軽に甘えられない。
上司だから……っていう条件を除いても、今の私には最も緊張してしまう相手だ。
この心理状態が恋のせいだ……ということには、当然気付いてはもらえないだろうけれど。
「明日の仕事にさしつかえないよう、ちゃんと寝てくださいね。今日はありがとう、おやすみなさい」
最後まで私を気遣う言葉を残して、榎さんは今歩いてきた道を戻って行く。
しばらく黙って彼の後ろ姿を見ていた私だけれど、気が付くと彼を追いかけて走り出していた。
「榎さん! 待ってください」
暗闇に消えそうだった彼の姿がぴたりととまる。
「中田さん?」
振り返った榎さんの表情は哀愁を帯びていて、私はたまらなくなった。
彼の目の前まで走りより、少し呼吸を整える。
「私……、榎さんのことが気になってるんです」
思っている言葉をそのまま口にした。
榎さんは黙って私の言うことを聞いている。
「先週失礼なことを言ってしまったのを後悔してまして……それで、今日はちゃんとお詫びがしたいなって思ってたんですけど。なかなかうまく言葉にならなくて」
言い訳じみた言葉をいろいろ並べたけれど、うまく思いを伝えられない。
緊張で頭に血がのぼった状態で、私は榎さんの前で立ち尽くしていた。
そんな私の頭に大きな手をポンポンと乗せて、榎さんはニコッと微笑んだ。
「すみません。先週僕が言った言葉で、中田さんを混乱させてしまったみたいですね。あなたはまだまだ若いし、素敵な相手がいるだろうと思ったんですが……数年抱えていた気持ちでしたから……」
榎さんが、私のことを長い間思ってくれていた……?
信じられない思いで彼の顔を見上げる。
やっぱりいつもの真面目な榎さんの顔だ。冗談は言っていない。そんな長い間、思いを黙っていられるなんて、どれだけ気の長い人なんだろう。
私はそれほど気が長くないから、好きだと思えばすぐにアプローチしてしまうだろう。
榎さんは、女性を自分のものにしようとか……そういう独占欲が薄い人なのかな。
毎日蕎麦を食べても飽きないと言っていたから、人間に対しても一度好感を持つと長いとか……そういう感じなんだろうか。
ほんの数秒の間に私はいろいろなことを考えていた。そんな私を見ながら、榎さんはさらに言葉を付け足した。
「上司だからとか、告白されたから応えなければとか、そういうことは思わなくていいんですよ。僕は自然体の中田さんがいいなと思っているのですから」
この言葉を聞いて、私はすごく悲しくなった。
「榎さん……違いますよ。そういうことじゃないんです」
何と言っていいのかわからなくて、涙が出そうだ。
自分で、自分の心をどう表現していいのかわからない。
確かに告白されたから気になったというのは間違いない。それに、上司だから余計意識してしまったというのも否定できない。
でも……じゃあ、今私が抱えている、このドキドキする感情は恋ではないのだろうか。
恋は、理屈ではないわよね。
お見合いしたからってうまくいくわけでもないし、結婚相談所ですべての条件をクリアしている人を紹介されたからといって好きになれるかどうかわからないし。
人間の心ってすごく複雑に見えるけれど、恋愛感情を抱くかどうかというのは、すごく直感的でシンプルなことで……それを私は今実感しているのだ。
きっかけは単純なこと。
本当に、すべての恋愛が千差万別の色を持っているように、好きになる瞬間というのも様々だ。
私は榎さんに告白をされたのがきっかけで、その存在と魅力に改めて気付いた。
心の中でははっきりわかっているのに、結局私は榎さんに好意があるということを伝えることができなかった。
もっと一緒にいたい、ただそれだけなのに。
今、私が榎さんに求めているのは、「面白い話」でもないし「甘いささやき」でもない。
できるだけ長く彼のそばにいたい。彼の存在を隣で感じているだけでいい。
私は感極まって泣きそうになっていた。
すると榎さんは、なだめるように私の頭を優しく撫でてくれた。
「中田さんが部屋に入るのを見届けますよ。さあ、もう遅いからお帰りなさい」
彼は年上らしい言葉で私に、アパートへ帰るように言った。
「はい。おやすみなさい……」
頭でごちゃごちゃ考えたことを何一つ告げられず、私はアパートの方向へと歩き出した。
「おやすみ」
後ろで榎さんの低く優しい声が聞こえた。
(これでいいの、美羽?)
心の中で自分に問いかける。
このままだと、榎さんの存在は今までよりもっと遠くになってしまうかもしれない。私を諦めて別の恋人を作るかもしれない。
「あの!」
私は榎さんの方を振り返り、思い切って一言だけ言った。
「榎さん、またお誘いしていいですか?」
今の私に言える、精一杯の積極的な言葉だった。
次につなげる橋を、彼の心に架けておきたかった。
榎さんは私の言葉を聞いて、大きく一つ頷いた。
その反応を見て、私は思わず涙が出そうになり……慌てて表情が判別できない場所まで移動した。
恋人同士になるには、私たちは年齢も心も離れた場所にあり過ぎる。
でもこれから少しずつお互いを知ることで、もしかしたら私は榎さんの隣にいるのに相応しい女性になれるかもしれない。
もう一度。もう一度、彼の口から告白の言葉を聞きたい。その時こそ、私は迷いなく彼の心を受けとめられるはずだ。
(今度は一緒に休日を過ごしませんか?)
私は次の誘い文句を考えながら、最後にもう一度だけ榎さんに向かって頭を下げた。
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