Smile! 新生活編2


11−3 菜恵の焼きもち

SIDE 菜恵

焼きもちほど不毛な事は無い。
そう言い聞かせるのに、私は今とても不安定だ。
和彦を抱いていれば少し安心するけど、夫っていうのはいつ自分から離れてもおかしくないのかな…なんて寂しい事を考える。
聡彦が最近仕事がとても遅くて、夜中の12時をまわらないと帰ってこない。
残業代はつけられないから、ほとんどサービス残業だ。
「大変だね」
そんな言葉をかけてみるけど、聡彦は案外平気な顔をしている。
「俺一人が残業してるわけじゃないし。結構残ってる人同士で出前とったりして休憩してるから心配いらないよ」
私を安心させる為に言ってくれてるんだろうけど、その残業仲間に梅木さんが入っている事を私は知っている。
同じ会社だから、情報が筒抜けなのだ。
特に聡彦は目立つ人だし、前恋人と夜中までの残業が続いてるとなれば当然面白がって噂する人は出てくるのは仕方のないことだ。

私の仕事は淡々としたもので、毎日4時には帰らせてもらっているし和彦の面倒も余裕をもって見られている。
だから、仕事と子育てという両立は見事に成立している。
これを言うと、周りの友達は羨ましいと言う。
「菜恵はイケメンの旦那を持って、子供もいるのに仕事も両立させて…あなた程恵まれた人はいないよ?本当にさー、私なんか旦那は年々太るし、子供産んで私も太ったし、仕事は辞めたし…本当に最悪」
こんな愚痴を時々聞かされるけど、その子の表情を見ていると決して生活がつらいわけではないというのが分かる。
文句を言いながらも、やっぱり旦那さんが好きなんだなっていうのが伝わってくるし、子供も手がかかりつつ可愛くてしょうがないって感じだし。
専業主婦っていうのも、ちょっと興味のある世界だから…私もいずれは仕事を辞めて家庭に入ろうかなという気持ちも少し芽生えている。
何故なら、仕事をしている限り聡彦が同じ会社の社員として存在しているんだなと思うと、何となく窮屈に感じてきているからだ。
彼の働きっぷりを見ないで家庭で全く別世界を作り上げれば、今の変な焼きもちは無くなるんじゃないかとか思ったりする。

「そういえば、梅木さんが奥さんにこれどうぞって」
帰るなり、聡彦は私に小さな箱を手渡してきた。
「何?」
「さあ…中身の事は言って無かったし、帰り際に適当に渡されたから」
そう言って、聡彦はネクタイを外しながら寝室に入って行った。

何だろう。
かなり小さなその箱を開けてみると、中には香水のビンが入っていた。
手の込んだデザインで、雑誌とかで見かけた事があるような気がした。
「ん?」
中に、小さなメモ用紙が入っている。

“お好みの香りかどうか分かりませんが、得意先の人が毎回くれるので私も使い切れなくなってしまって…。もし気に入っていただけたら嬉しいです。好みじゃない場合は処分していただいて結構ですから。梅木”

メモ用紙には、こんなメッセージが添えられていた。

香水の香りは決して私の嫌いなものではなかった。
でも、私は普段から香水は使わない。
自分専用のものは若い頃に一つ買ったきりだ。

私にとっての今のライバルは梅木さん。
そんな人からもらった香水。
これをどう扱っていいのか…私は悩んだ。
処分していいと書いてくれてるけど、そのままポイッと捨てるのもあんまりだなと思うし。
だいたい、聡彦は何でこういうものを平気で持って帰ってきたり私に手渡したりするんだろう。
気の利いた男性なら「妻が嫌な気分になるかもしれない」と察知して自分で処分してくれそうな気がするんだけど。
聡彦には、梅木さんから私へのプレゼントっていうものの意味は全く分からない世界なのかもしれない。
ダイレクトに聡彦にはプレゼントする事は出来ないだろう。
だから、ちょっと屈折したかたちで妻にプレゼントを渡して欲しいという申し出は、私にしてみたら相当意味があるような感じがしてしまう。

考えすぎだろうか。

だって、こういうのを何回か繰り返すうちに「いつも妻にありがとう。お礼に食事でも」っていう展開に持ち込めない事もない。

「ああ!何で私がこんなに妬いてなきゃいけないのよ。立場が逆になっちゃったよー!」
私は思わず声を出してテーブルにパタンと突っ伏した。
その様子を見て、聡彦は驚いている。
「どうした?仕事で何か失敗でもしたのか?」
私の気も知らないで、聡彦は最近本当にのんびりしている。
その姿が逆に腹が立ったりして、私は以前の束縛していた鬼のような聡彦に少し懐かしさを覚えていた。
あの頃はひどい態度をとりながらも、私を一ミリも手放さないように必死な目をしてくれていた。
話した男性は同僚だろうと、お客様だろうと、だれかれ構わず焼きもちを妬いた。
今も多少そういう気配は残ってるけど、やっぱり私が離れる心配が激減したのが分かって安心したのか、会話した男は何人だ?なんて無茶な事は言わなくなった。

でも、この束縛が薄れたのが梅木さんのせいだったらどうしようという不安が、私の心を少しずつ黒くしているのだ。
そして、日が経てばまた慣れるだろうと思っていた聡彦に対する恋心の再燃が全く鎮火してくれない。

「菜恵、首に何かついてる」
私がボウッとテーブルに座っているところに、聡彦がふっと首筋に指をあてた。
「ヒッ!」
なぜか体中に鳥肌がたって、私は椅子から転げ落ちるところだった。
当然聡彦は驚いている。
単に私の首に抜け髪がくっついていたのをとってくれようとしただけなのに、私は聡彦に何か性的な接触をされているような気になって驚いてしまったのだ。
「菜恵、本当に最近おかしい。全然近寄らせてくれないし…まさかと思うけど、浮気とかじゃないよな?」
聡彦は私が考えている事とは反対の事を聞いてきた。
“浮気してるのは聡彦でしょ!!”
思わずそんな言葉を言い返しそうになる。
「職場の男に言い寄られてるとか…何か俺に言えないような事あるの?」
ある意味、聡彦には言えない悩みだ。
でも、それは私が言い寄られているからではない。
「何もないよ。仕事は順調だし、和彦も元気だし。心配する事は何も…ないよ」
私はこう答えるしかない。

「もう寝るね。おやすみ」
聡彦がまだ何か話そうとしているのを遮って、私はそのまま寝室に入った。
手の中にある香水。
とても使いたいとは思えない。
どこか見えないところに隠してしまおうと思って、箪笥の奥に入れた。

                            *

そんなこんなで私の精神状態が不安定になっている頃、突然保育園から電話が入った。
「カズくんがお熱を出してしまって。迎えに来ていただけますか?」
どうやら突発的に熱が出たようだ。
幼児の高熱は脳に障害が残るケースもあって、楽観視できない。
私は慌てて上司に事情を話して早退させてもらった。

「和彦!」
保育園の前で、心配そうに先生が私を待っていてくれた。
「良かった、ママがきてくれないとカズくんも不安みたいで。ずっと泣いてるんですよ」
「すみません。すぐに病院に連れていきますね」
私は和彦を大事に受け取って、そのまま近所の小児科に駆け込んだ。
順番待ちの患者さんでいっぱいだったけど、和彦が38度以上の熱を出しているのを知って、すぐに順番を繰り上げてくれた。

検査の結果、どうやら保育園でも流行っているインフルエンザにかかってしまったようだった。

「水分補給をしっかりして、薬をなるべく確実に飲ませてください」
そう言われ、私は薬と体が吸収しやすいスポーツ飲料を買ってアパートに戻った。
和彦の熱は薬を飲んで数時間で少しずつ落ち着いてくれ、ぐずっていたのも疲れたのかカクンと寝てしまった。
私はかなりホッとして、そのまま和彦のベッドサイドで自分も一緒に倒れるように横になった。

今日は聡彦早く帰ってくるって言ってたし…和彦の熱をわざわざ知らせなくてもいいか。
そう思って、私は余計な心配をされないよう、わざと聡彦にこの事は伝えなかった。

                           *

夜7時。
全く聡彦は帰ってくる気配が無かった。
いつも会社を出る時に「今から職場出るから」っていうカエルメールが届くんだけど、それが来ないという事は、まだ仕事中だってことだ。
和彦の様子を知らせようか迷っていると、聡彦からのメールが届いた。

『仕事があと1時間ほどかかりそうだ。食事はこっちで済ませるから、心配しないで休んでていいよ』
というものだった。
早く帰るって言ったのに、結局はこうやって遅くなる。
1時間って書いてあるけど、この調子で夜中になるケースは今までに何度もあった。
私は和彦に異変があったら、仕事に支障が出ても面倒をみなければいけない。
でも、聡彦はそういう事を考えなくても仕事に没頭していられる。
女ばかり、母親ばかりが負担を背負わなければいけない事が、私の中で急にきつい事のように感じてきていた。

『和彦熱を出しました。今は薬で落ち着いてます。仕事お疲れ様』
こんな短い報告だけメールして、その後にきた彼からの電話には出なかった。

当然彼だって和彦を心配しているのだろう。
すぐに帰ろうと、今必死で仕事を片付けているのは分かっている。
でも私は、仕事も子育てもめいっぱいやってるうえ、さらに大好きな夫の傍に元恋人がいるという変な嫉妬が加わったせいで完全に余裕を無くしていた。

私がメールした後、1時間ほどで聡彦は転がるようにして帰って来た。
相当急いで帰ったのだというのは分かった。
「和彦は!?」
「寝てる。インフルエンザだったけど、薬ですぐに熱は下がったから」
「菜恵、何で電話無視したんだよ?」
そう言って近付いてきた聡彦のスーツから、梅木さんからもらった香水の香りがした。
とっさに私は聡彦を突き放していた。
「どうしたんだよ、菜恵も気分悪いの?」
「違うよ…聡彦の馬鹿!嫌い!!」
私はツンツンツンの夫に対して、初めてこんな言葉を吐き出した。

当然聡彦は何がなんだか分からないという顔で私を見ている。
そうよ、これはただの馬鹿な嫉妬。
聡彦が好きすぎて…梅木さんの使う香水の香りなんかさせてるあなたを出迎えるのが、たまらなく嫌なの。

私は和彦を一人で看病した不安と、聡彦が帰って来て緊張が解けた安心感が同時に襲ってきて、ボロボロと涙が溢れてしまったのだった。

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