Smile!

4−3 菜恵の涙

嫌いだ。
あんなツン男…、私の事をちっとも信用してない。
どれだけあの人に気を使ってきたか、分かってない!
健太とだって二人きりで会うなと言われたから、仲間が一緒の時にしか会えなくなったし。
本当はもっとオタク話に花を咲かせたいのに。

あの人のせいで、私の生活は規制だらけだ。
好きだからって色々我慢してたけど、普通の付き合いじゃないよ…。
最初から異常な関係だったけど、あの人の横暴ぶりはひどすぎる。

私の心は不満だらけだった。
もうどうせなら八木さんに乗り換えちゃおうか…なんて、ヤケな事まで思っていて。
今までに無く私は「どうでもいい」という心境になっていた。

八木さんはアルコールでフラフラの私を心配してアパートまで連れ帰ってくれた。
「大丈夫?ちゃんと自分でコントロールしないとお酒は危ないんだから」
「平気です。あ、どうぞ上がってくださいよ。お茶でも飲みませんか」
私は聡彦が絶対俺以外の男は入れるなと言っていた自分の部屋に、八木さんを入れた。
電話で急に「戻ってやってもいい」みたいな言い方してて、私がどれだけ彼に振り回されているのか分かってないみたいだったから言ってやった。

「浮気したから」

これは聡彦を殺すには十分なセリフだったかもしれない。
ルール違反どころではなくて、もう死刑宣告みたいなものだ。
実際、今私は八木さんを部屋に入れてるし…彼の出方によってはどうなるか分からない状態だ。
でも、八木さんは紳士だし。そんな変な事はしてこないだろう…と、安心していた。
「紅茶がいいですか?それともコーヒーにします?」
「いらないよ。後藤さん以外何もいらない」
そう言って、八木さんはスーツのジャケットを脱いでネクタイを外し、首元のボタンを二つ外した。
「…暑いですか?」
彼の言葉と態度がいつもと違う事に気付いて、ちょっと怖くなった。
もう秋だし、服を脱ぎたくなるほど部屋が暑いとは思えない。
酔った頭が少しクリアになってきた。

「社外でスーツにネクタイって苦しいでしょ。…ごめん、ちょっと冷静になる時間くれる?」
そう言って、八木さんは何だか苦悩するような表情で小さめのキッチンテーブルの席に座ってじっと考え込んでいた。

「…どうしました?」
「今闘ってるところ。会社で見せてる僕の姿を信用しちゃ駄目だな…後藤さんさ、ちょっと男の事分かってないんじゃない?」
そう言われ、私はもしかして軽率な事をしてしまったのかなと不安になった。
ヤケぎみではあったけど、八木さんが私に何かするかもしれないとは微塵も思っていなかった。
会社での彼はそりゃあ…温和で優しくて。
女性の了解無しに手を出すなんてあり得ない雰囲気の人だ。

なのに、彼はおもむろに立ち上がると、キッチンに立ってお茶の用意をしていた私をギュッと抱きしめてきた。
「八木さん!ちょっと…困ります」
慌てて彼の腕から抜けようとするけど、男性の力っていうのは本当に強い。
私の力なんかまるで無いのと一緒だった。
「何が困るの?じゃあどうして僕をこの部屋に入れたの。僕の気持ち知ってて…どういうつもり?」
いつもの八木さんじゃない。
この人も男性だったんだ。想像以上の強い力で体がギュウと締め付けられる。

私が軽率だった。
聡彦と喧嘩してて、彼が別の女性と飲んでるのを見て頭にきて…それでこんな展開になっている。
電話では「浮気したから」なんて言ったけど、実際にそうするつもりなんか無かった。

どうしよう。

「ひどいね。こういう半端な態度が一番人を傷つけるんだよ」
そう言って、八木さんは私の首筋に強いキスをした。
「痛っ…」
「跡が残った。ごめん…でも、これで舘さんだって余裕な態度とるわけにいかないのが分かるんじゃない?僕さ…結構しつこいから。覚悟しといて」

私が半泣きになっているのを見て、八木さんは少し表情を緩めた。

「君を泣かせたい訳じゃないんだよ。でも、泣いてる君も可愛いと思ってしまう。男と女なんて、結局こういう欲を捨てて付き合うなんて無理なんだよ。これからは、たやすく男を部屋に上げるなんて止めた方がいい」
そう言って私の頭を軽く撫で、八木さんはジャケットを手にとってそのまま部屋を出て行った。

「……」
首に残ったキスマーク。
聡彦にすらこんな強いキスはされた事が無い。
こんなの見られたら、絶対言い訳できない。何もなかったんだって言っても…聡彦は完全に私の浮気を信じるに違いない。

私はどうにかキスマークがごまかせないか色々考えた。
蚊に刺されたって言おうか。
でも内出血みたいになってるし…虫刺されという言い訳は無理だ。
じゃあ、自分で首をひっかいたとか…そういうシチュエーションも不自然だ。

オロオロとしている間に、外からバタバタと走る足音が聞こえて、鍵を閉めてなかったドアがバンッと開いた。

「菜恵!」
肩で息をしながら汗だくになって立つ聡彦の姿。
私が浮気宣言なんかしたから…慌てて駆けつけたのが分かった。
でも、今彼の傍に寄ったらこのキスマークがバレてしまう。

「聡彦…今日は部屋に上がらないで。このまま帰ってくれない?」
キッチンから動かず、私は彼にそう言った。
「俺が悪かった。今回は…ちょっとやりすぎたって思ってる」
彼が素直に謝っている姿は私の心をキュンとさせたけど、今抱きつくわけにもいかない。
このあざが消えるまで、1週間は必要だろう。

「ごめん…あと1週間待って。そうしたらちゃんとまた会おうよ」
「何、その1週間って何?」
言えない。
キスマークが消えるまでの期間だなんて…言えない。

私の言葉を待たず、聡彦が部屋に上がってきた。
私はとっさに首を押さえる。
「何、今何隠したの?」
怒ってる声ではなかった。
聡彦は私の態度がおかしい事に気付いている。

「来ないで。来ないでったら!」
涙が出てくる。
このキスマークで、また聡彦を怒らせたら二度と許してもらえない気がして。
せっかく仲直り出来そうだったのに、そのチャンスを自分でつぶそうとしている。
「見せて」
私の手をそっと外して、首元に見える小さな痣を彼は見つけた。
当然一瞬固まって、それが何の痣なのかを考えているみたいだった。

「…八木?あいつなの?」
やっぱりキスマークだというのがバレてしまった。
私は聡彦の言葉に答えずに黙っていた。
この沈黙がYESを意味しているというのは、彼にも伝わっているだろう。

「ゴメン…違うの。浮気したなんて嘘なの。信じてもらえないかもしれないけど」
私はボロボロと泣いた。
八木さんが悪いわけでもない。
彼は私に好意があると最初から伝えてくれていた。
なのに、私は彼を自分の部屋に入れた。
本来ならもっと強引な事をされていてもおかしくなかったはずなのだ…八木さんはあれで精一杯自制を利かせていた。

だから、悪いのは私。
聡彦を裏切ってしまったのは…私。

聡彦は私の首をするすると撫でて、痣の部分を何度かこするように指をあてている。
「…別の男に、こんなものを残されたのか」
やや放心状態という感じで、聡彦はそうつぶやいた。
怒っているという雰囲気ではなくて、本当に脱力したような声だった。

「1週間っていうのは、これが消えるまでっていう意味だろ?」
「うん…そう」
私があんまり泣いているから、聡彦も責める気になれないみたいで虚ろな目で私を見ている。
お互いどう心を近づけていいのか分からなくなった。

私は聡彦の短気ぶりに腹が立ってた上に企画の女性と一緒にいた事を問い正したいと思っていた。
聡彦だって、ささいな事で怒った事を多少後悔しているみたいだったし、きっと今日は仲直りしたいと思ってくれていたはずなのだ。

私が八木さんを部屋に上げさえしなければ、こんな事にはならなかった。

「分かった。俺も菜恵のそんな傷跡見たくないし…しばらくまだ会わない方がいいみたいだな」
そう言って、聡彦は怒りもしないで無表情のまま帰って行ってしまった。
あの聡彦が…全く私を責めなかった。
そういう次元を超えて、何だかすごく傷ついた顔をしていた。

「聡彦…ごめん。ごめんなさい」
私は彼の出て行ったドアを見ながら、後悔の渦にのまれていた。

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