Smile!

5−1 エレベータ事件

企画と広報営業が一緒になって、製品の宣伝活動をする為に、合同接待みたいなものが行われるという噂を聞いた。
もちろんその仕事に私は一切関係なくて、もっぱら聡彦が忙しそうだな…という雰囲気だった。

「今お昼?食堂に一緒に行こうよ」
サラッとそう誘ってきたのは八木さんだ。
私のお昼休憩は今日は遅くて、もう12時半になっていた。
「八木さん、まだだったんですか?」
「うん。後藤さんが行くのを待ってた…って言ったら迷惑?」
どう見ても紳士が微笑んでいるように見えて、あの日の男性らしさを見せた彼とは思えない。
「いえ。最近お急がしそうですね」
「うん、合同接待の仕切りっていうか…司会みたいなのを頼まれてね」
八木さんはどちらかというと広報営業にいた方がむいている気がしていたから、そういう仕事をまわされるのも不思議じゃない。
聡彦もルックスは負けてないけど、何せあの人は無愛想過ぎる。
私と一緒の時ですら、笑うのはめずらしいぐらいだし。

「もう定食残ってないかもしれないね。このまま外食に出ない?」
こういう誘いをされるのが一番困る。
私がまた早食いして逃げるとでも思ってるんだろうか。
「いえ、私は納豆とご飯でもいいので。食堂にします」
「予防線きついなあ。相当信用されてない?」
本当に傷ついたような顔をされてしまうから、私も動揺する。
外食をしたぐらいで何かされるとは思ってないけど、何といっても八木さんの人気は相変わらずで。
私が一緒に食事をしているというだけで、裏で相当ブーイングが起きているらしいのは聞こえてくる。

「じゃあ、食堂にしようか」
そう言われて、食堂がある3階まではエレベーターを使う。
階段で上がっても良かったけど、たまたま空のエレベータが来たから、それに乗った。
普通に3階を設定して上る。
こんなの一瞬の出来事だ。エレベータで3階に着くまでは数秒しかかからない。
なのに、運命のいたずらというか…どういう事なのか、唐突にエレベーターが止まった。

ガタンっと大きい音がして、グーンと電気のうなるような音がしたかと思うと、そのままシンとなった。
「…え、止まった?」
私はびっくりして扉を見た。
待っても、そこが開く事は無くて、私は思いがけず八木さんと密室に閉じ込められる事になってしまった。
八木さんは慌てたそぶりも見せず、冷静に緊急連絡ボタンを押して「エレベータが止まりましたが」と報告していて、作業員が到着するまで待って欲しいという指示が来た。

「ついてないね」
ため息をついて、八木さんはだるそうに壁にもたれた。
「八木さん、何か具合悪そうですけど…大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れてるのかな。大丈夫」
そう言われても、どう見ても顔色が悪くて立っているのもしんどそうに見えた。
そのうちなかなか作業員さんが来ないのを感じて、彼は床に座りこんでしまった。
「大丈夫ですか!?」
私は慌ててしゃがんで八木さんの様子を伺う。
「…ん…」
そう言ったきり、彼は熱っぽい体を私にもたれてきた。
やっぱり相当高い熱が上がっている。
傍に寄ってみると、息も上がっていて相当つらそうだ。
最初に声をかけてきた時は全然そんなの感じさせなかったのに…八木さんて本当に読めない人だ。
「後藤さんさ…」
私の肩に頭をもたげていた八木さんがボソッと口を開いた。
「はい?」
「僕の事、嫌いだと思うけど。僕は…君をいいなって思ってる。舘さんにライバル心があるのも否定できないけど、なんか…君といるとホッとする」
「……」
こういう状況で、優しい言葉を言われると私も強く否定できない。
実際、体力も弱っている八木さんは放っておけない雰囲気になっていて、私は黙って彼の枕がわりになっていた。
暖房のスイッチも切れたみたいで、エレベータ内は相当寒くなっていた。
「今だけ。今だけ抱きしめていいかな」
そう言われ、私はふいに彼の胸に抱きしめられた。

一瞬の出来事だったから、私も何が起こったのか分からなくて、自分が八木さんの胸の中にいるのを理解するまでに数秒かかった。

「何するんですか」
「ごめん…僕はこういう強引な男なんだ。一度好きになると、盲目的になる。だから本気で好きになった女性には振られてばかりさ。後藤さんにも好かれてないって分かってるのに…こういう事が平気で出来てしまう男なんだ」
体力を失っているように見えた八木さんの強い力で私の体は固定されてしまい、近づけられた顔もよける事ができなかった。

キス?
唇の感触がヒンヤリとして、そのまま何度か頬にもキスをされた。

「やだ!またこういう事するなんて。止めてください!」
私が思い切り彼の体を突き離すと、八木さんはその勢いでパタリと床に倒れてしまった。
嘘…私なんかの力で彼が倒れるとは思わなかったから、慌てた。
気絶したみたいに動かない八木さんの体を起き上がらせて、仕方なく彼の頭を自分の膝にのせてエレベータが開くのを待った。

多分扉が開くまで15分もかかってなかったはずだったけれど、私にはすごく長い時間に感じられた。
強引な事をされたけれど、グッタリしている彼を責める気にもなれなくて、今起こった事は忘れてしまおうと思っていた。

――― 10分後

ようやくエレベータが正常に動いて階段ならほんの1分ほどの3階のフロアが見えた。
「大丈夫でしたか?」
作業服を着た男性が私とぐったりした八木さんを見て心配そうに手を差しのべてくれた。
「私は平気です。この方が、体調が悪かったみたいで」
野次馬がエレベータの周囲にはたくさん集まっていて、私の膝の上で八木さんが倒れているのを思いっきり見られた。
何も関係無いとかいう言い訳が出来ない状態で、女性職員は明らかな疑惑の目を向けていた。

どうしようもない。
八木さんが気を失うほど具合が悪そうなのは事実だし、あの状況だったら誰だって似た事になっていたに違いない。

即座に八木さんは作業員に抱えられるようにして立ち上げられ、そのまま医務室に連れて行かれた。

私は今更食堂に入る気にもなれなくて、好奇の目を向けられたまま階段を降りた。

この日からだ…。
私への容赦無い噂が立った。

“舘さんと付き合ってるくせに、八木さんとも深い仲らしい”
“大人しそうに見えて、男好き”
“いい男を狙う小悪魔”

資料館にいても、社員さんの目がどことなく冷やかしている感じがして、私はいたたまれなくなった。

「菜恵、気にする事無いよ。舘さんにだけは誤解を解いた方がいいけど、私はあんな噂信じて無いし。八木さんがいい男だから、嫉妬されてるだけだからね」
沙紀がそう言って慰めてくれた。

そう、私も聡彦にさえ誤解されてなければそれでいいと思っていた。
彼の中でも八木さんが強引な人だという認識はあって、私の言い訳も信じてくれた。
でも、密室で起きてしまったキス事件の事を隠し通す事が出来なかった。

八木さんが聡彦に、直接言ってしまったからだ。

「あの男は、俺を精神的に殺す気なのか…?」
私のアパートで向かいあって、事件の事を話していたら、聡彦がそうつぶやいた。
「もう彼とは一緒に行動しないようにするから」
「でも一緒に仕事してて、菜恵の上司になる訳だし。関係を絶つって事は無理だろ?」

そうだ…あれから体調の戻った八木さんには謝られたけど、それをつっぱねるほどひどい態度はとれなかった。
表面上だけは何も無かったように振舞うのが精一杯だった。
彼の強引さを考えると、今後も私に隙さえあれば何をされてもおかしくない。

はあーっと大きなため息をついて、聡彦は私をギュッと抱きしめた。

「聡彦…?」
「菜恵、八木の独占欲と執着心は普通じゃない。守ってやりたいけど、どうしたらいいのか分からない。仕事も最近忙しくて、どうにも目を届かせきれない…」
私が八木さんにどうにかされてしまうんじゃないかという危機を感じているみたいで、聡彦は本気で悩んでいた。
「私もうっかりだからいけなかったんだよ。彼も謝ってくれたし。もう今後はこういう事は無いように注意するから」

「…正直、八木の事は会社に訴えてでもチーフを外してもらいたいと思ってるぐらいなんだ」
「それは止めた方がいいよ、証拠も無いし」
私は慌てて聡彦を止めた。
セクハラを訴えて女性側が優位になった事例はあまり知らない。
だいたいはいたたまれなくなって、訴えた側が仕事を辞めてしまうパターンばかりだ。
「分かってる。そういう訴えは、結局菜恵が苦しめられるだけだって…だから、打つ手が無い」

私は八木さんが抱いている聡彦への恨み言も聞かせてもらっていて、復讐心と私への執着心が今の暴走する彼を動かしているんだというのは分かっていた。

「……本当に好きな人に出会って無いんだね。八木さん」
私が言った言葉に、聡彦は少し驚いていた。

「だって、本当に好きな人にはあんな事出来るはず無いもの。彼は自分の心しか見えてない。自分しか可愛くないんだよ。本当に好きな人に出会ったら、今の私に対する気持ちが本当の愛情じゃないって事が分かるのに」
力無く言った私の言葉に、聡彦も“そうだな…”と言ってそれっきり何も言わずに私をずっと抱きしめていた。

八木さんが本当の恋に出会うまで、待つしかないな…と私は思っていた。

聡彦も横暴だったけれど、八木さんとの決定的な違いがある。
それは、聡彦は私の本心が自分に向いているのを知っていたから強引だった。
もし私が彼を拒絶したら、そのままあっさり離れる仕草を見せていた。

八木さんは違う。
私が完全に嫌だと言っているのに、自分の欲望を押し付けてくる。

自己愛…。
そういうものがあの人には相応しい言葉のような気がする。
自分だけが可愛い。
自分が可哀想なのは許せない。…そういう理屈。

そんな彼を変貌させる人がこの後突然に訪れるとは、私も聡彦も予想していなかった。

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