Smile!


7−2 混乱

好きだからこそつく嘘。
愛してなければ、とうていつけそうもない嘘。
嘘をついてまで相手を思いやる…そういう愛もある。

                        *

聡彦が気を失った状態のまま一日が過ぎた。
内出血などは無いとの事だったけれど…意識が戻らないのが心配で、私は病院につききりだった。
途中で沢村さんも病院にやってきて、聡彦の様子を見て涙を浮かべた。
「私が、あんな無茶な方法で資料を引っ張り出したりしなければ…」
相当自分を責めているようで、私は彼女を励ますしかなくなった。
「でも、聡彦がいなければ沢村さんがどれだけ大きなダメージだったか…。この人は丈夫に出来てるから、きっと明日には“おはよう”なんて言って目を覚ますわよ」
「だといいですが…本当にごめんなさい」
沢村さんって、どういう子なんだろうとずっと気になっていたけれど、直接話してみたら嫌味の無い素敵な人だった。
変な話し、聡彦がこの子に揺れてもおかしくないだろうなって思わせる好感度があった。


魅力的な女性がたくさん彼の周りにはいるのに…私を愛してくれて、ありがとう。
こんな気持ちが沸きあがっていて、私はベッドサイドに座ってずっと彼の手を握り続けた。

「付き添いの方は1名だけでお願いします」
看護師さんがドライな声で私達にそう声をかけた。
聡彦のご両親は遠方に住んでおり、連絡はしたけれど明日にならないと病院へは来られないようだった。
「私が残りますから」
私は沢村さんが残りたい気持ちがあるのを分かっていて、強く自分を出した。
聡彦を誰かに任せて帰るなんて出来そうも無い。
「すみません…何かあったらすぐ携帯に連絡ください」
沢村さんはそう言って、自分の携帯番号を私に教えてくれた。
「大丈夫です、きっといい報告が出来ると思いますから」

こうして、私はこの夜を聡彦と供に病院で過ごした。

「ねえ…早く目を覚まして。明日にはまた私のアパートでキスしよう?」
心の中でこんな言葉をかけながら、私は聡彦が明日には笑顔で「菜恵」って呼んでくれるのを信じていた。

                        *

次の日、太陽の光が窓から差し込むと同時に私は目が覚めた。
握っていた聡彦の手は暖かく、ただ普通に眠っているだけのように見える。
「聡彦」
声をかけてみる。
「おはよう、朝だよ。随分長く寝てるね」
いつも通りのセリフを言うと、聡彦の手が少し動いた気がした。
「聡彦!?」
反応した事に驚いて、私は大きな声で彼を呼んでしまった。
動かしては駄目だと言われていたのに、軽く手をゆさぶってしまうほど私は我を忘れていた。
聡彦はその振動で、軽く目をしばたいて、やがてパッチリと目を開けた。
「聡彦!気が付いたんだね、良かった」
涙ながらにそう言って彼の顔を覗きこむと、聡彦は私を見て不思議そうな顔をした。
「…後藤さん?」
「聡彦?」
彼の様子がおかしい。
私の事を認識はしているようだけど、「後藤さん」という呼び方をした事は今まで無くて、付き合い当初から彼は私を「菜恵」と呼び捨てにしていた。
「どうしたの?私だよ?」
「うん、どうして後藤さんが?俺…何で病院にいるの」

聡彦は完全に私と付き合っていた事を忘れていた。

「逆行性健忘症ですね」
医者はそっけなくそう言った。
「外傷は大した事ないですし、ご自分の名前も住所も分かっていて、仕事の事もほとんど記憶しているようなので…まあ、退院しても問題は無いと思います」
そう言われても、私との付き合いを完全に忘れてしまっている彼をどうしたら戻せるんだろう。
「失った記憶に関しては、戻る場合もありますし、そのまま脳の記憶組織が切断されたままになる場合もあるので…何とも言えませんね。とにかく脳出血などが無かったのが幸いだったと思ってください」
医者は最悪な場合を例に出して、今の状態はそれよりずっとマシなのだと言った。
確かに…聡彦の命が助かる事が一番だ。

でも、私を忘れてしまった彼との付き合いは…どうなるんだろう。

「とりあえず、あなたのアパートを知ってるから案内するわね」
私はまだ少しぼんやりしている聡彦の手をとってタクシーに乗った。
「俺、アパートも覚えてるし…後藤さんとの事以外は大体ハッキリしてるんだけど」
一番つらい事を言ってくれる…。
あなたが強引に私を好きだと言った、あの日々さえ忘れてしまったっていうの?
「後藤さんは、資料館に新しく入った方ですよね?」
「それは数年前の事で…今は広報営業にいるんです」
「そうですか。じゃあ、俺はその2・3年間の人間関係を覚えてないって事になるんですね」

あまりにもつらい展開に、私はその場で泣きたくなったけれど…記憶が無いという彼の事をこれ以上困らせても仕方ないと思い、アパートにタクシーが着いたらそのまま彼を降ろして自分のアパートに向かってもらった。

“明日俺が死んだら…”
あんな冗談言うから、こんな最悪な事になってしまったのよ。
聡彦の馬鹿。
そうなじってみるけど、タクシーの中で涙が出て止まらなくなった。

どうしよう。
聡彦は私を忘れてしまった。
あんなに元気だし、記憶が一部欠損した以外は全く問題が無い。
まるで…私との付き合いをリセットするかのように、彼は私を記憶から遠ざけてしまった。

携帯に一晩心配したらしい沢村さんからの電話が入った。
とても話す気になれなかったけど、仕方ない…私は力無くその電話に応答した。
「はい」
『あ、おはようございます。舘さんの様子いかがですか?』
「…ええ、意識は戻りました。それに生活にも支障が無いようなので、さっきアパートに送り届けたので。大丈夫です、多分少し遅れて出勤すると思います」
『良かった!意識が戻られたんですね?』
沢村さんの喜ぶ声は、私には何だかとても不愉快なものだった。
私という人間の狭さを思い知る状態になっており、優しい言葉が全く思いつかなかった。

この人のせいで聡彦は記憶を失った。

こんな軽い恨み言のような思いが頭に浮かんでしまい、私は慌ててそれを打ち消した。
「とりあえず彼は大丈夫なので。ここ数年の記憶が曖昧になってますけど、そこは職場でフォローしていただければ大丈夫だと思います」
『記憶が曖昧…ですか?』
「ええ。逆行性健忘症っていうらしいです。私の事も覚えて無くて、多分3年前ぐらいからの人の事は曖昧になってると思うので…それは上司の方に本人が伝えると思います」
私の声がどんどん暗くなるのを察知して、沢村さんは「分かりました」と短く答えて携帯を切った。

                        *

私はノロノロと着替えを済ませ、職場には1時間後れるという連絡をしてから部屋を出た。
仕事なんかする気分じゃ無いけど、何もしないで家に閉じこもっていても余計暗くなるだけだ。
とりあえず仕事をして気持ちを分散させないと、これから自分がどうやって聡彦と接していけばいいのか分からない。

洗面所に並んだ二本の歯ブラシが寂しく見えて、それだけで私は涙が出そうになった。

「後藤さん、舘さん普通に出勤してるけど…大丈夫だったの?」
ルリちゃんが私の姿を見て飛んできた。
「うん。体は大丈夫みたい」
「何か問題あったの?」
「…ちょっとね。記憶が…曖昧みたい。時間が経てば戻るかもしれないし…多分大丈夫だよ」

この会話を聞いていた如月さんが、「後藤さん、ちょっと付き合って」と言って彼一人でも大丈夫な外回りに付き合わされた。

「……大丈夫?」
運転席で冷房の調整をしながら、彼はさりげなくそんな事を聞いた。
「何がですか?」
「舘さん…後藤さんの事覚えてなかったの?」
「…ええ。目を覚ましたら、私の事“後藤さん”なんて呼んでましたよ。あの人が私を苗字で呼ぶなんて会社内でだけだったのに…」
私はつい如月さんに本当の気持ちを言ってしまった。
今自分一人で聡彦の問題を抱えるのは、かなりつらい状態なんだと自分でも分かった。

「ご両親には連絡したの?」
「本人が。朝直接電話してました。心配ないって」
「そう…。まあ、大事に至らなくて良かったよ。記憶はまたどこかで繋がる可能性もあるし、だいたいあの男が一度記憶を失ったぐらいで後藤さんから心が離れるなんてあり得ない気がするけどね」
本当に私を励まそうとしてくれている如月さんの言葉は、とてもありがたかった。
「あの。少し、泣いていいですか」
運転する如月さんの横で、私はぐったり俯いてそう言った。
「いいよ。車の中だし…全く問題ないよ」
「ありがとうございます」
それだけ言って、私は本当に恥ずかしいほどに号泣してしまった。

どうして…なんで私を忘れてしまうのよ。
昨日までキスしていた相手を、どうして忘れちゃうのよ!

ショックとか悲しさとか怒りとか…とにかく色々な心がごちゃまぜになって私の口から吐き出されそうになっていた。
実際軽く吐き気がして、何度か如月さんに車を止めてもらい、お手洗いに駆け込んだ。

「…後藤さん、今日はもう休んだら?」

ハアハアと肩で息をする私の背中をさすってくれながら、如月さんがそう言った。
きっと見ていられないほど私の様子がおかしかったんだと思う。

結局私はその日は仕事にならず、アパートに帰ってからも何度もトイレで吐いていた。
おかしい…ショックはあったけど、こんなに気分が悪いなんて私の心や体もおかしくなってしまったんだろうか。

次の日から2・3日間ずっと私の嘔吐は止まらず、結局病院に駆け込むことになった。

聡彦からは何度か携帯に連絡があり、私と付き合っていた事もそれなりに客観的には理解しているという感じだったけど、いつものような馴れ馴れしい口は利いてこなかった。

聡彦との付き合い…これで終わりになってしまうんだろうか…?

ぼんやりそんな事を思って病院の待合室でグッタリしていた。
名前を呼ばれ、診察室に入り、色々症状を聞かれた。
すると、先生から何故か微妙な顔をされた。
「あの…何か病気ですか」
「いえ、その…かかる病院を変えられた方がいいですよ」
「は?」
ここは普通の内科だ。
もっと大きい病院に行けって事だろうか。
「体は健康です。ただ、妊娠されてる可能性がありますね…一応チェックするスティックが市販で売られてますから、それで確認してもう一度婦人科にかかった方がいいでしょう」

「……」

私の頭は完全に停止した。
妊娠…?
子供…?

確かに、聡彦とはいつ結婚してもいいという気持ちがあったから、お互いの合意の上で避妊をしていなかった。
まさか、こんなにあっさり妊娠するとは夢にも思っていなかった。

どうしよう。
私の頭の中は「どうしよう」という言葉だけで占められ、もう一歩も歩く事が出来なくなっていた。


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