Smile!


7−3 迷い

毎日聡彦の事を思う。
毎日彼との子供の事を思う。

どうしたら彼にこの事を告げられるだろう。
それとも一人で決断すべきなのか。

タイミングが悪いにしても、あまりにもひどい現実だ。
記憶を失った彼に「あなたの子供を宿したので」なんて、どうやって言い出していいのか分からない。
自分だって記憶の無い男性が「君と愛し合っていた」なんて突然言われても、きっと心がついていかないに違いない。

気遣うように毎日入る聡彦からの電話。
「はい」
『あ、もしもし。舘ですが…一度会ってきちんとお話しませんか』

これが私を翻弄させた人の言葉だろうか。
まるきり別人の仮面を付け変えてしまい、横柄で意地っ張りで…時々可愛い顔をするあの無防備な彼では無い。
声を聞くたびに悲しくなるから、私はとうとう言ってしまった。
「私の事を少しでも思い出したら、また連絡下さい。今お会いしても何も変わらない気がするんです」
「……」
聡彦も困っている。
あの人が悪いんじゃない。分かってる。
記憶が戻るよう辛抱強く待つ事だって出来たんだけど、私の体が今それを許さない。
子供は成長を止めてはくれないし、そんな大事な命をどうするかの決断も私は数日内には決めなくてはいけない。
迷えば迷うほど負担は大きくなるばかりなのだ。

携帯を切って、すっかり食欲の無くなったお腹を軽くさする。
あの人の子が宿ってると思えば愛しいのは当たり前だ。
産んでやりたい。
でも、その為には記憶を失った彼の認知が必要になる。
まさか父親が明らかに分かっているのに、シングルマザーになるほど私も覚悟は出来ていない。

                       *

「もう1週間だ。どこか病気なんじゃないのか?」
如月さんがいい加減呆れている。
私が青い顔でトイレに駆け込むのを見るのはこれで何回目か。
まだ2ヶ月だっていうのに、体の反応が早すぎて私も戸惑う。
「すみません」
車に戻って、炭酸水を口に入れる。
食べるものは駄目だけど、薄くライム味のついた炭酸水だけなら飲めた。
シュワっとはじける口の感覚で、ぼんやりしていた脳が少し活性化される。
「舘さんとの事も悩みの原因なんだろうけど…社会人なんだからもっと責任持って仕事やれよ」
とうとう如月さんも耐えかねたように語気を荒くした。
プロ意識の強い彼の事だから、プライベートで悩みがあるぐらいで表にそれを見せるのはルール違反だと言いたいのだろう。
私だって聡彦との付き合いだけの悩みなら頑張っていたと思う。

でも…今の私は現実に厳しい精神状態にあり、体もつわりでひどい事になっている。

言い訳じみるから、どの事実も口にはしたくなかった。
でも、体調が悪い事は隠せないし…もう仕事を辞めさせてもらったほうがいいのかもしれない。

「あの。私の事をパートナーから外してくれませんか」
「どういう事?逃げるの」
「違います。この先如月さんにはもっと迷惑をかける事になると思うんです。だから…」
そこまで言って、何故か涙が出てきた。
こんな場面で泣いたら、何か意味がありそうで自分の中では必死で止めようとしていた。
なのに涙腺が勝手に緩む。
体力も無くなってるから、自分の心を制御できなくなっているみたいだ。

「後藤さん…何か本当におかしい。舘さんの事だけじゃなくて、他にも何かあるのか?」
急に声のトーンを抑えて、如月さんが優しくそう訊ねて来た。
「いえ、ちょっと。やっぱり体が調子悪いんです」
「病気?何の病気なの」
彼の質問の仕方は答えないわけにはいかない不思議な力がある。
私はその質問にも首を横にふった。
うまく嘘がつけない…頭がまわらない。

如月さんは私のどんよりした顔を見て、しばらく黙っていた。
日陰に停めていたから、冷房もかけてなくて、自然の風が送り込まれるように窓は全開になっている。
そよっと風がふくたびに、少し心も落ち着く。

「間違ってたら、すごく失礼なんだけど」
こういう前置きの後、彼は鋭く事実を突いてきた。
「まさか、舘さんとの間に命を授かったとか…そういう事は無い?」
「……」
どうして嘘を言えないんだろう。
違いますって一言言えばいいのだ。
それで、どうしても体調が悪いから仕事は辞めさせてもらいたいと言えばいいのに。

私の態度で如月さんの洞察が当たった事を知られてしまった。

「知ってるの、あの人は」
あの人というのは…聡彦の事だろう。
「いえ…とても言えません。記憶が無い事だけでも相当動揺させてるみたいだし」
「でも相手は明らかに彼なんだろ?」
「…はい」

車内に、何とも言葉に出来ないムードが漂った。
如月さんもさすがに言葉が出ないみたいで、軽くため息をついて外の景色を見ている。
誰にも…沙紀にすら私はこの事を内緒にしていて、絶対誰にも言わずにおこうと思っていた。
相談したって答えが出る問題でも無いし…相談された相手の荷が重すぎる。

なのに、私は如月さんにその重荷を少し背負わせてしまった。

「まさかと思うけど。産もうとか思ってないよね?」
「え?」
それは、この小さな命を消す覚悟の事を言ってるんだろうか。
私は如月さんの言葉で、とたんにパニックになった。
「後藤さん!」
号泣しはじめた私の肩を抱いて、如月さんが驚いて言葉を続けるのを止めた。
「ごめん、すごくデリケートな問題をあっさり口にしてしまった」
泣き続ける私の頭を撫でて、必死に彼は心を落ち着けさせようと励ましてくれた。

愛しい人の命。
あなたの事、消えて欲しいなんて思ってないのよ。
本当は聡彦と二人で「出ておいで」って迎えるはずだったの。

でもね、人の命をこの世に生み出すっていうのは…とても責任が重い事なの。
特にお父さんになる人の心っていうのは、努力無しにはなかなか育たないもので。
だから、私を愛した記憶を失った聡彦に、あなたの命を伝える事が出来ない。
ごめんね、すぐに愛してあげる余裕の無い私で。
せっかく選んで降りてきてくれたのにね。

号泣する中、私の頭の中はこんな思いで一杯だった。
今抱きしめてくれてるのが如月さんだという事すら忘れていた。

「後藤さん…ごめん。俺なんかじゃ代役にはならないだろうけど、あの人に打ち明けられない悩みは全部俺に言ってくれていいから。一緒に考えるよ…何かいい方法が無いか…考えよう」
如月さんには何も非が無いのに、何故か私に謝っていて。
それに私の事も一緒に考えてくれると言っている。

彼の優しい言葉で少しずつ落ち着きを取り戻し、私の気持ちがようやく現実に戻ってきた。

「ご…ごめんなさい。こんなの…誰にも話すべきじゃなかったのに…」
「一人で抱えるにも限度があるだろ。こんな大きな問題…一人じゃ抱え切れないよ。俺だってさすがに答えを出せって言われても即答は無理だし」

営業車の中で、私達はその後もしばらく無言だった。
如月さんは持っていたタバコを全てダストボックスに捨て、「禁煙するにはいいタイミングだったよ」なんて彼らしい口調で言った。

答えなんか出ない。
誰にもこの問題を解決させる事なんかできない。
私が…私が決めなければいけない事だ。
でも、その決意を少しだけ応援してくれる人が居てくれるのは…やっぱり心強い。

「とりあえずさ…体調は悪いみたいだから。俺と一緒ならカバーしてやれる。仕事無くしたらそれこそ生活が大変だろ?だから内勤では多少つらいかもしれないけど、このまま仕事は続けない?」
如月さんが現実的な部分の解決案を出してくれた。
相当彼には迷惑をかける事になるけれど、私が心を決めるまでの間どうしても彼の協力は必要だ。
「ありがとうございます。お医者さんからも決心は早めにって言われてるので…今週中には決断しようと思ってます」
「記憶があろうと無かろうと…舘さんには告げるべきじゃないの?後藤さんだけこんなに苦しんでるなんて、ちょっと俺としては納得いかない」
やや怒った調子で如月さんはそう言った。

聡彦に事実を告げる…。
でも、私への思いを忘れた彼にこの事を告げ、ショックを受ける姿を私は見たくない。
記憶を取り戻した聡彦以外、今の私を救ってくれる人はいない気がして…。
そういう微妙な心を如月さんは分かってくれるだろうか。

「あの人を信じてるなら…告げるべきだよ」

この言葉は結構重かった。
私を愛してくれた聡彦は、間違いなく私との子供が出来たら飛び上がって喜んだだろうと想像できる。
彼は記憶を失ったとはいえ、事実を突きつけられたら逃げようとはしないタイプだ。
きっと私を受け入れ、子供をも受け入れようとするだろう。
それが分かっているだけに、私は事実を告げられないでいるのだ。

「俺ももう少し考えてみる。とりあえず事情は分かって良かったよ…体は命に関わる問題なんだから…もっと大事にしろよ?」
「はい…ありがとうございます」

ぶっきらぼうだけど、私を本当に心配してくれている様子の如月さんの言葉に、私はまた少し泣きそうになっていた。

聡彦…。
あなたと会わなくなってまだほんの少ししか時間が過ぎて無いのに、もう何年も会ってないような気持ちになる。

会いたい…あなたの笑顔が見たい。

「菜恵」って呼んでくれるあなたの声が……聞きたい。

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