Smile!


8−1 記憶という障害

SIDE 菜恵

入院して2週間。
私の体は落ち着いていて、このまま自宅で安静にしていれば大丈夫だろうというお医者様からの判断が下された。
毎日のように聡彦は私の世話をしに立ち寄ってくれて、会社で起きた色々な話とかをして、笑わせてくれた。
如月さんは気を使ってくれているのか、あれ以来顔を見ていない。
それでも、聡彦に会うと「どう?」なんて様子は聞いているみたいだ。

「菜恵。仕事はどうする?」
聡彦が結構真面目にそう聞いてきた。
私の中では、もちろん子供を産むまではお休みする気持ちでいるけれど、如月さんが言った「辞めて欲しくないな」っていう言葉がひっかかっていた。
2年までの休職と産休が許されていて、私はそれを使って仕事を継続する事も考えていた。
「まだ決めてないけど、とりあえず休職届けは出すつもり」
私の答えに、聡彦は「そうか」とだけ答えた。
今の職場で産後も復帰する人は多くないから、私はちょっと異例のパターンになる。
しかも結婚相手が同じ職場に居るとなると、余計会社側からは嫌がられることが多い。

「式は体調の事もあるから、あまり具体的に考えてないんだけど。入籍はしよう。いつがいい?」
子供を一緒に育てるんだから、結婚するのも当然のなりゆきなんだけど、「入籍」という言葉が急に入ってきてちょっと戸惑う。
「聡彦に迷いは無いの?」
こう言ったら、聡彦は軽く怒った顔をした。
「俺が責任感だけで結婚しようとしてるって思ってるの?」
「ううん。そうじゃないけど…まだ急がなくていいかなって思って」
もっと関係を強くしてからの方が私も安心して彼と一緒の道を歩ける気がして、そう答えた。
聡彦も私の複雑な心を理解しようと歩み寄ってくれた。
「…そうだな。菜恵の心と体が完全に落ち着いた頃に、もう一度この事は話そうか」
「うん」

記憶はぼんやりみたいだけれど、自分でつけてた日記を見て私達がどういう付き合いをしていたのか、彼はだいたい分かってきたみたいだ。

「菜恵は、アニメオタクだって書いてあった。俺…それを知ったのがきっかけで菜恵を好きになったみたいなんだよ」
そう言って聡彦は笑った。
「今の聡彦は?こういう趣味の私をどう思う?」
同じ人だけど、その時の感じ方で色々思う事は違ってくる気がして、一応気持ちを確認してみた。
すると聡彦は笑顔のまま私の手を握った。
「今も昔も無いって。何度言えば分かるんだよ。菜恵の好きなもの、感じるもの。俺は無条件で全てを気に入ってた。今だって、同じだよ…俺をもう少し信用してくれない?」
「ごめん。やっぱ多少気になるんだよ」
「それはそうだろうけど…」

こういう言葉の後は、少し間ができる。
気まずい瞬間だ。
私がこういう時間を作ってしまっている気がする。
聡彦はなるべく昔の事でゴタゴタ考えないように未来の話をしようとするのに、私は過去を語ろうとする。

この違いが、お互いの関係を少しギクシャクさせていた。

「会社の人、他には来ない?」
間をごまかすように、聡彦が少し心配したような顔でそう聞いてきた。
「沙紀とルリちゃんは時々来るけど。他は…どうして?」
「いや、何でも無い」
私の耳に入れたくない情報でもあるんだろうか。
沙紀もルリちゃんも、特に何か不自然な話題は出してなかったし…。
私の中で、小さくはてなマークが出たけれど、あまり気にしないようにすぐ忘れる事にした。

                             *

退院が明日という時になって、突然沢村さんが訪ねて来た。
「お体いかがですか」
そう言って、綺麗なブーケタイプの生け花をテーブルの上に置いた。
彼女の顔は一応笑顔だったけど、何となく緊張した様子があって、私も身構えてしまう。
「ええ。明日退院なので…もうだいぶいいですよ」
「そうですか」
それだけ言って黙って椅子に腰を下ろすと、言葉を失ったように彼女は黙ってしまった。
「…どうしました?」
私の中で、沢村さんがここへ来た理由が何となく察知出来ていた。
どういう言葉になるのかは分からなかったけど、多分聡彦に絡んだ事なんだろう。

「聡彦の事で何か話したい事があるんですか?」
なかなか言い出せないでいるから、私は自分からそう聞いた。
すると、沢村さんはちょっと驚いた顔で私を見上げ、軽くため息をついた。
「…後藤さんの体が不安定な時に言うのはどうかと思ったんですけど。ちょっと気になったんで…」
そう言った彼女の顔は、いつもの優等生顔ではなく、結構険しいものになっていた。
それとなく私に対する敵意のようなものが見えていて、心臓が少し苦しくなった。

「言って下さい。何ですか?」

「後藤さんのお腹の子供って…本当に舘さんとの子供なんですか?」
「え?」
あまりにも想像外の事を言われたから、私は驚いて言葉が出なかった。
そこで、彼女の口から会社の中で流れている噂を聞いた。
私が身ごもっているのは如月さんとの子供で、聡彦を引き止める為に彼との子供だと言っている…みたいな噂らしい。

「記憶が無い舘さんは逃げるような事は言わない人だと思います。後藤さんが彼とお付き合いしていたのも知ってます。でも、如月さんと相当仲がいいのも噂になってるし…真実はどうなのかなって気になって」
「……」

沢村さんは若い。
初めて入った会社で、直属で優しく指導してもらった聡彦に特別な感情を抱いていても不思議は無い。
しかも、自分に少しでも可能性があるのなら、様々な理由を自分の都合のいいように解釈して好きな人を奪おうという気持ちなるのも若いからこその欲望なのかもしれない。

それにしても…私はこの質問にどう答えていいのか分からない。
まるで子供が出来たのをネタに、聡彦を陥れているかのように誤解されているのが我慢できない。

「どうやったら証明になると思います?」
私はこう答えるしか方法が無くて、そう言った。

「それは…後藤さんの良心だと思います。舘さん、頭を抱えて机で考え事をしてる事が良くあるんです。あれって、後藤さんの事で悩んでるんじゃないかって思って…。もちろん赤ちゃんは最優先されるべきものだと思いますけど…こういう状況で産む決断っていうのも…どうなんでしょう」

ここまで言われ、私は思わず頭に血がのぼった。

「あなたに何が分かるの?好きな人の記憶を奪われた事で、私があなたを責めた事あった?聡彦との思い出を奪ったのはあなたでしょう?しかも…変な噂にまどわされて、子供の事まで疑ってくるなんて。ちょっと常識無さ過ぎよ」
こんなに憤ったのは久しぶりで、私を責められたんじゃなくて子供の事を言われたのが何よりも腹が立った。
裏の事情を何も知らず、私がどれだけ苦痛を強いられたか分かってないこの若い子に…どう説明してやればいいのか分からなくなった。

「事故の事は謝ります。舘さんにも未だに謝り続けてます。私は今、後藤さんに相当失礼な事を言ったんだという認識もあるんですけど…私、舘さんを好きなんです。本当に…このままあなたと結婚してしまうんだと思うと目の前が真っ暗になるんです。それで、如月さんとの噂を聞いたので…勢いで来てしまいました」
「……」
やはり恋愛というのは利己的だ。
こんなにも残酷に、ライバルを蹴落とす手段を選ぶ事もいとわない。
記憶が無い聡彦の子供を産もうとしている私を責めているんだ…この子は。
聡彦を手に入れたいが為に、私を悪魔に仕立て上げる事を平気で出来てしまう。

何て悲しいんだろう。
恋って…何て残酷な事をさせるんだろう。

私が黙って目を潤ませたのを見て、沢村さんはハッと我に返った顔をした。

「ごめんなさい!私…最低な事言ってますよね。体調崩してるって分かってる後藤さんに対して…本当に最低ですよね。でも、舘さんを好きで…好きで。夜も眠れないぐらいなんです。それで、つい如月さんとの噂をまともに受け取ってしまったんです。すみませんでした…私が言った事、忘れて下さい」

そう言い残し、沢村さんは病室を出て行った。

彼女は純粋に聡彦に恋焦がれているんだろう。
あの年齢の恋っていうのは、盲目になりやすい…。
そうは思うけど、やっぱり私の胸に刺さった矢は鋭くて、強い痛みを伴っていた。

聡彦との関係を戻すこと。
彼との子供だという事を証明する事。

どれも今の私にはすぐ出来る事では無い。

会社でそんな噂が立ってしまったとなると…私は職場復帰も難しそうだ。
聡彦が心配そうに聞いてきたのは、こういう噂が私の耳に入ってないか気にしていたんだろう。

涙は枯れたと思っていたのに…まだまだ別ルートからの涙がこぼれ落ち、私の心を悲しみ色に塗りたくっていった……。

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