Smile!


8−3 雨が記憶していたもの

SIDE 聡彦

菜恵を守りたい。
そう思って必死に記憶をたどる毎日を過ごしていた。
如月との妙な噂が菜恵の耳に入ってなければいいと日々心配していて、時々昼休みを延長してアパートに様子を見に帰ったりしていた。

そのタイミングが悪かったのか、如月が菜恵を抱きしめている場面に出くわしてしまった。

如月の菜恵への気持ちは相当大きいのを知っていたから、瞬時に敵意が沸いた。
さらに、菜恵は俺と如月の間に入って、奴を庇った。
あの瞬間だ…俺が持っている本来の性格というか…性質が表面に現れたのは。
それまでは、どことなく別人を演じてる感覚だったけれど、“菜恵を如月に奪われるかもしれない”と思ったとたんに、あり得ないほどの嫉妬心が体を支配して動けなくなった。
菜恵だって俺のこういう性格が分かっていたからこそ、先に手を出すのは俺だろうという気持ちがとっさに働いたに違いない。

男としての余裕という面で言えば、確かに如月は相当大きいものを持っていると思う。
菜恵が抱えている大事な命が如月とのものだなんて事は1%も考えていないけれど、記憶を失ってからの俺に菜恵が不安を持っているのは確かだろう。

                        *

脱力した状態でフラフラと歩いていると、今まで快晴だった空がにわかに暗くなり、夕立が降りはじめた。
夏の終わりは、こういう雨が降ったり降らなかったりするうちに訪れる。
この夏、俺と菜恵はとんでもない運命のいたずらに翻弄された。

雨が音を立てて降る中、歩調を変えずにそのまま歩いていると、体が思い出を再体験しているような妙な感覚を覚えた。

雨…。
俺はいつだったか、同じように大雨だった日にこうやって立ち尽くして、絶望感の中にいた。
それで、大事な…心から好きな女性を待って、朦朧としていた。

その時のビジョンがフッと思い浮かぶ。

そうだ、あの時俺は菜恵を待っていたんだ。
今みたいに、菜恵を傷つけてしまった事への罪悪感をどう挽回していいものか…と、考えていた気がする。
もう二度と彼女には受け入れてもらえないのか…と。
別の男へ心は移ってしまうのか…と。
情けないほどになす術なく、雨の中、菜恵をひたすら待っていた。

体が覚えていた雨の日の記憶。

ずぶ濡れになった今、ハッキリと思い出した。
自分の傘を投げ出して、濡れている俺に駆け寄ってきてくれた菜恵の姿を。
ひどい言葉で傷つけたのに、無条件にそれを許してくれた彼女のあたたかい手の感触を。

「菜恵…」
俺は彼女を愛していた。
言葉にすると逆に彼女を失ってしまう恐怖を感じるほどに…好きだった。
他の記憶はまだぼんやりしていたけれど、あの雨の日に感じた菜恵への強い感情はハッキリと蘇っている。
間違い無い。
俺は、菜恵を心から愛し、一生共に歩こうと約束を交わしていたんだ。

でも、記憶を失ってからの俺は菜恵に安らぎを与えられなかった。
必死に昔の自分を演じていたのを彼女は敏感に感じ取っていたに違いない。
どこか表面的というか…他人行儀な俺の態度が小さな不安を呼んだのかもしれない。

如月を男として頼りになると彼女が判断していてもおかしくない。

まだ間に合うだろうか。
ハッキリと菜恵を愛していると言葉に出来る自分が戻った事を伝えたい。
今の菜恵には安定した環境が必要不可欠だ。
それを分かっていながら、さっきのようなシチュエーションを作ってしまった俺を、許してくれるだろうか。

男なんて、本当に勝手なものだ。
実際に子供を育て、産み出すのは女性の力だ。
言葉にできないその崇高な場面を想像するだけで、男というのがいかに情けない生き物かというのを思い知る。
菜恵が今からでも安心して子供を育てようという気持ちになってもらえるように支えるのが、俺の出来る唯一の事だろう。

仕事さえ出来ていれば、男としてはそこそこのラインに立っているだろうと思っていた自分のあさはかさを感じて、軽く笑いがこみ上げる。
人間の深さっていうのは、窮地に追い込まれた時に知られてしまうものなんだな。
俺の場合、自分で評価していたより相当浅いラインに生きていたというのを自覚した。

記憶を無くした男の子供を一人で産み育てようと覚悟をした菜恵。
彼女は見た目より、ずっと広くて大きな心を持った女性だ。

やっぱりそうだ。
俺の体が記憶している通りなんだ。
彼女が別の男と言葉を交わす事にさえ苛立ちを覚えるほどに、俺は菜恵を独占したがっていた。
だから、如月に対しては本気で殴りかねない感情が沸いた。

靴の中にも雨が入り、髪からしたたった雨が鼻筋を通って唇に落ちてくる。
夏の生ぬるい雨。
もっと俺の体を冷やしてくれ。
こんなにも弱くて情けない俺の羞恥心を、気化熱で奪い取って欲しい。

ぼんやり歩いているうちに、菜恵のアパート前までたどり着いていた。
玄関には涙をためたまま立つ菜恵の姿があった。

「菜恵…?」
「聡彦!!」

あの日と同じだ。
菜恵が自分の身を投げ出すように俺に抱きついてきた。

「雨で濡れる。駄目だ、菜恵…俺に今触れたら君が濡れてしまう」
慌てて体を離そうとするけれど、菜恵の細い腕は俺を捕まえて離さなかった。
「いいの。今は…聡彦を愛してるって事を伝えるのが先なの。如月さんに言われて、自分の本当の気持ちがハッキリ分かったの。ごめんね、私…少しだけ疑ってた。あなたが私のお腹の子を自分の子じゃないって少しは思ってるかもって…」
菜恵は濡れた俺の体をきつく抱きしめて涙ながらに、そう語った。

「馬鹿だな。そんな事は微塵も考えてないよ。ただ、あいつの方が男として懐は大きい気はしてて…つまり、大人げなく嫉妬したんだ」

屋根のある場所までゆっくり移動して、菜恵の体が冷えるのを避けるために合鍵で部屋のドアを開ける。

「嫉妬…。聡彦らしさが戻ってるね」
「俺、最悪なツンツン男だって言われたの思い出したよ」
何故か雨の日の記憶をきっかけに、ポツンポツンと小さな記憶が戻っていく。
「それだけ思い出してくれれば、もうほとんど聡彦が戻ったのと一緒だね」
クスッと笑って、菜恵はそう言った。
「そう?こんな俺でいいの?」
「ん…そんなあなただから好きなの」
綺麗な瞳を潤ませて、菜恵が俺を見上げる。
彼女の頬を両手で軽く挟んで、優しくキスをした。
記憶を失ってから初めてのキスだ。
今まで確実なものを思い出せなくて、ずっと彼女の唇に触れるのが怖かった。
でも、今はハッキリと菜恵を愛していると言える。

雨が…それを思い出させてくれた。

「寒くないか?早く暖かい服に着替えろよ」
そう言って体を離そうとしても、菜恵は俺にしがみついていて離れようとしない。
「暖かい…聡彦の心が伝わってきて、暖かいよ」
「菜恵…」

ずっと俺は言葉にしたらそれ以上を表現する手段が無いんじゃないかと勝手に思っていた事を口にしようという気持ちになった。
それは、この言葉の持つパワーを実感したからだ。
きっと、使う方法によってこの言葉のパワーは増したり減ったりするんだろう。

だから、今使うには相応しい言葉だと感じた。

「愛してるよ…菜恵」

俺は、やっと心からの愛を菜恵に語る事が出来た。


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