Smile!


9−4 分かり合えない人

SIDE 菜恵

どうしても気になる手紙。
聡彦はそれを開ける気配が無く、積み上げられた書類の間にはさまったままだ。

彼は、仕事から帰って来ると「変わった事無かったか?」と、必ず聞く。
以前よりも心配する頻度が上がった気がして、どうしたんだろう。

「開けないで忘れるって事は大した事無いんだよね」
なんて言い訳をしながら、その手紙の封を切ってみた。
中からは、3枚ほどにわたって書かれたちょっとしたラブレターが出てきた。
「沢村さん?」
手紙の一番最後に“沢村より”となっていて、もう疑う余地無しだ。

几帳面な字で、びっしりと書かれた聡彦への思い。
そこには、仕事を教えてもらった事へのお礼と、もしよければこうして時々手紙を書きたい事などが遠慮気味に書かれていた。
こんなに異性を好きになった事が無いから、自分でもどう処理していいか分からないとも書かれている。
彼女なりに、ギリギリなほど思い詰めているのが分かる文章だ。
聡彦はここまで膨れ上がった彼女の気持ちを知っているんだろうか。
家に戻ってからは沢村さんの「さ」の字も話題に出さないし、私からも何となく聞きにくくて、そのままにしていたんだけれど。
こういう手紙を見てしまうと、私も放置しておけない気持ちになる。

                           *

先週はお腹の子のエコーを見る為に、聡彦と一緒に病院へ行った。
彼がどうしても動いている赤ちゃんが見たいというから、少し恥ずかしかったけれど、電話で夫になる人が一緒に行く事を病院に伝えてから出かけた。
「俺が婦人科に足を踏み入れるなんて、一生無いと思ってたんだけどな」
さすがに女性だけしかいない待合室を見て、彼は足を一瞬止めた。
「私だって検査受けてるところ聡彦に見られたくないよ。でも、まあ…生命の神秘を見るのは悪くないと思うし。一度見てみて。すごく不思議な感じになるよ」
彼の手を握って、私の方が少し励ますかたちで待合室に入る。

エコー検査は、少し膨らんできた5ヶ月のお腹をさらして行われる。
にゅるっとしたゼリーみたいなものをお塗られて、するするとエコーがお腹の上を滑る。
「これが胎児です。順調みたいですね」
白黒の良く分からない画面の中でも、心臓のトクトクいっている様子は分かる。
聡彦は目を皿のようにしてそれを覗き込んでいた。
「えと、これが頭ですか」
「そうですよ。手も足もちゃんとありますしね。うちはカラーじゃないので分かりにくいかと思いますが…これだけでも結構人間の形をしているのは分かりますよね」
「はい。いやー…本当に人間が育ってるんですね」
すごく素直に驚いて感動している聡彦を見て、私はクスッと笑ってしまった。

一応流産の危険を脱したという事で、今までより精神的にも体力面でもリラックスして過ごして下さいと言われた。
「あまりにも怖がって動く必要はありません。ゆっくり長く散歩したりするのもいい運動ですからね。積極的に体を動かして下さい」
「はい」
私の代わりに、何故か聡彦が先生の言葉に対して返事をしている。
何が写っているのか分からないエコー写真を聡彦が欲しがるから、私はそれを普通に彼にあげた。
「どうするの?」
「日記に張る」
彼は記憶を失う前につけていた日記の続きを、まだ律儀につけているみたいだ。

「菜恵のご両親にも挨拶行かないとな。日程で都合のいい日を確認しといてよ」
お互いの両親には結婚して子供が生まれる事は伝えてあったけれど、まだ二人で顔をそろえて挨拶をした事は無かったから、そういう事もこれからはしていかないといけない。
「うちは近いからいつでも大丈夫だけど。聡彦は新潟でしょう?行くのも来ていただくのも大変だよね」
そう、聡彦は新潟の美味しいお米で育った人なのだ。
「ああ、弟に連絡してあいつの部屋に泊まれるようなら両親をこっちに呼ぶよ」
「でも、私も安定して来たし。もしよければ聡彦のふるさとが見たいなあ」

こんな具合に、私達の結婚準備は着々と進められていて、特に私は心配になる事無く毎日を過ごしていた。
でも、沢村さんの手紙を読んで、さすがに嫌な気分になった。
私と結婚する事と子供が生まれる事は職場では公に公表したと聡彦は言っていた。
という事は、そういう事実を理解した上で、沢村さんは聡彦に好意を伝えているのだ。

まさか、聡彦さえOKなら不倫とか浮気も可という考えの人じゃないよね…。

必要以上に心配はしていないけれど、私も逃げていないで、沢村さんにもう一度きちんと話した方がいいんだろうか。
人によっては、障害が多いほど恋心が燃える人もいるって言うし。
病院に来た時の沢村さんの言葉から察するに、あまり妊娠するという事に対してリアルに考えていない人のようだから、私が何か言っても逆効果なのかもしれないけど。

会えるかどうか分からなかったけれど、私は散歩の意味も含めて久しぶりに職場へ向かう為にバスに乗った。
なるべく多く歩く為に、職場の手前で降りてゆっくり木の葉の落ちる並木道を歩いた。
本当は沢村さんに会うなんて気が進まない。
出来れば会えなかったっていう結果で納得して、このまま帰った方がいいような気もする。
ただ、沙紀とかルリちゃんとか…懐かしいメンバーにはちょっと会ってみたい。

道端に落ちたイチョウの葉を拾い上げたりして、私は会社に近くなる毎に歩調を無意識に緩めた。

                            *

会社の門の前まで来てしまって、私はその先に進めずにいた。
すると、恐ろしくいいタイミングで沢村さんが郵便物を出す為に手に書類を持って外に出てくるのが見えた。
走り出しそうな勢いだったけれど、私が立っているのを見て驚いた顔をして足を止めた。

「お久しぶりです。こんにちは」
私は逃げるのはもう無理だと思って、軽く会釈をしながらそう言った。
「…こんにちは」
とても気まずい顔をして、沢村さんはそのまま私の横を通り過ぎようとした。
私とはもう何も話す事は無いという感じだ。
「あの。ちょっといいですか?」
私は慌てて彼女を止めた。
「急いでるんですが」
「お時間がとれないんでしたら、一緒に歩きます」
「……」
好きにすればいいだろうといった顔で、沢村さんはゆっくり足を進めた。
何を言いに来たんだっけ。
私は本人を目の前にして、言葉が出なくなった。
聡彦とどれぐらいの関係を保ちたいと思っているのか、もう必要以上に彼にアプローチするのを遠慮して欲しいとか…色々言いたいんだけど、いまいち言葉にならない。

「後藤さん」
沢村さんが顔色を変えずに私の名前を呼んだ。
「はい」
「私もあなたみたいに天然に弱い女に生まれたかったです」
「は?」
「演じてみても、弱いふりをした女には魅力は無いみたいなんですよ。だから、私…もう本来の自分で生活してます」
そう言った沢村さんは、確かに今まで見せていた大人しくて品のいい優等生というイメージとは異なっている気がした。

「私に舘さんへのアプローチはもういい加減にしろって釘刺しにいらしたんですか?」
ポストに郵便物をストンと入れ、彼女はきつい目線で私を睨んできた。
これが本当の沢村さんの顔。
自分の欲望が通らない事を猛烈に不服としているのが分かる。

「そうですね。簡単に言ってしまえば、そういう事になりますね。ただ、聡彦を好きなあなたの気持ちまではどうこう出来るものでも無いと思ってますけど…」
そう言ったら、彼女は馬鹿にしたように鼻でフンっと笑った。
「またそうやっていい人を演じて…そういうのがムカつくんですよね」
「え?」
「自分の男に手を出すなってハッキリ言えばいいじゃないですか。子供もいるし、結婚も決まってるんだから、別の男にすればいいのにって…ちょっと黒い本音も全部言えばいいじゃないですか。好きな気持ちはどうこう出来ないだなんて、綺麗事…聞くだけで鳥肌がたちますよ」
「……」

猛烈な嫉妬のエネルギー。
好きな人を失うのは確かにつらい。
でも、その好きな人が別の人と幸せになるのを、見えない場所で涙を流しながらも最終的には応援してあげるのが本当のプライドある人間の姿なのではないだろうか。

こんな理屈、沢村さんには通じないんだろう。
もう彼女の中では私の事は「敵」としてインプットされていて、そのポジションはどう頑張っても変えられそうもない。

不思議と腹が立ったりはしなかったし、この人から「ひどい事言ってごめんなさい」というような言葉を期待する気にもならなかった。

ただ将来、沢村さんが愛する人との間に子供が出来たら。
その時は多少私の気持ちを分かってくれるんだろうか。
いや、そんな事も期待してはいけないわね。

「私。舘さんが結婚しようと子供がいようと、多分彼を好きなままだと思います。彼にこれ以上嫌われたくないので、好きになって欲しいなんて事は二度と言いませんけど」
そう言い残し、沢村さんは私の目をちゃんと見ないまま走って行ってしまった。

私が走れない体だという事も、あの人はあまり分かって無い気がする。
好きな人を奪う大嫌いな女と口を利いて不愉快だ…という事しか彼女からは伝わってこなかった。

私はものすごい虚無感に襲われ、持ってきた沢村さんが書いた聡彦へのラブレターを細かく破いてコンビニに設置されたゴミ箱に捨てた。

私にだって黒い部分はある。
それが引き出されるほどの事態が今まで無かっただけで。
そういう意味では、私は出会う人間に恵まれて来たという事なのかもしれない。
沢村さんに対しては、全く正の気持ちは持て無い。
歩み寄ろうとか、分かり合おうとか…そういう気分にすらならない。

この世には、頑張っても分かり合えない人間がいるのだという事を知った。
同じ人間で、ほとんど変わらない環境で育った日本人なのに、言葉がかみ合わない。
ああいう人もいるんだな…という不思議な感覚と供に、沢村さんの事は私の中で”分かり合えない人”として処理されようとしている。


来た道を引き返しながら、一度聡彦と沢村さんとの事はちゃんと話した方がいいような気がしていた。
お互い嫌な気分になるのを避けるようにあの人の事は話題に出さなかったけれど、沢村さんの性格ならきっとこの先も聡彦への気持ちをあっさり諦めるような事は無いような気がしたから、私達の間で彼女への気持ちをちゃんと確認したいと思った。

着てきたコートの隙間から秋の風が入ってきて、少し体が冷えてしまった。
早く帰って、暖かいお茶でも飲もう。

そう思ってアパートまで帰りついたはいいけれど、久しぶりに多く歩いたのと精神的にやや負荷がかかったせいなのかお腹が少し痛い気がした。
もう今日は無理に立ち歩かない方がいいのかも…。

私はやや不安になって、聡彦に電話をしていた。

「菜恵、どうした?」
すぐに携帯に出てくれた彼の声は、何事かと驚いている。
「ごめんね、ちょっとお腹が痛くて。夕飯作れないと思うから何か買ってきて」
「え、病院行かなくて大丈夫なの?」
会社だっていうのに、結構な大声で心配している。
「うん。横になって安静にしてるから」
「早めに仕事終わらせて帰るから。また連絡する」
そう言って、聡彦の電話は慌しく切れた。

会社に出て行くなんて余計な事をして、聡彦には怒られるかもしれないな。
いきなりバスになんか乗ったから、赤ちゃんもビックリしたのかな。
ごめんね、無茶なママで。

子供を産むというのは、天から授かった新しい命を1年かけて守る重大な仕事なのだという事を、私は痛感していた。

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