草食系な君と肉食系な僕

1. 年下の上司

 クリスマス。本来なら、独身女の私としては……浮かれているべき時期だろう。
 去年は確か彼氏がいたような気がする。
 私の恋愛は短い。何となく付き合って、それで何となくデートを数回するとダメになる。

 理由は簡単。
 体の関係を求められると、拒絶してしまうからだ。
「男なんて、やる事しか考えてないのよ」
 ぶつくさと言ってみるけど……正直、体の欲求が無い方が異常なんだろうって私だって分かっている。
 好きな男性になら、自分の体を触らせるくらい平気なはずなのに。
 何でだろう。手を握って歩く程度で満足してしまう。
 それ以上の領域は、何か……生臭くて汚れた世界のような気がするのだ。
「幼少期に何かトラウマでもあったんだろうか」
 真剣にそんな事を考えてしまう。
 誰にも言えない……今年30歳になろうという私が、まだ男性経験が無いなんて。
 草食系男子っていう言葉が流行ってるようだけど、私は「草食系女子」なのだ。


 
 こんな寂しい冬を過ごしていたある日……私の直属上司が急きょ退職する事になった。
 正直、人員削減の為の肩たたきがあった様子だけれど、それは誰も口にしない。
「小島くんにはお世話になったね。これからも頑張って」
「ありがとうございます。部長もお元気で」
 送別会はものものしいからというので、部長自ら断ったようだ。
 誰もが不景気の波を感じて、暗い雰囲気に落ちていきそうになる。

 新しい人員を入れるはずもなく、私のいる営業部の統括は、若き副社長の影沼芯氏がとる事になったという回覧がまわってきた。

「影沼……」
 この人は本社に常駐していたから、直接話したりした事は一度もない。
 まだ29歳という若さだけれど、T大を主席で卒業し……海外のどっかすごい大学でも2年くらい勉強して。それで、大手企業で数年修行した後、1年前に副社長の椅子に座った。
 ものすごく切れるエリートだというのは知っている。
 さらに噂があるのは、仕事の素早さと同じほどに女性を口説くスピードも早いという事だ。
『副社長の女になるのはこの会社に入った女性のステータス』
 とまで言われているほどだ。
 私にはよく分からないけれど、一晩寝るだけで、相手の女性は彼に従属するようになるらしい。
 浸食するというか、相手の心を乗っ取るというか。とにかく、逆らえないような関係になってしまうと……。
 そんな事を聞くと、私みたいなタイプは会ってもいないのに嫌悪感が出る。
「影沼氏が私の上司だなんて……気が重いなあ」
 あっちにも選ぶ権利がある。
 私がターゲットになるなんて、決まったわけでもなく。ただ今まで通りの仕事をしていればいいのだ。
 そう思って、私は訳アリ上司が来る事を楽観的に考えようとしていた。



「影沼です、よろしく」

 短くて愛想の無い挨拶。
 これが営業部を統括する人間か……と思わざるを得ない雰囲気だ。
 顔に表情は無く、何かいかにも心が凍てついてるような男。身長は180を越えてるだろうというくらい高くて、バスケでもやっていたのかなと思わせるようなたくましい体をしている。

「面倒な挨拶は抜きで、もう仕事に入って。今までの部長とはやり方が違うかもしれないけど、これからは僕のやり方に従ってもらう」

「……」
 威圧的な彼の態度に、誰もが体を固くしているのが分かった。
 私だってこんな上司の下で働くなんて、本当ならゴメンこうむりたいところだ。
 年下なのに……2つも。
 なのに、私はこの生意気な上司の下で働かなくてはいけない。

 だいたい、私はブラコンで……年上の男性の方が好きなのだ。
 3つ年上の兄がいて、彼が最近離婚したから……私は兄の子供である甥っ子を可愛がっている。
 甥っ子は兄の子供の頃とそっくりで、今小学3年になる。
 夕飯の支度が間に合わない時なんか、私が兄のアパートに行ってご飯を作ってあげる事もしばしばだ。

「お兄ちゃんと暮らしたい」
 
 夕飯を一緒にとった夜なんかは泊めてもらったりするから、私はいつもこんな事をつぶやく。
 兄は不器用だけど、懐が広くて、優しくて……本当に素敵な人なのだ。実の妹がこんな事を言うと、友達は呆れるけど。

「アホ。俺と暮らしたりしたら、渚に彼氏できねえだろ?いい加減、結婚相手くらい見つけろよ」
「離婚したお兄ちゃんに言われたくないよ……」
「俺は結婚をした。子供もいて、満足だよ。たまたま嫁になった女とは赤い糸で結ばれてなかったようだけど……これはしょうがない」

 こんな会話を甥っ子が寝てから、布団の中でボソボソと展開させる。
 私だって分かっている。
 実の兄をいくら慕っても、それは男女の恋愛関係とは違うんだって。血の繋がらない他人としか結婚は出来ない。
 私は甥っ子もいるし、ある意味このまま兄と一生暮らしてもいいかなと思う事もあるんだけど。
 でも、兄は自分もまた恋愛するかもしれないし……やはり30を過ぎた兄妹が一緒に暮らすのは不自然だろうって言う。



 朝……甥っ子を学校に行かせて、兄はとっくに出勤。
 出勤時間までまだ少し時間があって、私は朝食の片付けをしながら思う。
「やっぱり一人は寂しいな」
 兄は容姿もいいし、多分そんな遠くない未来に新しい恋人を見つけるだろう。
 そうならなくても、私があまりここに入り浸るのは良くないって思ってる。
 だから……一人のアパートで、私は毎朝目覚めなければいけない。

 隣に愛しい人が眠っているって、どんな感じなんだろう。
 甥っ子と寝ていると幸せを感じるけど、これとは違う気持ちだろうか。
 体の関係に及ぶ前に恋人と別れてしまう日々を過ごしてきた私は、こんな事すら分かっていない。

「はぁ」
 コピーをとりながら、思いっきりため息をつく。
 不景気という理由で、私は今正社員から契約社員という状態に格下げになっている。
 1年更新だから、何かポカでもやれば来年からの仕事は打ち切られる可能性もあるわけだ。いや、ポカなんてやらなくても人員整理として捨てられる可能性もある。
 男に捨てられるならまだしも、会社から捨てられたら生きていけない。
 だから、私は無理な仕事も嫌な顔をしないで頑張ってやっているつもりだ。

 なのに、朝一番から私は影沼氏からクレームをいただいた。

「お客様から納品書が届いてないって電話があったけど?」

 唐突に疑問系でこんな事を言われた。
 そのお客様への納品書は後日発送という事で話してあったはずだったから、私はそれを説明した。でも、影沼氏の顔色は冷めたままだ。

「言い訳はそれだけ?」
「え?」
「客からクレームが来てるって事は、事情がどうあれこっちが悪いって事なんだよ。始業時間になったら、すぐに謝罪の電話して」
「……分かりました」

 以前の部長なら、クレーム電話は私のところまであまり回さなかった。
 実際、私が悪い場合は部長に謝ったりしたけれど。客の聞き違いというか……こちらの落ち度が低い場合、ここまで怒られる事はなかった。
 それでも、影沼氏が言っている事は間違ってなかったから…何も言い返せない。

 だからコピーをとりながら大きなため息が出たという訳だ。

「もーーー、ほんっとムカつく!!!」

 コピーを終えた紙を揃えながら、そうつぶやいた。
 すると、後ろから聞き覚えのある低い声がした。

「それって僕の事?」
「ぶ……影沼さん……」

 振り返って、私は腰をぬかしそうになっていた。
 今、心の中で散々罵った相手が目の前に立っているのだ……そりゃあ驚く。

「ムカつくのは勝手だけど。その資料早くしてくれない?もう会議始まるから」

 このスルーされた気分。何とも居心地が悪い。
 何にムカついたのか、もう少し追求してもらった方がまだいい感じがする。

「すみません……」

 紙詰まりとか、色々アクシデントがあったんだけど。それを言ったら、また言い訳になってしまうから、私は即座に謝った。
 すると、彼はふと私の頭に大きな手を置いてニコッと笑った。

「よしよし。素直な子は僕……好きだよ」

「!!」

 あまりの驚きに、私は再び腰を抜かしそうになる。
 そ、そうきたか!
 飴とムチの使い分けでも心得ているんだろうか。このスマイルは殺人的だ。
 普段全く笑顔を見せない影沼氏のくったくのない笑み。

 私が何も言えずにいるのを見て、もう一度クスリと笑って見せ、彼はそのまま資料を私の手から奪ってコピー室を出て行った。


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