ヴィーナス

Side 手島 陽 2


「・・・二人っきりに・・・なっちゃいましたね」
朝子が、ムードを高めるように、ちょっと大人目線を送ってきた。

朝子は、美月の親友だ。
しかも、この子の気持ちは4年前に聞いた。
メールをもらった時に、少しだけこの子を利用して自分の寂しさを埋めようとした自分が、猛烈に恥ずかしくなった。

朝子の目は・・・ストレートに俺を好きだと言っていた。
4年前の気持ちが、まだ継続してるんだとしたら・・・俺も早々に帰らないと。

そう思って、立ち上がろうとした。

「待って・・・もう少し一緒にいてください」
シャツの端を握られて、俺は一度立ち上がりかけた足を戻した。

「・・・何語ればいいの・・・?」
「別に・・・。何も語らなくていいです。私・・・一度、あなたとこうやって隣りあって座るの・・・夢だったんですよ。馬鹿でしょう?中学3年で玉砕した、生意気な女が・・・まだあなたを思ってるなんて・・・」

朝子の目は・・・必死だった。
俺が仮面をかぶってなければ、美月を見る目もきっと同じなのに違いない。
その悲しいまでに必死な彼女の目は・・・美しい黒曜石のように光っていた。

「俺じゃなくても・・・君なら、いい男をいくらでもつかまえられる。これからの大学生活で・・・きっと出会えるよ。東京は広い。人口もケタ外れに多い・・・急ぐ必要ないんじゃない」
知ったような事を言った。
今言ったのが真実なら・・・俺には今頃、美月を忘れられるほど好きな人がいるはずだ。
人口が多いからといって、それに比例して大事な人が現れる訳ではないのを体感していた。

東京の人口の多さに・・・逆に孤独感が増すぐらいだった。

すれ違う人間の9割以上がただ通り抜けるだけの関係。
押しつぶされそうな朝のラッシュにもまれるたびに・・・自分の存在の小ささを思い知る。
ゴミのように人間が集まっている風景は・・・俺を、猛烈な孤独感に陥れる。

「つらそうですね・・・。何かあったんですか?」

俺がしばらく無言でグラスを握り締めていたから、朝子が不安そうに覗きこんできた。

「いや・・・何でもないよ。ちょっと酔ったかな」
そう言って、また微笑を戻して朝子に向き直った。

まともに目線が合った俺達の間に・・・沈黙が流れた。

店のガチャガチャした音楽さえ遠くに聞こえて・・・二人きりだっていうのを体で知るような沈黙。

「好きなんです・・・どうしようもないです・・・この気持ち」
そう言って、朝子は・・・軽く俺の唇にキスをした。

一瞬だった。
恐らく、客の誰もが気付かないほどの、ほんの一瞬のキスだった。

俺は彼女の唇が離れてから、ちょっと時間をおいて言った。

「朝子ちゃん・・・。今のは忘れるから・・・もう俺を思うのは止めた方がいい」

それだけ言って、気持ちを入れかえるように手元の水を飲み干した。

「・・・」
朝子は・・・涙をこぼした。
気の強い朝子・・・。
俺が4年前に断った時ですら、泣かなかった強い女が・・・泣いていた。

「好きな人がいるんですね。誰も・・・隙間に入り込めないほど・・・好きな人がいるんですね」

その存在が誰なのかまで突き止めているのかどうかは分からなかったけれど・・・朝子は俺に揺らぎのない存在がある事を察知していた。
それを否定しても、また朝子を苦しめるだけだし・・・と思って、俺は素直にそれを認めた。

「ああ・・・いるよ。だけど、まあ・・・幻想を追ってるみたいなものだからね・・・。一生叶うことのない幻想」

「それでいいんですか?」

「え?」

朝子が、涙を拭って俺を睨み上げた。

「そんな・・・幻想だなんて言って、自分をごまかして・・・それで一生満足していけるんですか」
迷いのない・・・羨ましいほどのストレートさ。
そうか・・・この子は、武藤に似ているんだ・・・。
だから、美月は二人を好きになった。

俺は妙に納得した。

「満足しなくても・・・耐えなきゃいけないラインってあるだろう?それは・・・人間の宿命・・・みたいなもんじゃないかって思ってるよ。君みたいに全てがストレートに進められる人間じゃないんだ。外からどう見えるか分からないけど、俺はぐにゃぐにゃに曲がった性格だから」

他人に、ここまで自分の内側を話すのは初めてだった。
そういう意味で・・・朝子は、美月の次に俺の核心に迫る威力を持った女だった。

「そう・・・ですか。手島さんにそこまで思われてる人・・・羨ましいです」
それが朝子が俺に発した最後の言葉だった。

これっきり・・・朝子とは会っていない。
あの時、美月を心から切り離す覚悟で彼女を受け入れていたら、うまくいっただろうか。
少なくとも、朝子レベルの女性に会える確率はそんなに高くない。

俺は、ダイヤの次に輝く宝石を、自分から・・・捨てた。




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