ヴィーナス

Side 武藤 司 1

中学生になって、俺は陸上部に入った。
馬鹿の一つ覚えみたいに・・・俺は走る事が好きだった。
リレーでも、長距離でも、どんな種類でも「走る」っていうのが好きだった。
いつでも真っ直ぐに前を向いて・・・振り返る必要のないこの競技が・・・どうにも魅力的に感じたのは、俺の心がいつでも前を向いていたいというサインを出していた証拠なのかもしれない。

後悔は嫌いだ。
いつでも自分の全開の力で生きていたい。
それは子供の頃から漠然と俺の中で息づいていた。

父親がいない俺は、誰よりも早く大人になりたかった。
早く学校を卒業して、早く母親に楽をさせてやりたい・・・そういう思いが、無意識に俺を勝手に早く大人に仕立て上げていった。

自分ではそれほど自覚してなかったけれど・・・、どうにも同学年の友人としっくりこないところから・・・そういうのを漠然と感じていた。
だから、3年の先輩とかにも目をつけられて・・・生意気な中1が入ってきた・・・と、有名になってしまった。

俺は全くそんな気はなかったけど、どうやら俺のとる態度や目つきや・・・そういうのが先輩には生意気に写るらしかった。

それでも、俺は周りの干渉にも大して反応する事なく、毎日一人でグラウンドを走っていた。
こんな干渉は長くてもあと6年もすれば解放される。
大学にでも行けば、体も心もフリーになる。
その時こそ・・・俺は、思いきり俺らしく生きられる。

出来るだけ早く働きたいけれど、大学は出るつもりだった。
出来るならこの運動神経を使って金のかからない方法で進学出来ればいいなと思っていた。
すぐに社会に出る前にもっと見ておきたい事がある。体験したい事もある。
それで・・・オリジナルのスタイルを定着させたい。
どんな挫折にも生き残れるような・・・そんな経験を積みたい。

母親が、俺の為に学資保険に入っているのは知っている。
でも、それは妹の為に全部使ってくれって言うつもりだ。

本当は再婚して、もっと安定した生活をした方がいいんじゃねえの・・・なんて思う事もあったけど、母親は俺の父親以外を愛する気はないと言い切っていた。
その言葉は・・・息子の俺としては、かなり嬉しい事だった。
二度と会えない男を、一生愛し続けようっていう母親の心が・・・何故か無性に響いて、軽く泣きそうになったのを覚えている。


狭い土地での、狭い小学校生活。
それはそのまま中学生活でも続いていた。

もう7月・・・っていう、暑さが体にこたえる季節に入っていた。
俺が一人で走っている脇の土手で、時々手島が座って読書しているのが見えた。
古谷が弓道部に入っていて、その練習が終わるのを待っているみたいだ。

「なあ・・・手島、お前部活やらねえの?」
走る合間の休憩中・・・ちょっと声をかけてみた。
すると、手島は本から目を離して俺を見た。

「私?一応・・・吹奏楽部には所属してるけど。なじめなくて・・・練習サボってるんだ。だから、幽霊部員ってやつ」
別に暗い調子じゃなくて、手島はのんきそうにそう言った。
こいつは・・・転校してきてから、まるっきり古谷以外の奴と友達になる気がないように見える。
にしても・・・吹奏楽部?
俺にはあり得ない選択肢だ。

「お前・・・楽器とかできんの?」
「うん。ピアノはまだ習ってるし・・・運動が出来ないから、音楽と読書ぐらいかな・・・趣味は」

その言葉に・・・俺はちょっと新鮮な響きを感じた。
そっか・・・この世には、読書したり音楽を奏でたりするのが趣味な奴もいるんだよな。
そうだよな・・・俺みたいに、走るばっかりが趣味っていうのも珍しいのかも。

「ピアノ弾けるなんていいなあ・・・聞かせてもらいたいよ」
素朴に、そう思ったから言ったセリフだった。
本当に弾いてもらおうとか・・・は、別に思ってなかった。
なのに、手島は俺の言葉を本気にして「じゃあ、うちに来る?」とか言い出した。

「え・・・、お前んち・・・?」
小学3年からの付き合いで・・・、俺達は自然に会話できる程度にはなっていた。
でも、家に遊びに行くなんていうのは、ちょっと想像もしてなかった。

「ん。朝子はまだまだ部活で遅くなりそうだし・・・一緒に帰れるなら・・・来ていいよ」

「ああ・・・そう?」
何だか良く分からないけど、陸上部って言っても個人で勝手に走ってるだけだったから、俺は問題なく部活を切り上げて帰ることにした。
先輩連中は遠くで睨みをきかせてるけど、そんなんは無視した。



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