ワンルームで甘いくちづけを

3誘惑

3−4

 お気楽に一人暮らししていた時とは一転して、優耶と一緒の休日は色々にぎやかだ。
 お互いに「ちゃん」とか「くん」をつけるのも面倒になって、最近では名前を呼び捨てにしている。
「菜都乃〜起きて〜!ブランチはフレンチトーストだよ♪」
 こんな事を言って、こんがり焼けたフレンチトーストをテーブルに並べてくれる。コーヒーも上質な豆を買ってきて、幸せを感じざるを得ないような香りを部屋中にただよわせる。
「すごくいい香り」
 まだパジャマ姿の私を見て、スウェット姿の優耶はクスッと笑いながら近づいてくる。こんな時の彼は天使そのもので、私をどうにかしようなんて悪魔な心を持っているようには思えない。
「いい香りなのは菜都乃も一緒……女フェロモン感じる」
 そう言って、彼は私の首筋にチュッとキスをした。
 ビクンっと反応してしまう自分が恥ずかしくて真っ赤になってしまうんだけど、そんな私を見ているのも楽しいみたいだ。
「ほら、ブランチ食べたらデートしに行くんだからさ。早く食べようよ!」
「え?」
 今日は土曜日で、確かに私に予定はない。でも、優耶とデートするなんて約束はしていない。
 でも……何故か優耶の中では私とのデートは確実なものになっている。
「ど、どこに行くの?」
「ん……菜都乃が行きたいって思ってるところでいいよ」
「……」
 私が行きたいところ。
 男性とどこかに行きたいなんて思った事はなかったけど……兄と最後に行った遊園地は私の心には焼き付いていて。
 一人であそこを訪れる事は二度とないと思っていたけど……。
 もしもう一度行けるチャンスがあるならって思ってた。
「後楽園遊園地……」
 私が具体的に場所を言ったのが不思議だったのか、優耶は少し目を大きく開いた。
「東京ドームのある、あそこ?」
「うん」
 “行かない”っていう選択肢をとると思っていたらしき優耶。私が行きたいなら、遊園地行こうって即答してくれた。
「実は僕もさ、ずいぶん前に名前も忘れたけど……とにかく女に付き合って後楽園は言った事あったんだけど」
「そうなんだ」
「あの時は何か……全然面白くなかったけど、菜都乃となら楽しめそう」
 そう言って彼はどんな女性も瞬殺してしまうような笑顔を見せた。
(この笑顔に騙されたらダメ。彼は私を陥れる為にこうやって誘惑してるんだから)
 言い聞かせるけど、優耶の笑顔は本当に素敵で、そこは素直にそう思ってしまう。

 コーヒーのくゆる湯気を眺めつつ、私は兄と暮らしていた幸せな過去を思い出していた……そして、その最高に幸せな日々が終わる事を予感し始めた頃の事も。
 兄が入院するちょっと前。彼の方から私にどこか行きたいところはないかと言ってきた。
 なんか……それが兄との最後のお出かけなの事は私も薄々感じていた。だから、思いっきり外で楽しい思い出が欲しいと思った。
 それで乗ったのが、あぶなっかしい籠みたいなのに乗せられて上空まで連れて行かれ、頂上からスーッと落とされるパラシュートだった。
「怖い!」
 景色がどんどん変わり、今まで自分の目線にあったものが小さくなっていく。
 その光景に思わず目を閉じた。
「菜都乃……総武線が見えるよ。ほら」
 こわごわ目を開けるとそこには、おもちゃみたいに小さくなった総武線が走っていた。
 兄を見上げると、切ないほど遠い目でその景色を見る姿があった。
(そんな顔しないで)
 私は怖さも忘れて、兄が遠くに行ってしまうような感覚に胸が押しつぶされそうになった。
「こんな高さより俺は、もっとずっとずっと高いところまで登るんだ……菜都乃、お前の事はいつだって見てる」
「やめて、そんな事言わないで!」
 パラシュートが降りる寸前、私は兄にすがって泣いた。
 兄と別れる。それは随分前から言われて分かっていた……でも、認めたくなかった。
(今、こうして抱きしめてる。元気に話をしてる……こんな愛しい存在が居なくなるなんてあり得ないよ)
 そう思って、私はアトラクションが終わった後も、しばらく涙が止まらなかった。
 
「菜都乃……どうしたの?」
 フレンチトーストを食べながら私が涙をボロリとこぼしたのを見て、優耶は少し驚いた顔をした。
「ん……何でもない」
「何でもない人が涙流さないでしょ……遠慮せずに泣きなよ」
 そう言って、彼は私の頭をクシャッと撫でてくれた。
 この仕草は兄もよくやってくれた仕草。
「うっ……兄さん……」
 優耶くんなんか、私を困らせてばかりのやなやつって思いたいのに。こういうところで胸に迫る絶妙な仕草をするから……心が変な感じに揺れてしまう。
「菜都乃の兄貴の事思い出してたの?」
 優耶の言葉にコクリと頷く。
「兄さんが……もう戻ってこないのを受け入れられない私って。おかしいのかな、やっぱり」
 鼻の頭を真っ赤にしている私にティッシュを手に握らせながら、優耶が私をギュウッと抱きしめた。そして、予想もしていなかったような言葉を口にしたのだ。
「僕は菜都乃の兄貴みたいに高尚な人間じゃないけどさ……大切な人を一途に思う菜都乃の心には本気でシンクロしてるんだ。それだけは分かって」
「……」

 斗真さんにはない心の底から誰かを愛すると言う心。
 何故か優耶にはそれがしっかり備わっていて……彼がどれほど心を痛めながら斗真さんを想ってきたのか。それが分かるような言葉だった。

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