ワンルームで甘いくちづけを

3誘惑

3−5

 久しぶりに訪れた後楽園遊園地。
 子供たちが寒空の下だというのに、キャアキャアと嬉しそうに悲鳴をあげている。
 音楽に合わせて水が飛び出すシステムになっている装置があって、そこは無料で遊べるのだ。兄があそこでずぶ濡れになって笑っていたのを思い出す。
『兄さん馬鹿な事やめて、風邪ひいたらどうするのよ』
 こう言った私に、悲しい笑顔を向けた彼。
『俺は風邪なんかに負けないさ、もっともっと強くなりたい。強い体で菜都乃を守りたい』
 したたる水をその黒くのびた前髪から垂らしながら……彼はそう言って微笑んだ。
 私は分からなかった。
 どうして兄は恋人を作らないんだろうって……とても頭が良くて頼りがいがあって、本当に素敵な男性なのにって。でも、一度職場で倒れたというのを聞いて病院に駆けつけた時に全てを知った……彼は恋人を“作らない”んじゃなくて“作れない”のだという事に。
『菜都乃は幸せになれよ……花嫁姿が見たいけど、それまで俺はこの目をこの世に残していられるかな』
 こんな事を言った兄に、私は “馬鹿言わないでよ”なんて笑った覚えがある。ショックが大きすぎると、人間は笑うしか方法が分からない……それを身をもって知った。

「菜都乃が乗りたいって言ってたのは、向こうの……あのパラシュートのやつでしょ?」
 優耶の声にハッとして、私は子供に向けていた目線を外した。
 指さされた向こうの景色には、確かに数年前に兄と乗ったアトラクションが見えた。兄はもうこの世にいないのに、彼と載ったパラシュートは未だにたくさんの人を乗せて何事も無かったように動いている。
「そう……あれだよ」
「よしっ。乗ろうよ!」
 私の手を引いて、そのアトラクションに向かう優耶は本当に遊園地を楽しんでいる様子だった。でも、私の心はそこに近づく毎に苦しくなっていく。
「……駄目」
「え、どうしたの?」
 立ち止まって胸を押さえた私を見て、優耶も足を止めた。

 もう一度ここに来れば、少しは兄を思い出にできると思った。
 なのに、兄の残像はまだここに生きていて……その色を全くあせさせない。
 カラフルなまま、私の心に輝いてる。忘れられっこない……思い出になんてできるわけない。

「ごめん、私……乗れない」
 引き返そうとした私の腕を、優耶が強く引きとめた。驚いて彼の顔を見ると、優耶は真剣な眼差しで私を見ていた。
「逃げるなよ。菜都乃の中にある幻影を……追い払え」
「幻影じゃないよ、兄さんは……!」
「幻だろう!?菜都乃の兄貴は死んだんだろう?」
 そこまで言ったところで、私は優耶を激しくぶっていた。
「……」
 シンとした間があって、私は小さい声で“ゴメン”と言った。でも、優耶はそれに対して怒っている様子はなくて……逆に私をさらに強い力でアトラクションへと向かわせた。
「報われない恋なんて……この世から消えればいいんだ。苦しむのは僕だけでいい」
 こんな事をつぶやきながら、優耶は私をとうとう兄と乗ったあのゴンドラの前にまで引きずるように連れてきた。
「僕がいる……大丈夫だよ」
「……優耶」
 魔法にでもかかったみたいに、私はそのままゴンドラに乗り……あの日と同じように天高く後楽園の上空に舞い上がった。
 小さく見える総武線も。
 ジオラマみたいに動く人の動きも……あの日と同じ。
 でも、隣にいるのは兄さんじゃなくて……。
「怖い?」 
 そう言って微笑む優耶は私肩をぐっと掴んでくれていて、妙な安心感があった。
「怖くない……気持ちいいかも」
「でしょ、乗ってみれば世界が変わるだろうなって思ったんだ」
「うん」
 2階登ったり降りたりを繰り返したら、そのまま私たちはあっけなくゴンドラを降りた。

 結局乗ったアトラクションは一つだけ。
 その後は優耶の誘いでゲームセンターでエアホッケーとかをやって、一瞬だけど……心を真っ白にする時間を持てた。
 おかげで、兄を思いだして涙をする暇も無かったぐらいだ。
 まるで悲しんでいるのは見当違いで、私はもっと幸せになるべきなのかもしれない……そんな気持ちさえ沸いていた。
(優耶は天使なの?悪魔なの?)
 心の混乱はどんどん激しくなる。

 アパートに戻り、夕飯の支度を始めようとした私を優耶が後ろから抱きしめてきた。
 フワッと彼の暖かい温もりが伝わってきて、思わず心臓が跳ね上がる。
「何、どうしたの?」
「菜都乃……勘違いしたかなって思って」
「何を?」
 私をくるりと振り向かせると、優耶はその整った綺麗な唇をそっと重ねてきた。
 とろけるように甘いキス。
 これは彼の天性の才能なんだろうか……どう堪えようとしても甘いうずきに襲われるのを止められない。
「こういう事すれば、愛があるとでも思う?」
「……どういう事?」
「愛はなくてもセックスは出来るんだよ。証明してあげる」
 カチリとコンロの火を止めて、優耶はまだひんやりしている部屋の片隅で私をどんどんキスで溶かしていく。
(ダメ……この誘惑に負けては……駄目)
 そう思うのに、優耶のキスはその悪魔的な言葉とは正反対に優しく……魅惑的で……自分が女なのだという事を初めて実感させられるものだった。


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