Smile! 新生活編2


13−5 犬も食わない…… SIDE菜恵

 見られてしまったムーンライトさんとの交流。
 仮想空間な上に相手の本名も住んでいる場所すら分からない。ただ、日ごろのちょっとした愚痴や悩みを聞いてもらっていた。
 聡彦が忙しいんだから私は我慢しなくちゃって……気を使っていたつもりだ。
 なのに、彼は私が浮気でもしたかのような勢いで怒っている。
「何も変なことしてないよ……チャットしてるだけ」
「チャットだけでも心は通わせられるだろ?俺がいるのに……何でそいつに話すんだ」
「話したくても、聡彦はいつだって忙しいじゃない」
 穏やかに話そうと頑張った。
 私が少し育児疲れを出している事も、この際言ってしまおうと思っていた。
 なのに、彼は私に言葉を挟ませない。
「……夫婦って、脆いよな」
「何それ?」
 まるで別れるみたいな言葉が出て、私は驚いて彼を見る。
 無表情の……冷たい顔。
 この整ったシャープな顔が彼の最大の魅力なんだけど、今はまるで人形でも見ているかのように感情が伝わってこない。
「もうやめよう、この話は」
「え?」
 何も結論が出ていない。
 私の心の中身も聞いてくれない。
 聡彦は自分を差し置いて別の男性に私がアクセスしていたのが気に入らないんだろう。それは手に取るようによく分かる。
 でも、無言で背中を見せられ、そのまま食べ終えた茶碗を洗いだした彼を見て……思わず涙が溢れた。
(聡彦の背中が責めてる)
 そう感じ、私はそれ以上声をかけられずに和彦を抱いて寝室に入った。
 私は……妻としてそんなにひどい事をしただろうか。仕事に育児にと追われ、話し相手になってくれる人が欲しかった。
 必ずしもパートナーが全ての話し相手である必要はないはず。
 しかも会う事など絶対無い仮想空間でのチャットが、どうしてここまで責められる原因になるのか分からない。
(あんな冷たい聡彦と一緒の空間にいるのは耐えられない)
 こう思って、私は手早く外に出る用意をし、まだキッチンで洗い物をしている聡彦に気付かれないよう外に出た。
 どこに行こうなんて宛てはない。ただ、外に出て新鮮な空気が吸いたかった。
 
 空を見上げると、月が綺麗に浮かんでいた。
「和彦、お月様だよ……綺麗だね」
 こうして何気ない会話をゆったりとする時間が欲しい。
 私の願いはただこれだけだった。

 再び涙が溢れ、頬を伝って路面にポタポタ落ちるほどだった。
 和彦の前で泣いちゃいけないって思うけど、こうしないと私の心が崩れてしまいそうだったから……思う存分泣いた。

「菜恵っ!」

 後ろで聡彦の声がして、驚いて振り返った。
 すると、そこには血相を変えた彼が息を切らせて立っていた。
「どこに行くんだ?」
「……何となく外に出たかったの」
 私がぐしゃぐしゃに泣いているのを見て、彼は黙ったまま和彦を抱いた私を抱きしめた。
「急にいなくなるから、心臓が止まるかと思ったよ」
「うん、でも……怒ってる聡彦の背中見るのつらくて」
「……ごめん、いつもの悪い癖だ……菜恵が他の男と接触すると自分じゃないみたいになる。抑えようと思うのに、どうにもならない」
 聡彦なりに自分の感情コントロールがうまくいかない事を悩んでいる。
 何度もこんなのを繰り返して、でも抱きしめられるとやっぱり安心して。
 どうしようもない。
 これが愛してしまったっていう事なんだろうから。

「ムーンさんは本当に仮想空間で雑談するだけの人なの。相手が男性だとかあんまり考えたこともない……でも、聡彦には面白くないよね。ごめんね」

 和彦は聡彦が抱っこして、私と聡彦は肩を並べてアパートに戻る道を歩いた。
 聡彦は黙ったまま頷いている。

「あとね、私……和彦の事と家の事と仕事で……ちょっと疲れてるみたい。聡彦ほどハードな仕事をしているわけじゃないけど、心が疲れてるっていうか」
「分かってる……菜恵が全部背負って家の事をやってくれてるのは、分かってる。なのにうまくカバーしてやれなくてごめん」
 そう言った聡彦の瞳の中には、ほんのり暖かい炎が秘められていた。
 私の大好きな……聡彦の瞳。
「もっと菜恵の気持ちを聞くよ、だからあのムーンライトとかいう男とは……」
 やっぱりムーンさんを快く思わないのは変わらないみたい。
 私は涙目のままクスッと笑った。
「分かった、事情を話してあのサイトから退会する。聡彦をこれ以上怒らせてもいい事ないしね」
「……嫉妬深い男で悪かったね」
「あは、妬いてもらえるうちが華かな」
 こんな会話ができて、何となくお互いにトゲトゲしたものが消えた。

「和彦は寝てしまったし……今夜は恋人みたいに菜恵と過ごしたい」

 そっと私の頬にキスをし、聡彦が優しく微笑む。
 ちょっと照れながら、私もコクリと頷いて同じように聡彦の頬にキスを返した。

 犬も食わないと言われる夫婦喧嘩。
 でも、こうやって少しずつ相手を思いやる気持ちが育てば……それは深い絆になるんじゃないかな。


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