草食系な君と肉食系な僕
10.渚の妄想
ようやく体調が戻って来て、以前と同じように働けるようになった。
影沼氏は忙しくて、私の調子がいいのを確認して以来ちょっと冷たい。
「渚ちゃん、お兄ちゃんいないから寂しいの?」
私が雑巾がけ最中に大きなため息をついたのを見ていて、悠里くんがこんな大人びた質問をしてくる。
「いや、寂しくないよ?ていうか……悠里くんこそ、学校に行かなくて寂しくない?」
自分の心を見透かされるのが怖くて、私はこんな切り替えしをした。
すると、彼は少し考えるそぶりをして「そうだなあ……少し寂しいかな」なんて言った。
本当なら小学校で同じ年の子と走り回っている年頃だ。
頭脳は明晰だし、性格も温厚……顔も整っているから、本当ならクラスの人気者になるのは間違いないのに。
「あ、じゃあ…うちの公輝を連れてこようか?」
思いつきで、甥っ子を招待してみようかという気になった。
3年生だから、悠里くんにとってはちょっとお兄さんになるけど……多分ゲームなんかだといい対戦相手になるはずだ。
「渚ちゃんの知り合い?」
急に警戒するようなそぶりを見せる悠里くん。
彼は見知らぬ人に会うのを極端に恐れている。私にすぐなついたのは、とても稀な事だったようで、影沼氏は相当根回しして私を良く紹介してくれていた。
「ええとね、私の甥なの。今、小学3年生。ゲームが得意で、優しい子だよ」
「そうなんだ……」
あまり乗り気じゃないようだったけど、一度会わせてみてもいいかなって思った。
公輝は実際、兄よりしっかりしたところがあって、年下の面倒を見るのが得意だ。
最近は少年サッカーなんかで忙しくしているみたいだけれど、週1回くらいなら呼ぶ事も可能だろう。
ただ、これを影沼氏に黙ってやるわけにはいかない。
兄に電話してみると、今日はちょうど公輝がサッカーの練習をサボって暇してるという事だったから……初めて影沼氏の携帯に電話をしてみた。
携帯片手に、じわっと汗がにじむ。
機嫌が悪かったらどうしよう……仕事中の彼の怖さを知っているから、かなりドキドキだ。
―――― トゥルルルルル
ダイヤルして、数秒で彼の携帯に繋がった。
どうせなら留守電になっていてくれたら助かったのだけど、何故か彼は2コールほどですぐに電話に出た。
「はい。影沼ですが……何か用ですか」
仕事中の声だ。
多分デスクについてるんだろう、私からだというのが悟られないような応対をしている。
「あ、あの。悠里くんが寂しいみたいなので、私の甥っ子と今日遊ばせようと思うんですが。いいですか?」
「……別にかまいませんが」
「ありがとうございます。じゃ、そうしますんで」
特に他に用事が無かったし……そのまま電話を切ろうとしたら、彼はそれを止めた。
「ちょっとお待ちいただけますか」
「は?はい」
どうやら携帯を持った状態で場所を移動しているようだ。
鬼の影沼が、強制退職させた私と通話してるなんて、誰にも知られたくないだろう。
ちょっとの間があって、どうやら静かな個室に入ったようだ。
「ねえ、渚」
いきなり馴れ馴れしい口調に変わった。
「な、何ですか?」
「職場で渚の声聞くの久しぶりで、ちょっと嬉しかったよ」
声がややセクシーめいていて、私の額は汗びっしょり。
でも、心臓がドキドキするのは止められない。
「ちょ……何言ってるんですか」
「僕が最近かまってやってないから、寂しくて電話してきたのかと思った」
悠里くんに言われたばかりで、さらに本人にまで言われた。
そんなに私は影沼氏を慕ってるように見えるんだろうか。
「違いますよ……とにかく、公輝に会わせるのを許可してもらえるようなので。ありがとうございます」
早くこの電話を切らなければ。
自分の本心がポロッと出ないとも限らない。
私は影沼氏に自分の心が傾いてる事を察知されたくないのだ……だって、恥ずかしいし。何より、彼に勝ち誇った顔をされるのが悔しい。
ここまできても、私はまだ男嫌いを通そうと必死だ。
その時……電話の向こうで思いがけない優しい声が聞こえた。
「ありがとう」
「え?」
かなり真面目な調子で感謝の気持ちを伝えられたから、私は思わず体に電気が走ったみたいに動けなくなった。
大嫌いな上司で、もう…首でも締めてやろうかと思ったくらいの人なのに。
オフの顔は、やたら色気があって……魅力的に変身してしまう不思議な人。
この「ありがとう」にも、かなり色々な感情がうごめくものがあって……私は返事をすぐできなかった。
「悠里の事、大事にしてくれて……助かってる。悠里との相性が悪かったら、メイドを頼むのも辞めようって思ってたんだけど。やっぱり君を選んで良かった」
「は…はあ…ありがとうございます」
紳士的な優しい声。
もっと意地悪を言ってくれた方がこっちも応戦しやすいのに、こんなに優しいと私も調子が狂ってしまう。
「今の仕事がひと段落したら、一緒に外食でもしよう。お姫様みたいに扱ってあげる」
「ぷ……お姫様」
笑うしか、この状況をしのぐ方法が分からない。
とりあえず彼が冗談を言ってるんだという設定にしておかないと……。
「じゃあ、仕事に戻るから。一応仕事中は、ああいう応対になるけど…あまり気にしないで」
「分かりました」
やっと通話が切れて、私の汗も止まった。
悠里くんの事だけを伝えるつもりが、二人で外食しようっていうような会話にまで繋がってしまった。
「本気だろうか」
お姫様みたいに扱ってくれるって?
私を可愛いって言ってくれた人だ。さっきのも冗談ぽくは聞こえなかった。
柄にもなく、私は照れてしまって……しばらく携帯をいじりながらその場でウロウロしていた。
※
公輝が屋敷に来て、早速悠里くんと対面した。
「僕、小島公輝っていうんだ。悠里くんだよね?よろしく」
慣れた調子で公輝はオドオドしている悠里くんに手を差し伸べている。
その手を握って、悠里くんも照れ笑いをする。
「悠里くんゲーム得意なんだろう?一緒にやろうと思って僕のも持って来た」
そう言って、公輝は自分のDSを出して見せた。
とたんに悠里くんの目が輝いて、「一緒にやろう!」なんて言って二人は元気に悠里くんの部屋に入っていった。
心配してなかったけど、やっぱり公輝は誰とでも仲良くなる才能があるみたいだ。
あの雰囲気は適当星人の兄とは少し違うけど…人なつっこいのは受け継いでいるんだと思う。
とりあえず公輝が悠里くんの相手をしてくれているから、私はいつもの仕事が急激に減った。
二人の為におやつを出すぐらいしかやる事がない。
『ありがとう』
影沼氏の優しい感謝の声が私の頭の中でこだましている。
営業で見せる上辺の声でもなかったし、社員に対して告げる抑えた声でもなかった。
“素”の彼。
悠里くんを大事にしている……優しいお兄さんの声だった。
「やだ……何であんなに反則な事言うのよ。あの人は」
身分違いだ。
私は影沼氏の使用人なのだ。恋なんかしたら…きっと、とんでもなく深い傷を追う。
それが怖くて、私は必死でこの気持ちを外に出すのをこらえている。
なのに……一緒に外食なんかして、いい雰囲気になったらどうなってしまうんだろう。
エスコートは上手な気がするから、お酒でほろ酔いになったら…本音を言ってしまいかねない。
「コース料理だったら、ワインは断ったほうがいいな」
もう私はすっかり一緒に食事に行く気になっていて、そんな自分が笑えてしまう。
目の前でちょっと意地悪に微笑む影沼氏の顔が想像できてしまう。
『召し上がれ……お姫様』
こんな言葉がサラッと出そうで、怖い。
それで、この言葉の後に……私は彼に食べられるんじゃないだろうか。
「いや!そんなに私は流されやすくないはず。大丈夫。アルコールさえ無ければ、彼の攻撃を交わして見せるわ」
変な闘争心を燃やす私。
食べるか。食べられるか。
もう、これは草食動物と肉食動物の戦いのような気にすらなる。
私は逃げきれるだろうか?
あの女キラーの影沼氏の猛攻撃を受けて、逃げられる人などいるんだろうか。
冗談だったかもしれないのに、私の頭の中は…すっかり影沼氏とのデートモードになっていた。
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